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三日目
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翌早朝。日曜日なのに6時前に目が覚めてしまった私は、昨日入らずにいた風呂に入り、身を清めていたところでスマホの呼び出し音に気づいた。
鳴っていたのは母のスマホで、私は電話相手の名前を確認しなかったことを少し後悔した。
電話の相手は、父の弟の嫁だった。
その声を聴いた瞬間、思わず顔をしかめてしまった。
この叔母さん、とにかく面倒くさい人で、話は回りくどい上に支離滅裂としているわ、感性が独特なのか意思疎通が難しいわで相手をするのがとにかく疲れる人だったのだ。
これから母の死因を聞くという重たい事が待っているというのに、その前からいきなり忍耐が削られていったのだから、たまらなかった。
叔母さんとどのような会話をしたのかなど再現する気力がないので割愛するが、彼女とした会話は全て、その前日に彼女の夫と交わした内容そっくりそのままだった。(但し、かかった時間は叔父の時の倍以上だったが)
最後に叔母が母を父方の墓に入れるというので、私は「母は母の両親と同じ墓に入れますから」と即座に断った。
叔母は、母は父の家に嫁いできたのだから父方の墓に入るものだと思っていたとかいろいろ言っていたが、このことを私の母が聞いたら「冗談でしょ!?」とすっごい嫌そうな顔をしただろう。(母曰く、父の母にいろいろ苛められたりしていたらしい)
私はその母の思いを汲んで、それから何より『せめて骨だけは祖父母のいる北海道に帰してあげたい』と母の納骨は北海道でおこなうことに決めたのだ。このことについては、兄も賛同してくれたので、他が何と言おうと変えるつもりはなかった。(一つ目の理由は兄に話してないので知っていたかどうかはわからないが)
叔母との疲れる会話を終わらせ(電話を切る際、#お父さん(つまり彼女の旦那さん)には黙っておいてとお願いされた。その時、あなたは勝手に動かず、一言叔父さんと話してから行動してほしいと切に思った)、私は身支度を整えると兄のいる実家へと向かった。
朝食代わりにおにぎり一つとゼリー飲料(これからしばらくの間、定番の朝食メニューになった)を購入し、車で約一時間かかる監察医務院へと向かった。わたしと兄、それから父の三人で。
監察医務院は大塚病院のとなり(と言うより、同じ敷地内?)にあり、外から見た感じでは普通の病院と言う雰囲気で、院内のデザインも落ち着いた清潔感ある造りだった。が、どうしても、院内の空気が重い。やってきた目的が目的だけにそう思えてしまったのか、それとも解剖を行う病院だからこそなのかはわからないけれど、とにかく院内には静謐で重たい空気が漂っていた。
受付にて警察署で受け取った『遺体受け取り届』を提出し、事務員に案内されて控え室へ。そこで少しの間待っていると、葬儀会社のI氏がやってきた。
I氏とこれからのことについて簡単に打ち合わせを行っていると事務員が再び見えられ、解剖が終了し、遺体をお渡しする準備が整ったと告げられた。
控え室で一旦I氏と別れた私たちは、事務員に連れられ地下へと降り、降りたところで事務員とも別れ、今度は白衣姿の女性に案内されてある部屋に通された。
そこに、母がいた。棺桶に入れられ、浴衣を着せられた母が。
金曜の深夜、霊安室で別れて以来の母の姿は、やはりただ眠っているようで……。
だが、触れればやはり、そこに温もりはなかった。
こらえ切れず涙ぐみながら、私たちは白衣の女性の説明を聞いた。
行政解剖を終えたので、これから化学検査を行うとのこと。
これらの結果が出るのは、都内では最短でも40日、だいたい50~60日かかるということ。
そのため、いろいろな手続き(例えば、生命保険の手続きなど)に使用するらしい死体検案書は死因は不明と書かれた仮のものになるということと、検査結果の通知を受けとったら、正式な死体検案書を発行してもらえるようになるということ。
などを説明された。
それから棺ごと母は外へと通じる扉をくぐり、外で待機していたI氏と共に母の遺体を霊柩車(と言っても、今は黒塗りのバンであのいかにもなデザインのものはあまり使用されなくなっているらしいが)に乗せ、母はI氏が務めている葬儀会社へと運ばれていった。
