先生、わがまま聞いて

香桐れん

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<十一> 声を聞かせて

30 先生、どうして

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     30 先生、どうして
 
 ここに入ってきた時から、この部屋はこんなに暗かっただろうか。
 ブラインドが半分下ろされた窓に瑛斗は視線を向ける。
 その行為に脈絡がないのはわかっている。
 犬や猫が都合が悪くなった時に後ろ足で首を掻くのと同じだ、と瑛斗はぼんやり考える。
 やるだけ無駄な現実逃避だ。瑛斗は再び自嘲した。
 佐上が瑛斗に向かって「男同士の話」といえば、話題はひとつに限られている。
 こうなったら自滅覚悟で、とっとと話を終わらせようか。
 腹を決めて口を開こうとすると、それを制するかのように佐上が手のひらを向けた。
「三田先生から連絡はあったか?」
 単刀直入に訊いてきた。
「ないです」
 瑛斗も即答した。
 佐上は瑛斗の返事を聞く前から確信していたようだった。ひとつ頷くと、一度息をつき、瑛斗から視線を外して言った。
「結論から言うと、三田先生は一学期の最終日付けで自主的に退職された」
 えっ。
 声を出したつもりだったのに、出ていなかった。
 一歩前に踏み出したつもりだったのに、両足が床に張りついて動けなかった。
 佐上は今なんと言った?
「自主的に」、「退職」した?
 俺にひと言も伝えずに……?
 目の前が真っ暗になった。
 視界を取り戻した時には、さっきまで頑なに遠慮していた椅子に呆然と座り込んでいた。
 佐上は同じ目線の高さで、真正面から哀れみとも苦悩とも取れない目で瑛斗を見つめている。
「どうして、ですか……」
 無意識に尋ねた声が自分でも驚くほどに震えていた。
 どうしてだなんて、聞くまでもない。原因はわかりきっている。
 なのに、尋ねずにはいられなかった。
 佐上は相変わらずの静かな口調で、とてつもなく重い言葉を放った。
「密告の電話があった」
 瑛斗は再び自分の周囲が暗闇に包まれるのを感じた。
「……もうみんな、知ってるんですか」
 俺たちのこと、と続けようとしたが声が続かなかった。
「いや、俺と教頭だけのはずだ」
 ひどい耳鳴りがしていた。自分の情けない声も佐上のハスキーボイスも鼓膜の奥でこだまして聞こえた。
「電話があったのは夜遅く、四、五人が残業している時で、事務はとっくに帰っていて、たまたま俺が職員室にいて、たまたま電話の近くにいたから、俺が電話に出た」
 それからふと、佐上はうっすらと苦笑を浮かべ、
「俺が電話を取ったのは、何かの巡り合わせだったんじゃないかと思うよ」
 ホテル街でお前に見られたことは知っている。明らかにそんな口ぶりだった。
 電話は自称保護者からで、「おたくの教師らしき女性が生徒と日没後に学校外で親しげに話しているのを見た」という内容だった。すぐさま三田先生と瑛斗のことだと悟った佐上は、その場で調査の約束をし、電話を切った。
 佐上は授業中の張りのある声とは異なる、静かな口調でそう語った。
「電話を切るなり他の先生たちに寄ってたかって何があったと訊かれたから、『コンビニ前でうちの生徒がたむろして迷惑だ』という苦情だったことにした」
 頭の中で工事現場みたいな音がガンガンと響いている。佐上の声がずいぶんと遠くから聞こえてくるような気がした。
「なんでですか」
 途切れそうになる言葉を吐き出してどうにか尋ねると、
「なんでかって?」
 佐上は笑いながら事も無げに答えた。
「俺には他人の色恋を責める権利がないからなぁ」
 話の内容とは裏腹に、妙に軽い口調で佐上が続ける。
「さすがに教頭には報告したけどな。あの人は口が堅いし、事を大きくするのが嫌いだから他には言わんだろ」
 佐上は話しながら電気ポットに手を伸ばし、カップをふたつ手に取った。すぐにコーヒーの香ばしい香りが瑛斗の鼻孔に漂ってきた。
