流浪の国のルフィーネ~残念なサキュバス転生の結果~

芳井暇人

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流転編

山脈を越えて

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 ◆ 

 風竜帝の羽ばたき一つで、馬車が倒れそうになる。それを抑えるエヴァリーナは、導甲殻ソーサル・シェルの無機質なレンズをダーリヤに向けた。
 
(私が時間を稼ぐから、逃げて)

 風に乗せて、エヴァリーナは声をダーリヤの耳に入れる。
 しかしダーリヤは、小さく首を横に振った。そして視線をルフィーネに向けると、

「姫が、何かを為そうとしています。私は乳母として、それを見届けなければなりません」

 ある意味でダーリヤは誰よりもルフィーネを理解していた。そして期待してもいたのである。
 しかし外に出たルフィーネは上空を見上げると、小さな口をあんぐりと開けて、

「ぴぎゃああああああ」

 と、泣き出した。案の定のことだ。
 ダメなおっさんが戦艦クラスに大きい竜を目の当たりにして、泣かない訳が無い。そこに救いがあるとすれば、絵面がおっさんの泣き顔ではなく、一歳児の泣き顔という程度だろう。
 
 しかし困ったのはダーリヤだ。

(確かに外へ出たいと、姫は言ったはず)

 ダーリヤは風竜帝の巨大な口と顔に吸い込まれそうな感覚を抱きつつ、ルフィーネの命だけは助けてもらおうと、跪く。
 やはりエヴァリーナの言うとおり、逃げておけば良かったか――? そう思うが、逃げた所で助かるとも思えないダーリヤだ。

 その時――。

「か、え、れ! ――おま、かえれぇぇえええ!」

 ルフィーネは言葉にならない声で、確かにいった。
 瞳に涙をいっぱいに溜めて、それでも風竜帝の巨大な目を見据えてルフィーネは言ったのだ。
 もう、恐すぎて思考回路がぶっ壊れてしまったルフィーネである。

”ゴウゥゥ――”

 大気の流れが変わり、突風が雪を舞い上げる。
 風竜帝の鼻息だった。
 そして風竜帝は、その長く大きな首を縦に振ったのだ。

「――我が愛しき姫よ――我は――そなたの仰せのままに」

 ルフィーネを見つめた風竜帝の瞳が、瞬間、真紅に染まる。
 同時にルフィーネの左目も紅玉の如く赤々と輝いていたが、それに気付ける者はいない。誰もが余裕を失っていたのだ。

 ――――

 風竜帝は、眼下で泣き喚く幼女が悪魔付きだと認識していた。
 喰らうもよし――焼き尽くすもよし――そう考えていた。
 しかし、幼女は内心で何かを考えているようにも見える。

(――言い訳があるのなら、一言位聞いてやってもいい――)

 それは圧倒的強者の傲慢かも知れない。だが、風竜帝はそう思った。
 その時――彼の心に一陣の風が吹いた。
 それは爽やかにして甘い――そして何より、とろけるように柔らかかった。
 眼下で泣く幼女が――何よりも大切に思えた瞬間である。
 今、風竜帝の目にルフィーネは、艶やかな肢体を持つ絶世の美女に見えていた。そしてそれは――ルフィーネが成長した姿に違いなく、それゆえにこそ風竜帝の心を捕らえたのである。

 人はこれを”サキュバスの幻惑”という。
 だが風竜帝はこの時思った――。

(久しいな、ワレが恋とは――)

 と。
 風竜帝は遥かな昔、自分を裏切った悪魔公爵デビル・デュークの女を思い出していた。
 そう――風竜帝はかつて、悪魔に恋をしたのだ。
 だが、それは報われない恋だった――。
 彼女は魔王を目指し、そしてその為には多くの男を虜にせねばならなかったのだから。
 風竜帝が恋した悪魔――その名をミスティ・ハーティスという――彼女の死を、風竜帝は未だ知らなかった。

 それはともかく、一歳児に鼻息を荒くする帝を見た竜王達は皆、複雑な心境だったに違いない。

(ギリアスさま、ないわー。これだったら、我だけで来たほうがよかったわー)

(まただよ、この色ボケ。抗魔レジストくらいしろっつの)

(ギリアスさまってロリコン、通り越してねえっすか? しかもまた悪魔だし――)

 しかし彼らが内心を口にする事は、永遠にないだろう。竜達の忠誠とは、そういうものなのだから。 

 こうして竜達は飛び退り、ルフィーネ達一向は災禍を逃れたのである。 

 ◆◆

 およそ一月の旅も、漸く終わりを告げる。季節も巡り、春が訪れようとしていた。
 
 アントネスク領に入った一行は、その最初の街で歓待を受け、百人からなる護衛団をつけてもらった。それらはすべて、領主である公爵ブルクハルト・アントネスクの計らいだという。
 また、護衛団を率いていた人物こそがブルクハルト本人だったのだから、エヴァリーナも肩の荷が下りた思いだった。