本来はこのまま斎場にある遺体安置所に運ばれるのだが、その前に葬儀会社で改めて母の遺体をきれいにしてもらえるということでお願いしてあったのだ。
私たちが家に着く頃に連絡があり、きれいにしてもらった母の遺体がこれから斎場に運ばれると言うことで、夕方に斎場でI氏と待ち合わせして、私たちは斎場へと向かうことにした。
その斎場では、ご遺体と面会するにはあらかじめ予約を入れる必要があると言われ、これからは随時予約を取ってほしいと言われた。
安置所にて母の遺体にあらためて手を合わせ、せめて寂しくないようにと兄が持参した今は亡きペット(初代)の写真を棺に入れ、また明日来るから。と母とお別れした。
安置所での面会を終えた私たちとI氏はそろって実家へと戻り、そこで葬儀の話を煮詰めることになった。
現在では、葬儀はいろいろと種類があって、葬儀と言われて最初に思い浮かべるであろう一般弔問客も呼び、お通夜と告別式を二日かけて執り行う(私の父方の祖母がこれだった)ものや、家族だけで執り行う家族葬(母方の祖母がこれ)、さらに通夜と告別式、火葬を一日ですませる一日葬やら通夜も告別式もすっ飛ばしていきなり火葬を行う直葬なんてものもあるらしい。(余談だが、葬儀をいろいろ終えた後で、私は自分の時はこの直葬でいいやと割と本気で思った)
母は現役の、しかも会社役員でもあるので一般的な葬儀にしてもらえるよう依頼した。来客100人規模くらいの。(多過ぎぢゃねぇの? と後々思ったりもしたのだが、実際は100をちょい超すくらいの人が来てくれた)
それから次に、どの宗派の住職をお呼びするかと言う話になり、私は曹洞宗の方を手配してもらえるようお願いした。
祖父母が眠っているところが曹洞宗だったので、母もそこに入れるのなら。と、それに合わせたのだ。(後日、私のこの決断が親戚とのちょっとした軋轢を生むことになるのだけど)
それから通夜で出す料理や告別式後に行う会食の数、飾る花の手配や祭壇のデザインから遺影の額、香典返しの種類と数などなどを、I氏の助言を受けながら私と兄とで相談し、結構な時間をかけて決めていき、さて最後にこれらすべてを行った時のお値段は? と言うと、
総額で二百万を超えるお値段となった。
私は『やべぇ! 盛り過ぎた』と内心冷や汗をかいていたのだが、兄はこういうことで出し惜しみしたくない。と、迷いなく承諾した。
ちなみに、葬儀を執り行ってから一週間くらいたったころ、互助センター友の会と言うところからダイレクトメールが届いた。これは、会員になって毎月一定額を納めていれば葬儀内容によっては数十万円でおこなうことができますよ~と言うお誘いで、入ろうかしら? とちょっとの間、真剣に検討したりした。入ってないけど、まだ。(ちなみにちなみに、これに入っていると結婚式もお安くしてもらえるらしい。関係なかったので内容等々かるくスルーしたけど)
あらためて、葬式って金がかかる! と戦慄を覚えながら、その日は解散することになった。
えらくしんどく、長い一日だった。
家に着いたときは、もうとっくに9時を回っていた。――と思っていたのだが、実際にはまだ午後7時を少し過ぎたくらいで、寝るには早すぎる時間だった。
風呂に入り、それでもまだ時間はたっぷりあった。が、ゲームやら小説やらをやる気力もなくて。
お腹はまるっきり空いていなかったのだが、材料だけはあったので、カレーを作ることにした。(母が亡くなるまさにその当日に、日曜に作ろうと揃えておいたのだ)
カレーの匂いを嗅げば、腹も空腹を思い出すだろう。なにせ、この時点で口に入れたものと言えば500ミリのお茶とおにぎり一つ、それからゼリー飲料だけだったのだから。
そうしてちょっと時間をかけながらカレーを作ると、案の定、思い出したようにお腹が鳴った。
鳴ったのだが、しかし――、
食う気がしねぇ……。
お腹が空いているのに食欲が一向にわかず。だが、このまま何も食わないというのはよくないと、二つに割れるご飯のレトルトの片割れ(100ミリグラム)をごはん茶碗に入れ、カレーをかけて無理やり食べた。
普段ならまるで足りないその量を食い切った時には、もう何も入らない! と言うくらいの満腹感を覚えていた。本気で腹が苦しかったし、後半からは口に流し込む作業が苦痛だった。
ここで初めて、これはおかしい! と言うことに気づいた。
