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第十話 愛しきスローライフ(4)
トビアスは、深い眠りの中でありえたかもしれない世界線を夢見ていた。
パパヴェルの城壁がラゴプス公国の太子ヘンリクの軍勢に包囲されたその時、アクセルは迷いを見せなかった。彼は簒奪者トルビョルンと電撃的な講和を結ぶと、軍を瞬時に反転させたのだ。
それは、常識を超えた神速の強行軍だった。
「アクセル卿を待たせるな! 我が騎兵隊が道を切り開く!」
夢の中のトビアスは、アクセルのハンマーとして、単独先行してヘンリクの本陣を急襲し、パパヴェルの包囲を解かせる。
そしてトビアスはアクセルの本隊と合流し、ヘンリク軍に会戦を挑む。
時代遅れの騎士道に縋るヘンリクの軍勢は、アクセルの効率と速度の前に、家畜のように追い散らされた。トビアスは自らの手で、あの黄金の髪を泥の中に引き摺り下ろし、捕虜としたのだ。
凱旋したパパヴェルで、世界はアクセルの望む通りに塗り替えられた。
アクセルは、皇族の血を引くイヴォンネと結婚し、イクソブリュクス伯を正式に継承した。アクセルの妻だったマルグレットは正妻の地位をイヴォンネに譲り、アクセルの公的な愛人として彼を支え続けた。
イヴォンネとマルグレットは同じ男を愛する者同士、まるで姉妹のように手を取り合い、アクセルの築く滅菌された国を支えていた。
アクセルはやがて対トルビョルン同盟の盟主となり、帝都を無血開城させ、帝国宰相の座に就いた。その王座の傍らには、常にトビアスがいた。
「ああ、これだ……。これこそが、俺がアクセルに見せてやりたかった景色だ……」
夢の中のトビアスがつぶやく。
草原。風にたなびくヒナゲシの香り。傍らには、妻となったモニカが微笑んでいる。そして幼い娘が、不器用ながらも美しい花冠をトビアスの頭に乗せてくれた。すべてが白く、清潔で、幸福な世界……。
「……ん」
まどろみの中からトビアスを引き戻したのは、現実の重みだった。
目を開けると、そこはラゴプス公国首都、ルフェセンスにある屋敷の寝室だった。肌を包むのは、かつての戦場の泥とは無縁の、滑らかな高級リネンのシーツ。
トビアスはローランド公から目をかけられ、降伏した騎士としては破格の地位が約束されていた。だが、その上質な静寂が、かえってトビアスの心に奇妙な空白を生んでいた。
かつてアクセルに誘われ、その元で命を削りながら疾走していたあの狂おしいほどの興奮……。あの熱量に比べれば、この満ち足りた日常は、あまりに退屈で、冷めていた。
トビアスの頭を包み込んでいたのは、夢の草原ではなく、イヴォンネの侍女モニカの柔らかな胸だった。
「……俺も、甘い夢を見たものだ」
トビアスは自嘲気味に呟き、モニカの肩を抱き寄せた。彼女もまどろみから目を覚ます。窓の外からは、猥雑な喧騒が聞こえてくる。
「モニカ。……アクセルがいなくなって三ヶ月。イヴォンネさまは、やはり寂しく思っておられるのではないか?」
トビアスがふと尋ねると、モニカは表情を崩さぬまま、淡々と答えた。
「そんなことありませんわ、トビアス。イヴォンネさまは、ヘンリク殿下の元で、大変お幸せそうにお過ごしです」
「……そうか。そんなものか」
トビアスは吐き捨てるように言った。彼は、目の前のモニカが張り付いたような笑みを浮かべていることに、全く気づいていなかった。
モニカの言葉は嘘だった。彼女は毎朝、ヘンリクの手荒な愛撫によってイヴォンネの白い肌に刻まれた、悍ましい青痣を化粧で隠している。
ヘンリクの傲慢な愛撫がイヴォンネの気高さを汚し、彼がどれほど手荒に彼女の肉体を貪ろうとも、イヴォンネの心は決して彼に屈しなかった。
イヴォンネは苦痛に顔を歪めながら、ただパパヴェルの大聖堂の冷たい床と、去り際にアクセルが残した「推し続けます」という、呪いのように甘やかな愛の言葉だけを抱きしめていた。肉体が汚されるほどに、彼女の中でアクセルへの思いは、より白さを増してゆくのだった。
モニカはその地獄を、トビアスには絶対に悟らせまいと、ただ微笑んだ。
「女ってのは、結局のところ薄情なもんだ。あんなにアクセルを熱い目で見つめていたというのに、新しい飼い主が決まれば、すぐにその熱を忘れてしまうらしい」
モニカは何も答えず、ただトビアスの首筋を微笑みながら優しく撫でた。その微笑みの裏にある、冷たいイヴォンネへの忠誠心、女同士の友情にトビアスは気づかない。
