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前編

前編1

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 その夜、久宗 風羽(ひさむね ふう)は、モヤモヤと思い悩んでいた。
 ――だから最初は、何を言われたのか、分からなかったのだ。

「俺と風羽は、血が繋がってないんだよ」
「ふーん」

 ――ニンゲンカンケイっていうのは、難しいなあ……。

「それでね、俺、風羽が好きなんだ。もちろん、一人の女の子としてね。一生、そばにいたいと思ってる」
「ふーん」

 ――お母さんの遺言を守るべきか、心の平穏を取り戻すべきか……。

 突然で唐突だったから、一旦は流してしまった。空返事をしたあと、風羽はケイジャンチキンを頬張る。
 ――爆弾を投下した、当の兄の得意料理。
 味わいはスパイシーで、歯ごたえがあるのに、中はしっとりと柔らかい。これはいくらでも食べられますねえ……と脳内で食レポをしているうちに、ようやく理解が追いつき、風羽は顔を上げた。

「ん?」
「……………」
「んん?」

 ダイニングテーブルの向こう側で、兄はニコニコと笑っている。いつもどおりの麗しい笑顔だ。
 風羽の自慢のお兄ちゃん。――久宗 匡(ひさむね たすく)。
 世界で一番、綺麗で賢くて優しい、六歳年上の兄。

「えっ、あ、ちょっと……え!? なに、急に!?」

 だいぶ遅れて慌て出す妹をよそに、一足先に食事を終えていた匡は、テキパキと自分の食器をシンクに運び、冷蔵庫の前に立った。

「いやあ、風羽も明日でハタチでしょ。まあまあハードな真実を知っても、ショックに耐えられるかなあって」
「そんな急に言われても……! えっ、ねえ、本当の話なの!?」

 風羽は目を白黒させながら、短い髪をわさわさと掻きいじった。

「親同士が再婚したとき、風羽は幼稚園児だったんだけど……。お前、マジでなにも覚えてないの?」
「まじでなにもおぼえてない……」

 呆れ気味の匡に聞き返されても、風羽は首を横に振るしかない。
 全くもって、これっぽっちも、覚えていないのだ。
 匡の話によると、風羽の父と匡の母が再婚し、それぞれの連れ子だった二人は兄妹(きょうだい)になったらしい。まるっと説明されても、風羽の記憶はさっぱり蘇ってこなかった。

「まあ今度ゆっくり、お父さんに聞いてみたらいいよ。あと、おばあちゃんとかにもさ」

 妹を落ち着かせようと穏やかに諭しつつ、匡は冷蔵庫から取り出した皿を、風羽の前に置いた。皿には食べやすいよう一房ずつに分けられた、甘夏が盛ってあった。種も除かれており、あとは薄皮を剥けばいいだけだ。

「うん……」

 風羽は半信半疑で頷き、匡が用意してくれたデザートに手を伸ばした。
 旬の甘夏はみずみずしく、程よい酸味があって美味しい。これはいくらでも食べられますねえ。
 ――それはさておき。
 風羽たちの父親は海外に赴任しており、もう五年ほど家中には不在だ。
 匡の言う「おばあちゃん」とは、同じ町内に住む母方の祖母のことである。――が、母方というが、どちらの母になるのか。
 風羽の実母なのか、それとも匡の母、つまり継母なのか。
 しかし、そもそも――。

「あれ? お母さん……て」

 人一倍明るくて、元気者だった母。亡くなったあとも、風羽の記憶の中で、今も豪快に笑っている母は、そもそもどちらの母なのだろうか。

「風羽」
「ん?」

 風羽は過去を手繰り寄せるのに夢中になっている。その真横に、匡がいつの間にか立っていた。
 切れ長の二重の瞼の下には、涼やかな瞳が収まっている。スッと伸びた高い鼻に、形の良い唇。妹ですら憧れる美しい兄は、でも実は兄じゃないらしい。
 血が繋がっていない、赤の他人。そんな男性が、風羽のことを好きだと言う。
 ――妹としてではなく、一人の女の子として。
 匡の告白を改めて咀嚼し、風羽の鼓動は早くなった。