しかし、落ち着けばそのうち元に戻るだろうとも思っていた。が、その楽観的な憶測は間違いだった。この後もずっとたいして食べれる量は増えず、三日くらいで食べきれると思っていたカレーが実に十日以上もかかってしまったのだった。
鳴っていたのは母のスマホで、私は電話相手の名前を確認しなかったことを少し後悔した。
電話の相手は、父の弟の嫁だった。
その声を聴いた瞬間、思わず顔をしかめてしまった。
この叔母さん、とにかく面倒くさい人で、話は回りくどい上に支離滅裂としているわ、感性が独特なのか意思疎通が難しいわで相手をするのがとにかく疲れる人だったのだ。
これから母の死因を聞くという重たい事が待っているというのに、その前からいきなり忍耐が削られていったのだから、たまらなかった。
叔母さんとどのような会話をしたのかなど再現する気力がないので割愛するが、彼女とした会話は全て、その前日に彼女の夫と交わした内容そっくりそのままだった。(但し、かかった時間は叔父の時の倍以上だったが)
最後に叔母が母を父方の墓に入れるというので、私は「母は母の両親と同じ墓に入れますから」と即座に断った。
叔母は、母は父の家に嫁いできたのだから父方の墓に入るものだと思っていたとかいろいろ言っていたが、このことを私の母が聞いたら「冗談でしょ!?」とすっごい嫌そうな顔をしただろう。(母曰く、父の母にいろいろ苛められたりしていたらしい)
私はその母の思いを汲んで、それから何より『せめて骨だけは祖父母のいる北海道に帰してあげたい』と母の納骨は北海道でおこなうことに決めたのだ。このことについては、兄も賛同してくれたので、他が何と言おうと変えるつもりはなかった。(一つ目の理由は兄に話してないので知っていたかどうかはわからないが)
叔母との疲れる会話を終わらせ(電話を切る際、#お父さん(つまり彼女の旦那さん)には黙っておいてとお願いされた。その時、あなたは勝手に動かず、一言叔父さんと話してから行動してほしいと切に思った)、私は身支度を整えると兄のいる実家へと向かった。
朝食代わりにおにぎり一つとゼリー飲料(これからしばらくの間、定番の朝食メニューになった)を購入し、車で約一時間かかる監察医務院へと向かった。わたしと兄、それから父の三人で。
監察医務院は大塚病院のとなり(と言うより、同じ敷地内?)にあり、外から見た感じでは普通の病院と言う雰囲気で、院内のデザインも落ち着いた清潔感ある造りだった。が、どうしても、院内の空気が重い。やってきた目的が目的だけにそう思えてしまったのか、それとも解剖を行う病院だからこそなのかはわからないけれど、とにかく院内には静謐で重たい空気が漂っていた。
受付にて警察署で受け取った『遺体受け取り届』を提出し、事務員に案内されて控え室へ。そこで少しの間待っていると、葬儀会社のI氏がやってきた。
I氏とこれからのことについて簡単に打ち合わせを行っていると事務員が再び見えられ、解剖が終了し、遺体をお渡しする準備が整ったと告げられた。
控え室で一旦I氏と別れた私たちは、事務員に連れられ地下へと降り、降りたところで事務員とも別れ、今度は白衣姿の女性に案内されてある部屋に通された。
そこに、母がいた。棺桶に入れられ、浴衣を着せられた母が。
金曜の深夜、霊安室で別れて以来の母の姿は、やはりただ眠っているようで……。
だが、触れればやはり、そこに温もりはなかった。
こらえ切れず涙ぐみながら、私たちは白衣の女性の説明を聞いた。
行政解剖を終えたので、これから化学検査を行うとのこと。
これらの結果が出るのは、都内では最短でも40日、だいたい50~60日かかるということ。
そのため、いろいろな手続き(例えば、生命保険の手続きなど)に使用するらしい死体検案書は死因は不明と書かれた仮のものになるということと、検査結果の通知を受けとったら、正式な死体検案書を発行してもらえるようになるということ。
などを説明された。
それから棺ごと母は外へと通じる扉をくぐり、外で待機していたI氏と共に母の遺体を霊柩車(と言っても、今は黒塗りのバンであのいかにもなデザインのものはあまり使用されなくなっているらしいが)に乗せ、母はI氏が務めている葬儀会社へと運ばれていった。
本来はこのまま斎場にある遺体安置所に運ばれるのだが、その前に葬儀会社で改めて母の遺体をきれいにしてもらえるということでお願いしてあったのだ。
私たちが家に着く頃に連絡があり、きれいにしてもらった母の遺体がこれから斎場に運ばれると言うことで、夕方に斎場でI氏と待ち合わせして、私たちは斎場へと向かうことにした。
