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<十一> 声を聞かせて
29 松浦と佐上
しおりを挟む29 松浦と佐上
夏休み前期の補習最終日。
午前中の教室で補習を受けた後、昼食代わりの菓子を食べたり、賑やかにおしゃべりに興じたりする生徒を尻目に、瑛斗はいつものようにすぐに教室を後にした。うっかり遅くなってしまうと寮で昼食を終えた野球部の面々と校門辺りですれ違うことになるからだ。グラウンドで活き活きと活動する運動部を見る気にもなれなかった。
廊下に出ると自然と窓の外に目を向けていた。別棟の英語準備室を見る癖がすっかりついてしまっている。夏休みに入って以降、準備室に電気が灯されていることは瑛斗が見る限りなかった。
足早に廊下を進みながら、向こう側から歩いてくる教師の姿に瑛斗は思わず眉をひそめた。
佐上だ。
今年度から一年生の担当となった佐上と校舎内ですれ違うことは、近頃はほとんどない。このフロアでは物珍しい姿に周囲の生徒も好奇心むき出しの目を向けていた。
私情を押し殺し、目を伏せてすれ違おうとしたのに、佐上はまっすぐ瑛斗の正面に向かってきた。ぎょっとして立ち止まると、佐上は無表情のまま「一緒に来なさい」と小声で言い、瑛斗が返事をするよりも先に踵を返した。
綺麗にアイロンがけされたピンストライプのシャツの背中を見ながら、瑛斗は佐上の後ろを歩いた。周りから「なんで佐上がいんの?」とか「あいつなんかやらかした?」とかこそこそ話すのが耳に届いた。
階段を下りて廊下を曲がり『生徒指導室』と書かれた部屋の前で佐上が立ち止まると、瑛斗はさすがに息を呑んだ。
終業式前のあの日以来、瑛斗はつねに警戒していた。
松浦のあの言葉が呪いのように瑛斗につきまとっていたからだ。
とうとうその時がきたのだろうか。瑛斗は心の中で覚悟を決めながら、しかし、とも考えた。
相手は、佐上だ。
瑛斗だって切り札を握っている。
佐上は自分のものとおぼしきデスクの椅子に腰を下ろしながら瑛斗を見ると、「ああ」とそれまでの無表情から一変して、かつての授業で見たのと同様に朗らかに笑った。
「今年は一年生の生徒指導担当でね、俺が自由に使える部屋はここしかないんだ。そう固くならんでいいぞ」
座れよ、と気さくな口調で椅子を勧める。瑛斗は「いえ、大丈夫です」と断り、佐上の机の正面に立った。
話を先へと促されていることに気づいたようで、佐上は電気ポットに伸ばしかけていた手を止めて椅子に座り直すと、机の端に置いていた紙の束を引き寄せた。
文字がぎっしり書かれた資料のようなものを一枚一枚めくりながら、佐上がおもむろに口を開いた。
「松浦先生のことだけどな」
きた。
瑛斗は自分の顔がこわばるのがわかった。
急激に速まった心臓の鼓動が部屋中に響いているような錯覚に陥る。
佐上はひと言目を発して以降、しばらく手元の紙をめくりながら黙っている。
じれったく思いながら続く言葉を待っていると、紙の束をめくり終えた佐上が瑛斗に視線を向け、ようやく口を開いた。
「お前が野球部を辞めたのは、教員の間でも結構大きなニュースになったんだけどな」
部活の話は予想外で、思わず「えっ」と声に出さずに口を開いた。
雑談から入る戦法だろうか。緩んだ気持ちを引き締め直して、唇をぎゅっと結ぶ。
佐上はその表情を別の意味で捉えたのか、「うんうん」と理解を示す時の相槌を打った。
「終業式の日に、野球部の生徒たちから『嘆願書』みたいなものが提出された」
嘆願書?
瑛斗はとうとう「なんの話ですか?」と尋ねてしまった。
てっきり三田先生との関係について説教を食らうのだとばかり思っていたのに、どうやら佐上の目的は確実に野球部の話のようだ。
混乱しているのを察したのか、佐上が言葉を続けた。
「松浦先生の野球部内での振る舞いや暴言について、事細かに記された報告書みたいなものを、野球部の生徒が作って提出したんだよ」
佐上は手元の紙の束をぽんと叩き、
「藤代が辞めたきっかけとなった時のこともしっかり書いてある。それから、部員全員の署名も添えられていた」
さまざまな筆跡で見覚えのある氏名が書かれたページを、佐上が広げて瑛斗に見せる。
「さすがにこれは普通のことじゃないからな。調査すると、周りの大人たちは見て見ぬ振りをしてたんだなあ。監督もコーチたちも全部知ってたと聞いて驚いたよ」
佐上は「それから……」と言いかけてから少しの間逡巡するかのように、再び紙をぺらぺらめくってから、声のトーンを落とした。
「調査するうちに、複数の女の先生からも苦情が上がった」
瑛斗の脳裏に英語準備室での光景が瞬時に浮かぶ。
返答に困っていると、佐上は視線を落としたまま口角を少しだけ上げ、
「今のはここだけの話にしてくれよ。お前は知ってただろうけれども」
瑛斗は再び心臓が高鳴るのを感じた。
やっぱり、佐上は知っているのだ。
きっと先生が言ったのだろう。どこまでかはわからないが、水曜日の夜、会うのをやめた理由として――。
瑛斗の動揺に気づいたかどうかわからないが、佐上は瑛斗の顔を見ながら言った。
「松浦先生には辞めてもらうことになった」
だろうな。正しい判断だ。心の中だけで頷いていると、
「お前は野球部に戻れるぞ」
「えっ」
今度こそ、声に出していた。
「なんで……なんでですか」
思わず尋ねると、佐上は呆れたように小さく笑ってから、その表情に柔和な笑みを浮かべた。
「お前がいないとやっぱり勝てないとさ。少なくとも三年生は全員がそう望んでるって、主将と河村と……あと誰だっけか、何人かが監督と部長の先生に直訴したそうだ」
先ほどまでとは別の意味で胸が高鳴った。
三年生全員が自分を待ち望んでくれている――。
先ほどまで真っ暗闇のような人生だと思っていたのに、ほんの少しだけ、光が差したように思えた。
「でも」
瑛斗は気になっていることを尋ねた。
「どうして、佐上先生が」
部長ではなく、自分の担任でもなく、何故この人から告げられたのだろうか。
すると佐上は紙の束を机の端に戻しながら、「まあ俺は、こう見えてもそこそこの立場にいてね」と笑った。
再び、この学校にいる間に野球ができる。
うまくいけば、三年生の引退セレモニーを兼ねた部内対抗試合に出してもらえるかもしれない。
今にも浮かれてしまいそうな感情を押し殺しながら「ありがとうございました」とドアに向かおうとすると、
「まあ待て。まだ話がある」
ぎくり、と体が硬直した。
脳の客観的な部分で「漫画みたいな反応だな」と自嘲しながら、瑛斗は恐る恐る振り返った。
佐上は相変わらず椅子に座ってまっすぐ瑛斗を見据えながら、独特の掠れた声で静かに言った。
「ここからは男同士としての話だ」
佐上の表情に微笑みはもう浮かんでいなかった。
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