「お、兄ちゃん……」

 風羽が匡を見上げたまま硬直していると、眉目秀麗な顔が近づいてきた。長めの髪から、良い香りが漂ってくる。さぞ高級なシャンプーを使っているのだろう。

 ――いやいや、私と同じやつだった……。

 使う人間が違うと、こうも雰囲気が変わるのか……などと風羽が驚いていると、ちゅっと、からかうような音を立て、唇同士が当たった。

「!」

 驚愕した風羽は、とっさに体を引く。腰掛けていたダイニングチェアが、彼女の動揺そのもののように、がたっと大きな音を立てた。

「なっ、なにすんの!?」
「兄妹じゃないって宣言したし、いいかなって」

 匡はちろっと舌を見せて、いたずらっ子のように笑っている。

「良くないよ! たとえ兄妹じゃなくても、こういうのは……! 私たち恋人同士でもないんだから!」
「えー? 時間の問題だと思うけど?」
「時間の問題って……!」

 風羽は唖然とした。
 大した自信というか、匡は風羽と自分が結ばれるだろうと、信じて疑っていないようだ。

「俺は仕事がまだ残ってるから、部屋に戻るね」
「あ、うん……」

 久宗家のルールとして、食事を作らなかったほうが洗いものをすることになっている。今夜のシェフは匡だったので、皿洗いは風羽の担当だ。

「明日の誕生日本番は、風羽の好きなものを作るからね。ケーキも予約してあるし。お腹をすかして、帰っておいで」

 匡はそう言い残して、ダイニングをあとにした。
 そう、明日は風羽の二十歳の誕生日なのだ。

「もう……」

 風羽は椅子を元の位置に戻して、残った甘夏を口に運んだ。
 ――美味しいはずのフルーツの味が、分からなくなっている。
 顔が熱くて、体はふわふわと浮いているかのようだ。
 不安と、わけの分からないときめきが交互に湧き上がってきて、落ち着かない。

 ――直前まで抱えていた悩みを、一時忘れられたのは、幸いだったが。












 兄が突然、あんなことを言い出したからだろうか。
 風羽は夢の中で、忘れていた過去を思い出していた。
 夜、幼い風羽が、家の廊下で泣いている。すると、その大きな泣き声を聞きつけて、パジャマ姿の匡が自分の部屋からおずおずと出てくるのだ。

「どうしたの? うるさくすると、お母さんが起きてきて、また叱られるよ。今は薬が効いてるから、ぐっすり寝てるみたいだけど」
「こわいの。ひとりはいや。ひとりでねるのはいやぁ……。おばけがくるよお」

 しゃくりあげながら風羽が訴えると、兄は小さな頃から整っていたその顔を曇らせた。

「しょうがないな……。風羽ちゃんが寝つくまで、そばにいてあげるよ」
「ほんと?」
「うん……」

 匡はどこかぎこちない。
 ――そうだ。この頃、両親が再婚したばかりで、匡と風羽は兄妹になりたてだったのだ。
 今と異なり、昔の匡は愛想がなかった気がする。いつもニコニコヘラヘラしている現在の彼とは、別人のようだ。

「えほん、よんでくれる?」
「うん、まあ……。なにを読めばいいの?」
「おばけのてんぷら!」

 風羽は涙を引っ込め、即答した。匡は呆れている。

「おばけが怖いのに、絵本はいいの?」
「フィクションだもの! げんじつとはちがうんだから!」
「難しいことを言うんだな……」
「おにいちゃん、いこう」

 風羽はいつも大人や友達にしているように、兄に手を差し出した。同行者とは手を繋ぎ、仲良く歩くのが、彼女の常だ。
 紅葉のような妹の手を、匡は恐る恐る握った。

「小さいなあ……」

 感慨深げにつぶやくと、匡は風羽を連れ、彼女の部屋へ向かった。




 昔の、昔の話だ。
 優しいお兄ちゃんと、寂しがりやで泣き虫な妹の、微笑ましいエピソード。

 それがどうしてああなって、これからどうなってしまうのだろう――。








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