トビアスは再び目を閉じ、もはや届かない純白の夢の残滓を追いかけた。
パパヴェルの城壁がラゴプス公国の太子ヘンリクの軍勢に包囲されたその時、アクセルは迷いを見せなかった。彼は簒奪者トルビョルンと電撃的な講和を結ぶと、軍を瞬時に反転させたのだ。
それは、常識を超えた神速の強行軍だった。
「アクセル卿を待たせるな! 我が騎兵隊が道を切り開く!」
夢の中のトビアスは、アクセルのハンマーとして、単独先行してヘンリクの本陣を急襲し、パパヴェルの包囲を解かせる。
そしてトビアスはアクセルの本隊と合流し、ヘンリク軍に会戦を挑む。
時代遅れの騎士道に縋るヘンリクの軍勢は、アクセルの効率と速度の前に、家畜のように追い散らされた。トビアスは自らの手で、あの黄金の髪を泥の中に引き摺り下ろし、捕虜としたのだ。
凱旋したパパヴェルで、世界はアクセルの望む通りに塗り替えられた。
アクセルは、皇族の血を引くイヴォンネと結婚し、イクソブリュクス伯を正式に継承した。アクセルの妻だったマルグレットは正妻の地位をイヴォンネに譲り、アクセルの公的な愛人として彼を支え続けた。
イヴォンネとマルグレットは同じ男を愛する者同士、まるで姉妹のように手を取り合い、アクセルの築く滅菌された国を支えていた。
アクセルはやがて対トルビョルン同盟の盟主となり、帝都を無血開城させ、帝国宰相の座に就いた。その王座の傍らには、常にトビアスがいた。
「ああ、これだ……。これこそが、俺がアクセルに見せてやりたかった景色だ……」
夢の中のトビアスがつぶやく。
草原。風にたなびくヒナゲシの香り。傍らには、妻となったモニカが微笑んでいる。そして幼い娘が、不器用ながらも美しい花冠をトビアスの頭に乗せてくれた。すべてが白く、清潔で、幸福な世界……。
「……ん」
まどろみの中からトビアスを引き戻したのは、現実の重みだった。
目を開けると、そこはラゴプス公国首都、ルフェセンスにある屋敷の寝室だった。肌を包むのは、かつての戦場の泥とは無縁の、滑らかな高級リネンのシーツ。
トビアスはローランド公から目をかけられ、降伏した騎士としては破格の地位が約束されていた。だが、その上質な静寂が、かえってトビアスの心に奇妙な空白を生んでいた。
かつてアクセルに誘われ、その元で命を削りながら疾走していたあの狂おしいほどの興奮……。あの熱量に比べれば、この満ち足りた日常は、あまりに退屈で、冷めていた。
トビアスの頭を包み込んでいたのは、夢の草原ではなく、イヴォンネの侍女モニカの柔らかな胸だった。
「……俺も、甘い夢を見たものだ」
トビアスは自嘲気味に呟き、モニカの肩を抱き寄せた。彼女もまどろみから目を覚ます。窓の外からは、猥雑な喧騒が聞こえてくる。
「モニカ。……アクセルがいなくなって三ヶ月。イヴォンネさまは、やはり寂しく思っておられるのではないか?」
トビアスがふと尋ねると、モニカは表情を崩さぬまま、淡々と答えた。
「そんなことありませんわ、トビアス。イヴォンネさまは、ヘンリク殿下の元で、大変お幸せそうにお過ごしです」
「……そうか。そんなものか」
トビアスは吐き捨てるように言った。彼は、目の前のモニカが張り付いたような笑みを浮かべていることに、全く気づいていなかった。
モニカの言葉は嘘だった。彼女は毎朝、ヘンリクの手荒な愛撫によってイヴォンネの白い肌に刻まれた、悍ましい青痣を化粧で隠している。
ヘンリクの傲慢な愛撫がイヴォンネの気高さを汚し、彼がどれほど手荒に彼女の肉体を貪ろうとも、イヴォンネの心は決して彼に屈しなかった。
イヴォンネは苦痛に顔を歪めながら、ただパパヴェルの大聖堂の冷たい床と、去り際にアクセルが残した「推し続けます」という、呪いのように甘やかな愛の言葉だけを抱きしめていた。肉体が汚されるほどに、彼女の中でアクセルへの思いは、より白さを増してゆくのだった。
モニカはその地獄を、トビアスには絶対に悟らせまいと、ただ微笑んだ。
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モニカは何も答えず、ただトビアスの首筋を微笑みながら優しく撫でた。その微笑みの裏にある、冷たいイヴォンネへの忠誠心、女同士の友情にトビアスは気づかない。
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