先生、わがまま聞いて

香桐れん

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<十> 綻び

27 綻び ①

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     27 綻び
 
 磨りガラス越しに明かりが灯って見えるのは遠目から確認していたし、登校時には先生の車がいつもどおりに駐車場に停められているのも確かめていた。
 だから、ためらいはなかった。
 瑛斗は準備室の前に立ち、ノックをするかたちで握った拳を、しかしドアの前でとっさに止めた。
 室内からひとりのものではない話し声がかすかに漏れ聞こえてきたからだ。
 ひとつは男のもので、しかもその声には聞き覚えがあった。
 瞬時に瑛斗の脳裏に記憶が蘇る。
 あれは何ヶ月か前……まだ先生と深い意味で通じ合う前だった。
 不意に少し高い声が室内で響いた。
 それは聞き間違うはずがない、瑛斗が会いに来た人のものだ。どうしたのかと思う間もなく今度は「やめて!」と確かに聞こえてきた。
 瑛斗は迷わずドアを開けた。
 視界に飛び込んできた光景を頭が理解する前に、体が反射的に動いていた。
 壁際に追いつめられて肩を竦める先生の、怯えた様子で見開かれた大きな瞳がはっとして瑛斗を見る。
 その手前、ドアの方に背を向けて壁に先生を押しやるワイシャツ姿の男に瑛斗は大股で歩み寄ると、その肩を強く掴んで壁から引き剥がした。
 男の陰になっていた先生が愕然として瑛斗を見上げる。
 構わずに後ろを振り返り、投げ出された勢いで会議机にぶつかりよろめく男を見る。
 顔を上げたのは、予想どおりの男だった。
 松浦……。瑛斗は相手の視線から先生を隠すように壁と松浦の間に立ち塞がった。
「なんだぁお前! 何しやがる!」
 腰を強打したのか体を歪めながら、教員らしからぬ口調で松浦が吠える。
 威勢に負けるものかと瑛斗は目の前の男をめつけた。
 らしからぬのは今に始まったことではない。こいつはいつも生徒を見下し、瑛斗を虫けらを見るような目で見やり、数々の口汚い発言で野球部の士気を下げてきた。
 今さらこいつに従順な生徒でいる必要はないし、敬うつもりもない。
 瑛斗には躊躇など微塵もなかった。
「お前こそこんなところで何してんだよ!」
「誰に口きいてんだ? 英語教師が英語準備室にいて何が悪い? お前が出入りしてるよりよっぽど自然だろうが」
「また女口説こうとしてたくせに!」
 ふと自分の腕に力が加わった。先生が背後から腕を掴んだのだ。
「瑛斗……藤代くん!」
 制止した先生の口調は教師のものだった。
「相手は先生でしょ、わきまえなさい」
「何言ってんだよ!」
 瑛斗は松浦に体を向けたまま、先生の方に横顔だけ向けた。
「危ない目に遭ってたんだろ! しゅーちゃんこそ、なんでこいつをかばうんだよ!」
 不意に松浦が「ハハッ」と顎を上げた。
「彼氏ヅラか」
 不敵な笑みを浮かべながら松浦が服の乱れを直す。
「お前にとやかく言う権利はないだろうが。バレてないと思ってんのか?」
 バレてない?
 何が?
 瑛斗は言葉を失った。
 血の気が引いていくのが鏡を見ずともわかった。おそらく背後で押し黙っている先生も同じ表情をしているだろう。
「ちゃんと卒業できるように、せいぜい良い子に振る舞ってろよ」
 松浦は捨て台詞みたいなことを吐き捨てると、何事もなかったように背筋をぴんと伸ばしてから準備室を出ていった。
 
 
 
  
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