「ルフィーネが眼光のみで竜帝を退けたと聞いたが、真か!?」

「はい、私も驚きましたが――しかもどうやら竜帝は姫に忠誠を誓った様子。不思議な事もあるものです――」

 エヴァリーナから道中の苦労を聞くブルクハルトは、馬を魔導甲殻ソーサル・シェルに並べて、しきりに頷いていた。
 もっともエヴァリーナは、肝心なことをボカしている。正確に言えば、ルフィーネは竜帝を”幻惑”したのだから。

「悪魔付きというが、竜人かも知れんな、この子は! わははは!」

 愉快そうに声を上げて笑うブルクハルトは、ルフィーネにとって叔父に当たる人物だ。クセのある金髪は獅子の鬣を思わせ、髪と同色の髭を口の周りに蓄えている。
 鎧は鈍く光る銀色のフルプレートメイルを着用し、まさに無骨な武人――といった佇まいを見せるブルクハルト・アントネスクだ。
 当年二十八歳となる彼は、マッティア、ゴードの両名とも同年齢で面識もあり、十年前にには次世代の三剣士と持て囃されたものだった。
 ――ただブルクハルトは魔法がからっきしだった為、その名声において、現在ではマッティアやゴードに及ばないのである。
 
 そんなブルクハルトだが、彼はとても子供が好きだった。
 何しろ首都へ向かう道すがら、度々ルフィーネの馬車に乗り込み、頬擦りを敢行するのだ。
 
「おお、おお、マルガリータの子、ルフィーネ! 可愛いのう! 可愛いのう! どうだ、ワシの筋肉! 見事だろう!」

 頬擦りは、やがて必ず大胸筋擦りに変わる。それを経て腹筋や上腕筋を触らせるブルクハルトは、実にナイスバルクな男であった。

(な、なんで鎧をわざわざ脱ぐんだ……脱ぐのは、ダーリヤだけでいいのに……あ、暑苦しい……)

 ルフィーネとしては、とても辛い。
 ウットリと眺めるダーリヤは国にいる夫が思わず恋しくなるが、ここはぐっと我慢する。

 だがしかし、頬擦りから大胸筋擦りに変わった辺りで、ルフィーネは幾度となく泡を吹いて倒れた。
 しかし気にしないブルクハルトは、懲りることなく二の腕にルフィーネを乗せたりする。なのでアントネスクに入国以来、ルフィーネのテンションはダダ下がりであった。

「お、おぱーい……」

 その上、吸えない、揉めない、舐められない、という非ぱい三原則を突きつけられたルフィーネは、将来がたまらなく不安になる。
 何しろブルクハルトは、大量の離乳食を持っていたのだ。こうなってはダーリヤといえども、容易くおぱーいを飲ませてはくれなかった。

「む? ワシの乳で我慢するか? 父の乳だ、どうだ? といっても出ぬがな! わははは!」

(じょ、冗談じゃない……こいつ、何を考えていやがる……)

 徐に胸を差し出すブルクハルトを見て、ルフィーネは白目を剥く。
 そしてついに、アントネスクの首都ナルドリアへ到着したのだった。 

 ◆◆

 ナルドリアの城市を囲む城壁は聖王都リヒテンシュタインに比べれば、薄く低い。しかしだからといってアントネスクの防御が手薄かといえば、そんな事は無かった。
 アントネスクはいわゆる半島の国であり、むしろ堅牢なことで有名だ。
 何より西と南を断崖に囲まれ、東に広がるのは魔物が住まう森――北には天然の要害であるブルーギュリア山脈が横たわっているのだ。
 つまりアントネスクは自然のままで、難攻不落を誇る要塞なのである。

「お帰りなさいませ、公爵閣下!」

「うむ、変わりなかったか?」

「はっ! 閣下のご威光の下、ナルドリアは如何なる時も平穏無事にございます!」

 城壁の門で、ブルクハルトが門衛と二言三言、会話をした。
 それだけで門が開くのだから、やはり公爵というのは立派なものである。
 魔導甲殻ソーサル・シェルも悠々と門を潜ると、エヴァリーナはホッと息をついた。

「それにしても、私、酔わなくなったなぁ。慣れって恐いわねー。こんな事ならヒスイに付いて行ってあげてもよかったかも? 今度、手紙でも書いてみようっと。ていうか彼女――魔王達を倒したんだから、ニホンって国に帰っちゃったのかな?」

