【完結】死に戻り令嬢は千夜一夜を詠わない

里見透

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第三章

1.

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 施療院は月と花アヤラヴァみやこの中心から離れた、月詠みアルカマルの丘の上にある。ルクサナも、ここへは何度か訪れたことがあった。施療院には礼拝堂マスジドが隣接しており、月に一度はここを訪れ、礼拝に参加する必要があったからだ。
 とはいえ、ゆるゆると続く登り坂を、己の足で歩くのは初めてのことである。これまではいつも、駱駝の背へ天蓋付きの輿ハウダジュを置いた中に乗り、侍従に引いてもらっていた。だが己の足で歩き、適度な汗をかくというのも、存外に爽快だ。
(今は、悠長にそんなことを考えている場合ではないのだけど……)
 己をいましめるようにそっと息を吐き、視線を上げて前を向く。ぐったりとした女二人を荷車に乗せ、痩せたロバとともにそれを引くのはイブラヒム。押しているのはヤツガシラのハサンである。
 額に汗を浮かべながら女達を運ぶ彼らの口元は、白い布地で覆われている。ルクサナの記憶では、赤洟テン熱発生の際、施療院の者達は皆、魔除けのヴェールで口元を覆っていた。それを真似まねて、病がイブラヒム達にまで及ばぬよう、ルクサナが指示して付けさせたのだ。もちろん、あとに続くルクサナ自身も、その隣を歩くシャイマも、同じものを身に着けている。
「ん? 何かしてるな」
 先を見て、そう呟いたのはイブラヒムだ。声につられて丘の先へと視線を向け、ルクサナは己の目を疑った。
 礼拝堂と施療院の建物とが並び立つ手前。西に傾き始めた太陽が、礼拝塔ミナレットに射して鋭い影を落とす辺りに、見覚えのある人物がたたずんでいる。
 間違いない、宰相家の侍従のザウリだ。木陰に設けられた涼み台と花壇の間をそわついた様子で行き来する彼は、施療院へ向かってこう呼びかける。
「急いでくれ。昨日からお嬢様の体調がすぐれないんで、旦那様も奥様も、いたく心配されてるんだ」
 お嬢様。
 耳に入ったその言葉に、ルクサナは押し黙り、きゅっと口元を引き結ぶ。
 ザウリがつかえているのは宰相家。彼がお嬢様と呼ぶ相手は、この世に一人しかいない。
「ルクサナ」
 呼びかけたのは、隣を歩くシャイマであった。長く旅の暮らしをしてきたという一座の座長は、それ以上には何も語らず、ルクサナの手を取り握ってくれる。とっさのその気遣いが、どれ程、ルクサナにとって救いとなったかわからない。
(宰相家の邸宅リアドには、やっぱり、今もがいるのだわ。けれど、──施療院から人を呼ばねばならぬほど、体調を崩したことなどあったかしら)
 この半年間、そうまでわずらった記憶はない。市井しせい赤洟テン熱が流行していた頃ですら、邸宅リアドの中の限られた世界で暮らすルクサナは、常に守られていた。
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