その斎場では、ご遺体と面会するにはあらかじめ予約を入れる必要があると言われ、これからは随時予約を取ってほしいと言われた。
安置所にて母の遺体にあらためて手を合わせ、せめて寂しくないようにと兄が持参した今は亡きペット(初代)の写真を棺に入れ、また明日来るから。と母とお別れした。
安置所での面会を終えた私たちとI氏はそろって実家へと戻り、そこで葬儀の話を煮詰めることになった。
現在では、葬儀はいろいろと種類があって、葬儀と言われて最初に思い浮かべるであろう一般弔問客も呼び、お通夜と告別式を二日かけて執り行う(私の父方の祖母がこれだった)ものや、家族だけで執り行う家族葬(母方の祖母がこれ)、さらに通夜と告別式、火葬を一日ですませる一日葬やら通夜も告別式もすっ飛ばしていきなり火葬を行う直葬なんてものもあるらしい。(余談だが、葬儀をいろいろ終えた後で、私は自分の時はこの直葬でいいやと割と本気で思った)
母は現役の、しかも会社役員でもあるので一般的な葬儀にしてもらえるよう依頼した。来客100人規模くらいの。(多過ぎぢゃねぇの? と後々思ったりもしたのだが、実際は100をちょい超すくらいの人が来てくれた)
それから次に、どの宗派の住職をお呼びするかと言う話になり、私は曹洞宗の方を手配してもらえるようお願いした。
祖父母が眠っているところが曹洞宗だったので、母もそこに入れるのなら。と、それに合わせたのだ。(後日、私のこの決断が親戚とのちょっとした軋轢を生むことになるのだけど)
それから通夜で出す料理や告別式後に行う会食の数、飾る花の手配や祭壇のデザインから遺影の額、香典返しの種類と数などなどを、I氏の助言を受けながら私と兄とで相談し、結構な時間をかけて決めていき、さて最後にこれらすべてを行った時のお値段は? と言うと、
総額で二百万を超えるお値段となった。
私は『やべぇ! 盛り過ぎた』と内心冷や汗をかいていたのだが、兄はこういうことで出し惜しみしたくない。と、迷いなく承諾した。
ちなみに、葬儀を執り行ってから一週間くらいたったころ、互助センター友の会と言うところからダイレクトメールが届いた。これは、会員になって毎月一定額を納めていれば葬儀内容によっては数十万円でおこなうことができますよ~と言うお誘いで、入ろうかしら? とちょっとの間、真剣に検討したりした。入ってないけど、まだ。(ちなみにちなみに、これに入っていると結婚式もお安くしてもらえるらしい。関係なかったので内容等々かるくスルーしたけど)
あらためて、葬式って金がかかる! と戦慄を覚えながら、その日は解散することになった。
えらくしんどく、長い一日だった。
家に着いたときは、もうとっくに9時を回っていた。――と思っていたのだが、実際にはまだ午後7時を少し過ぎたくらいで、寝るには早すぎる時間だった。
風呂に入り、それでもまだ時間はたっぷりあった。が、ゲームやら小説やらをやる気力もなくて。
お腹はまるっきり空いていなかったのだが、材料だけはあったので、カレーを作ることにした。(母が亡くなるまさにその当日に、日曜に作ろうと揃えておいたのだ)
カレーの匂いを嗅げば、腹も空腹を思い出すだろう。なにせ、この時点で口に入れたものと言えば500ミリのお茶とおにぎり一つ、それからゼリー飲料だけだったのだから。
そうしてちょっと時間をかけながらカレーを作ると、案の定、思い出したようにお腹が鳴った。
鳴ったのだが、しかし――、
食う気がしねぇ……。
お腹が空いているのに食欲が一向にわかず。だが、このまま何も食わないというのはよくないと、二つに割れるご飯のレトルトの片割れ(100ミリグラム)をごはん茶碗に入れ、カレーをかけて無理やり食べた。
普段ならまるで足りないその量を食い切った時には、もう何も入らない! と言うくらいの満腹感を覚えていた。本気で腹が苦しかったし、後半からは口に流し込む作業が苦痛だった。
ここで初めて、これはおかしい! と言うことに気づいた。
しかし、落ち着けばそのうち元に戻るだろうとも思っていた。が、その楽観的な憶測は間違いだった。この後もずっとたいして食べれる量は増えず、三日くらいで食べきれると思っていたカレーが実に十日以上もかかってしまったのだった。
応援ありがとうございます!
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