 飲めよ、と瑛斗の前に湯気の立ったカップが置かれる。
 そういえば先ほどから指先の震えが止まらないのは、冷房が効きすぎているせいなのだろうか。
 カップを満たす黒い液体を見つめながら、瑛斗は「でも」となおも食い下がった。
「松浦は……松浦先生は知ってるみたいなことを言っていたから……」
 すると佐上は今度こそ声を立てて笑い、
「あいつのことなんか気にするな。あれの言うことを真に受けるやつなんてろくな人間じゃない」
 それでも、と瑛斗は唇を噛んだ。
 佐上が何を言っても同じことだ。
 愛する人が、自分のせいでいなくなったことには、まったくもって変わりがない。
「だったら、しゅーちゃんは、どうして辞めるんですか」
「引き留められなかった俺の力不足なんだろうな」
 コーヒーを熱そうに啜ってから、佐上が答えた。
「俺がどれだけ芽を摘んだところで限界がある。種が撒かれる限り、『噂』は消えない、と本人には伝えた」
 噂、と敢えて佐上は言った。
 佐上はもしかすると自分たちの時のことも踏まえて、そう言ったのかもしれない。
 そして、しゅーちゃんは、佐上との関係のことも重ね合わせた上で、種を落とさない最適な方法を、しゅーちゃんなりに考えた。
 その結果が学校を去ることだったのかもしれない。
 佐上はそれ以上のことは語らなかった。明確な答えを知っていながら黙っているのか、そもそも知らないのかはその表情から読み取ることはできなかった。
 その代わりに瑛斗が視線を向けたままのカップを手で示して、もう一度促した。
「飲めよ。落ち着くぞ。インスタントだけどな」
 以前にも聞いたような台詞だ、と瑛斗はぼんやりと思い起こした。
 あれは確か、初めて英語準備室を訪れた、まだ肌寒かった頃。
 ――このほうじ茶、美味しいんだよ。ティーバッグだけど。
 そう言ってマグカップを差し出しながら、おずおずと視線を合わせて美しく微笑んだ、あの瞬間にはもう瑛斗の中で何かが芽生え始めていたのかもしれない。
「先生……」
 コーヒーカップを見つめたまま、誰に向けるともなく独り言のつもりで声に出したが、佐上が瑛斗に視線を向けた気配がした。
「俺、誰にも負けないくらい、愛してるんです」
 佐上はギギッと音を立てて背もたれに上体を預けると、カップを手にしたまま椅子ごと窓の方を向き、「そうだな」と曖昧な返事をした。
 瑛斗は今度は明確に、佐上に向かって尋ねた。
「不倫や女たらしは許されるのに、どうして俺は許されないんですか?」
 佐上はしばらくの間、言葉もなく瑛斗を見つめた。
 さすがに咎められるかと思ったが、佐上は小さく溜め息をつき、
「何を言っても俺じゃあ説得力がないだろうな」
 苦笑混じりにそう呟いてから、おもむろに続けた。
「だけど修子しゅうこは」
 修子、と佐上は確かに言った。
 教師と生徒ではなく、男同士の話であることを瑛斗は改めて痛感する。
 佐上は少しだけ気まずそうに口ごもってから、再び窓の方へ顔を向けた。
「あいつは……お前と話し始めてから、すっかり明るくなったし、毎日が幸せそうに見えたよ」
 歓迎されない恋愛であることは最初からわかっていた。
 そんな中で、佐上だけは自分たちの理解者なのかもしれないと思えた。
 悔しいけれど、この人に恋をして、長い間離れられなかった、自分の愛する人の気持ちがわかったような気もした。
 それでも、俺の愛するしゅーちゃんが、俺の前からいなくなったことが、夢のように消えてなくなるわけではない。
 視線を上げる。佐上は相変わらず窓の方に向いて、すっかり冷めてしまったであろうコーヒーを啜っている。
 瑛斗は肘掛けを両手でぐっと掴んだ。震えがすっかり治まっていることを確認してから、椅子から立ち上がった。
「ごちそうさまでした」
 一度も口をつけなかったコーヒーの礼を言うと、佐上が言葉を発する前に背中を向け、生徒指導室を後にした。
 
 
 
 
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