 不意にエヴァリーナは、黒髪で金色の瞳を持った旧友を思い出した。
 転移した影響で茶色の瞳が金色になり、膨大な魔力を手に入れたヒスイは当初、それを嘆いていただけだ。
 転移は――リヒター王国の軍事力増強が目的で定期的に行っている。だからヒスイは、ある意味で強引に連れてこられただけの被害者だった。
 そんな彼女に齎されたのは、神託――勇者としての運命を自覚したのは、それからのことだ。

 おりしも魔導甲殻ソーサル・シェルの開発が進み、実戦投入が開始された丁度その頃のこと。
 ヒスイに与えられた魔導甲殻ソーサル・シェルは”ルドミラ”。暗黒騎士であるゴードの魔導甲殻ソーサル・シェル”ヴァーツラフ”の姉妹騎だった。
 それは優れた格闘性能と、使用者の魔力を極限にまで高める魔導核を備えた騎体で、未だこれを越える騎体をリヒター王国も作れていない。
 
 ともかく勇者となったヒスイはゴードと共に”ルドミラ型”魔導甲殻ソーサル・シェル十三騎で、七王魔国を陥落せしめたのである。

「まあいいわ。帰ったなら帰ったで、それは彼女の望むところだし――帰っていないなら、友達として、泣き虫ヒスイを慰めてあげるくらい、してあげなくっちゃ――」

 あっさりと魔王討伐を断った割に友人として勇者ヒスイを心配するエヴァリーナは、正直な所、自分が誰も友人の居ない地に来て、初めてヒスイの気持ちが分かったのかも知れない。

 城門を潜り、石畳の街並みを馬車は進む。
 アントネスクの人々は”魔導甲殻ソーサル・シェル”が珍しいらしく、その姿を目にする度に、二度、三度と振り返っていた。
 流石にこれではエヴァリーナといえども顔を晒し続ける気になれず、甲殻の前面を閉じ、移動方法を歩行に切り替えた。
 
 ◆◆◆

「我が城の名は、ローレライという――かつてこの湖には、そんな名前の魔物が住んでおってな。我が祖先がそれを打ち倒し、泉の中央に居館を作ったのが始まりだ」

 ルフィーネを抱き、口髭を震わせて説明をする屈強な武人は、ブルクハルト・アントネスクという。
 抱かれたルフィーネは眠っているというより、気を失っていた。何しろここ数日、ずっとブルクハルトに抱かれているのだから、精神も病みそうである。

「やみ、や、みルフィーネたん、ばくたん……」

 乾いた口をぱくぱくと動かしながら、ルフィーネがこんな言葉を漏らす。いよいよ末期のようだ。
 
 ローレライ城はリヒテンシュタインの王城に比べれば大分小さいが、それでも湖の中ほどに聳える白亜の城は、幻想的で美しい。
 さらに泉の上には、幾つもの巨大な船が浮いていた。これもまた、不思議な雰囲気を醸し出している。

「あれは飛空艦。我がアントネスクが誇る無敵の空中要塞だ――興味があるなら、いずれルフィーネ、お前も乗せてやろう」

「ひくーかん?」

 流線型の船体を眺めたルフィーネは、少しだけ生気を取り戻した。
 白に青に赤――それから黄色の艦が湖に浮いている。
 
(どこの戦隊の船体だよっ!)

 と、オヤジギャグが脳裏を過ぎる実年齢三十六歳のルフィーネは、ニヤリと笑っていた。
 
 そうしているうちに、ブルクハルトが湖の上を歩いている。
 ルフィーネは下を見下ろし、

「ひぃぃ!」

 と、情けない悲鳴を上げた。
 しかしエヴァリーナも魔導甲殻ソーサル・シェルに乗ったまま、悠々と湖の上を進んでいる事を見れば、

(これも、何かの魔法?)

 そう考えて、なんとなく納得をしたルフィーネだ。
 
 こうしてルフィーネは無事、アントネスク公国に保護されることとなった。
 同時にダーリヤと護衛の騎士達は、リヒター王国へと引き返す。
 
「姫を、姫をどうかよろしくお願い致します……」

 ダーリヤはブルクハルトに涙を流して懇願したという。
 護衛の兵達も――ルフィーネは竜帝さえ従えた――そう考えていたから、リヒター王国の宝ではないかと考え始めていた。
 
「我等、一朝事ある時は、ルフィーネ姫を主君と仰ぐ所存――」

 そう言って、帰路についたという事である。
 彼らもまた――やがて来る動乱の気配を感じ、暗雲が立ち込めるであろう未来を予見しているのだった。
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