馬鹿犬は高嶺の花を諦めない

phyr

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闘犬、番犬、躾けられてお預け

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 気が動転するというのはこういうことを言うんだろうな、とどこか冷静に考える自分がいた。実際には、宿屋にダッシュして挨拶もせずに階段を駆け上がっているところだ。宿の人や他の客には迷惑だろうけど、本当にそれどころじゃない。
 ノックもせずにドアを開いて、窓辺にいつものように座っている師匠を見てようやく足が止まる。

「師匠、どうしよう」
「……ぁんだよ」

 師匠の顔にうるせぇなと書いてあるのがわかるけど、自分じゃどうすればいいのかわからないから師匠に聞くしかない。

「俺、名前がなかった」

 師匠も一瞬動きが止まった。ふっと煙草の煙が吐き出されて、ゆっくりと足が組み替えられる。

「…………俺が拾った時、ジョンだかサムだか言ってなかったか」

 確かに師匠に名乗りはしたけど、ジョンでもサムでもない。師匠に拾われてから何年も経っているのに、それすら覚えてもらえていない上に実は名前じゃなかったとか、もう衝撃が大きすぎて足から力が抜けた。しおしおと床に座り込んで、情けない声で返す。

「クロイチって言ったと思うけど、あれただの呼び名だって……」

 しばらくの沈黙。そっと顔を上げると、師匠が眉間に皺を寄せたままこちらを見ていた。煙草の先がゆっくりと灰に変わって、床に落ちる。焦げたら宿の人に怒られるかなと、こんな時でも体が勝手に後始末をした。

「……馬鹿犬、順を追って話せ」

 やっぱり師匠も戸惑うよな、と変に納得して、俺が名無しなのがわかった経緯を思い起こすことにした。


◇◇◇◇◇◇◇◇◇◇


 王都の東側に、聖地と呼ばれる山がある。クトス山という名前らしい。神官とか信者とか、信仰の篤い人が巡礼で詣でるところだ。神さまに祈っても腹は膨れなかったから、俺は特に巡礼に行ったことはない。けど、どうしようもなく苦しい時に何かに縋りたいという気持ちはわかる。信じる人の気持ちが救われればいいな、とは思う。
 で、その信仰心溢れる神官の中でも、重病の人を死の淵から救ったり、欠けた手足すら甦らせたりするほどの回復魔術に長けた人は『聖女』と呼ばれている。ちなみに男でも聖女だ。微妙な気持ちにならないんだろうか。まあそれはともかく、聖女というのは回復魔術に秀でているだけではダメで、クトス山にある聖なる泉で、御印というものを受けて初めて認められるんだそうだ。その御印とやらを授かるまでは、単に『聖女候補』でしかないらしい。

 何でそんな中身の話に詳しいのかというと、全部師匠が教えてくれたからだ。師匠の人脈がどうなっているのか俺もよく知らないけど、教会のトップ、法王とも面識があるらしい。酒、煙草、女、三拍子まとめて楽しむタイプの師匠が、清貧や貞潔を誓うような人と知り合いって、過去何があったんだろうか。気になるけど、知らない方が良かったことが出てきそうでそっとしておく選択をした。これに関してはビビりと呼ばれても甘んじて受け入れる。

 今回はその聖女候補がめでたく複数いて、まとめて聖なる泉に向かうことになった。なので王都の神殿からの往復を護衛してほしい。

 法王経由か教会からか、師匠がそういう依頼を受けたので、俺もくっついて護衛をしている。町中以外はもちろん魔物が出るから危険だし、聖地まで旅が出来るなんて金持ちだ、という判断なのか、盗賊も出る。巡礼がよく通るなら街道の警護をもっと厳しくしたらいいと思うけど、人も住んでないところをわざわざ守るのは馬鹿らしいんだそうだ。何だっけ、金と労力が釣り合わない、とか。
 なので巡礼にしろ聖女認定の一行にしろ、王都から聖地までの街道沿いの町に泊まりながら進むことになる。できるだけ野営はしない。クトス山の麓の町に着いたら、日も昇らないうちから泉を目指して、御印を受ける儀式をした後、暗くならないうちに町へ戻ることになる。
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