潺の鈴 御庭番怪異禄

霞花怜

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第五章

第五章 枯尾花の入舞に、別れを告げる《七》

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 静かだった境内に、乾いた笑い声が湧いた。

『そういう算段か。あの神官崩れめが。初めから、そのつもりであったな。儂から獅子をも奪いおった。皆、離れていきおる。あの時のように』

 乗邑が呟く。影の降りた目に、ほんの一瞬、憂いが漂う。

 顔を上げた乗邑の身が突如、大きな赤い炎に包まれた。

『ならば、自ら砕くまで! 己ら無能な御庭番を斬り刻み、地獄への手土産としてやろう』

 乗邑の振りかぶった刀が、宇八郎を襲う。

『宇八郎、あの時、己がここへ来なければ! 儂は今もって、老中に座しておった!』

 刀をひらりと躱し、宇八郎が乗邑を見据える。

 乗邑が再び、刀を大きく振り翳す。

『大岡如きが御庭番を寄越さねば! 斯様な顛末には、ならなんだ! 己の魂を滅すまで、儂は消えぬ! 消えぬぞ!』

 宇八郎に向かい、乗邑が剣を振る。宇八郎は、黙ったまま、刀を躱し続ける。

 見兼ねた皓月が、脇から乗邑の刀を弾いた。

「八つ当たりだと、いい加減に認めちまえ! たとえ怨霊に堕ちても大給松平宗家の当主だろう! 獅子に宇八郎を殺させたのは、どこの誰だ! 何をしようと事実は消えやしねぇ! それくらい、わかるだろう」

 皓月の鋭い一刀が、乗邑の足を突く。乗邑が、苦悶の表情を浮かべた。

『殺させたのは、この儂だ。殺さずには、おれなんだ。無能が公方様に取り入り、無能を儂に張り付けた。儂が公方様に仇なす所業など、するべくもないというに!』

 皓月に向かう刀を、宇八郎が止める。乗邑の眉間の皺が、深まる。怒りの炎が更に大きさを増した。

(公方様とは、有徳院様か。兄上への指示が有徳院様の意であったと、源壽院は知らぬのか)

 眠るお鴇の身を環に預け、善次郎は二人の元へ走った。

『犬が何頭も群れよる。足元を、ちょこまかと這い回る。無能はその程度しか智恵が働かぬか』

 宇八郎と皓月の間に立ち、白刃を構えた。

 乗邑が顔を上げ、善次郎を見下げる。

『実に忌々しい。弟も所詮、大岡の飼い犬であろう。儂の功績を羨み、引き摺り下ろそうと躍起になりよる! 公方様の腹心が、それほど妬ましいか!』

 乗邑の目が、真っ赤に血走った。身に纏う業火と同じ色だ。

 善次郎は構えを解き、刀を下ろした。

「出雲守様は松平左近将監乗邑殿を、才智の能吏と評された」

 乗邑が、動きを止めた。

『今更、何の気廻しだ。同情でも、誘おうというか』

 怒気を含んだ乗邑の声が、低く震える。

「只の、事実だ。左近将監殿が、御改革を牽引し、御公儀の米蔵を埋め尽くしたのも事実。無理な政が祟り、百姓町人の不満を煽ったのも。総ての責を負わされて罷免されたのも、只の事実だ」

 乗邑の眦が吊り上がり、鈍く光る。口元が、戦慄く。

 善次郎は乗邑を真っ直ぐに見詰め、問うた。

「何故、今、動かれた。兄上が抑えておったとはいえ、今まで寂として動かなかったのは、何故だ。出雲守様が憎ければ、この六年の間に殺せる機会は、いくらでもあったはずだ」

 口を引き結んだ乗邑の体が、小刻みに震える。

 赤い炎が、ぐらりと揺れて、色褪せた。

 それまで黙っていた宇八郎が、口を開いた。

『総ては、御公儀の為、有徳院様の御為。だからこその今だろう。義理立てすべき有徳院様は、先に黄泉に参られた。今もって現に残る訳は、もうなかろう』

 乗邑が、鋭い目を宇八郎に向ける。

『知った風な口を利くな。己に儂の、何がわかる』

 宇八郎が刀を降ろし、乗邑に向き合った。

『生霊の時分から怨霊となった今までを、ずっと見てきた。恨みの矛先が儂であれば、他に害は及ばぬと思い現に残った。しかし、その眼に映っておったのは、儂でも出雲守様でもない。その眼が見ておったのは、公方様が大御所となられた泰平の江戸だけだった』

 身に纏う炎が、ぐらぐらと揺れ動き、燻る。

 色を落とす炎とは裏腹に、乗邑の顔には深い怒りが刻まれていた。

「有徳院様に見限られた真意を、最も解しておったのは、貴方ではないのか」

 善次郎の問い掛けに、乗邑が息を飲む。身を包んでいた赤い炎は、すっかり消えていた。

 刀を握る乗邑の手に、力が戻る。かっと目を見開き、血走った眼が、善次郎を睨み据える。

 乗邑が、上段に構えた。

 皓月と宇八郎が、両側に飛び退く。

 善次郎は、体を低くし、下段に構えた。

 しばしの静寂に、風が止まる。

 じりっと、足を滑らせ、乗邑が、先に動いた。

 善次郎は動かず、乗邑を引き付ける。

 乗邑の振り下ろした刀が、頭上に迫る。寸で前に出た善次郎の髪を、刃が掠める。

 懐に潜り込み、身を沈める。足を踏みしめ、地擦り下段から大きく、斬り上げた。

 白刃の閃光が、宵闇を斜めに走る。乗邑の体が、ぐらりと傾いた。

 善次郎の白刃が斬り裂いた胴は、元に戻らない。乗邑の顔から、色が消えた。

『有徳院、様……。そう、じゃ。公方様は、もう、現に、おわさぬ……』

 乗邑の体が、透け始めた。裂けた体が、揺れ動く。

『……詰まらぬ。斯様な世は、詰まらぬ。現におっても、詰まらぬ、のぅ……』

 乗邑の体が端から崩れる。刀が手から離れ、地面に転げ落ちた。

『誰に、疎まれようと、憎まれよう、とも……構う、ものか。失策を被る、人身御供なら、甘んじて、受けよう。それが、腹心たる、儂の……役目じゃ……だが……』

 崩れた体が赤い粒となり、霧となって辺りに漂う。

『……公方様の、信、だけは、失いとぅ、なかった……』

 怨霊の体が、霧となって消える。

 言葉だけが、風の中を木霊し、小さく残った。

 誰も何も言わず、赤い霧が漂う様を只々、眺める。

 彷徨う想いは、狛犬の涙と少しだけ似ていると、善次郎は感じていた。
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