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第五章
第五章 枯尾花の入舞に、別れを告げる《八》
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穏やかな風が、境内に戻った。
刀を納めためた宇八郎と皓月が、歩み寄る。笑顔を交わし、硬く手を握り合った。
二人の姿を忙然と眺める善次郎に、宇八郎が目を向ける。
どきり、と背筋を伸ばす。宇八郎の手が、善次郎の頭を乱暴に撫でた。
『ようやった。流石は儂の弟だ。強うなったな、善次郎。儂の役目は仕舞いだ。これで心置きなく、黄泉の門を潜れるぞ』
宇八郎が、にっかりと満足そうに笑う。童の頃、大きく感じていた手は、いつの間にか善次郎と同じに、なっていた。変わらない温もりに安堵しながら、少しだけ、寂しく思う。
口を開いたが、言葉が出てこない。溢れ出る思いを、何から伝えればいいのか、わからなかった。
「宇八郎様! もう、逝っちまう気かよ。まだまだ、あんたには、やるべき役目が残っているだろう」
駆け寄った環が、宇八郎に後ろから、しがみ付いた。
宇八郎が青い顔をして、環の手を叩いた。
『環、待て。お主が本気でしがみ付いたら、体が壊れる。死霊でも、怪我をすれば痛い』
後ろから、むすっと宇八郎を睨んで、環が腕に力を籠める。
「だったら、まだ現に残って、善次郎様と潺の力になってくれよ。これ以上、絞め付けられたかねぇだろ」
にやりと笑って、環が更に宇八郎を絞め上げる。
宇八郎が、困り顔で微笑んだ。
『痛いと、言うておる。全く、お主は六年が経っても変わらぬな。儂の役目は仕舞いだ。久伊豆大明神の御神も、さぞお疲れだろう』
宇八郎の目が本殿に向く。神々しい光は、少しずつ弱まっていた。
環の顔が曇り、俯く。自然と宇八郎の背に顔を埋めた。
宇八郎が、そっと環の手を握る。
『これからも潺として善次郎を支えてやってくれ。それとな、……幸せに、なれよ』
環が、びくっと、肩を上げた。
「その口で言うかよ。あんたも大概、変わらねぇ。黄泉にでも地獄にでも行っちまえ! 追っかけて、また絞め付けてやるからな!」
宇八郎の背に、がん、と頭突きをして環が離れる。走り去った環の体を、円空が受け止めた。
前のめりになった宇八郎が、眉を下げて笑った。
『円空、環を頼むぞ。その御転婆は、放っておくと何をしでかすか、わからぬ。儂の気懸りが、増えてしまうからな』
円空が頷き、纏う布で環を包んだ。黒い布の下で、環の肩が震えているのが、わかった。
「宇八郎様の御心願に叶うか、わかりませぬが、尽力致します。環の猛勢は私でも手に余ります故、困った時は助けに来てください」
律儀に頭を下げる円空に、宇八郎が吹き出した。
『お主も結局、儂を呼ぶか。黄泉に逝けば容易には戻れぬぞ。良く知っておろうに。案じずとも今は、善次郎がおる。我が弟は、頼れる漢になったぞ。なぁ、卯之助』
宇八郎が振り返った先で、皓月が深く頷いた。
「俺たちの読みを遥かに超えて、強くなった。お前の心願は叶ったぞ、宇八郎」
四人のやりとりを見ていた善次郎は、ひっそりと安堵した。
(昔の潺は、きっと今のように、賑やかだったのだろうな)
それは何より、宇八郎の陽気な性質に由来する。宇八郎を慕って集まった三人だ。
皆が宇八郎を、昔と同じ賑やかさで送ってやろうとしている心情が、伝わってきた。
『お迎えも来ておるようだ。儂も、そろそろ逝くとしたいが……』
宇八郎が、境内の隅に目をやる。
榊の大木の後ろから、死神が、ひょっこりと顔を出した。
「お主は、この前の。何故、ここに来ておるのだ。岩槻も、お主の領分か?」
驚く善次郎に、円空が応えた。
「皓月と環を抱えて走るのは流石に難儀だと思っておりました所に、この死神様が顕れまして。ここまで運んで頂きました」
とぼとぼと歩み寄った死神が、大きく息を吐いた。
「元沙門の円空大僧正様に頼まれたんじゃぁ、死神如きが断れやしませんぜぇ。お陰で腰を痛めちまった。まぁ、善次郎の旦那のためなら、岩槻くれぇは、なんてことは、ないけれどねぇ」
腰を叩きながら笑う死神に、円空が珍しく目を剥いた。
「仮にも神が、沙門如きを揶揄いなさるな。しかも私はもう沙門ではない。一介の世捨人です」
「世捨人も沙門も、同じだろうよぉ。善次郎の旦那は、面白い朋輩をお持ちだねぇ」
死神が、くっくと笑う。
『なんだ、善次郎と死神殿は知り合いか。随分と知人が多いのぅ』
宇八郎が感心した顔をする。善次郎は、どこか恥ずかしい心持になった。
「この死神には、恩があります。儂がまだ巧く力を使えず困っておった時に、助けてもらいました」
「いいやぁ、違うよぉ。俺が前に助けてもらった恩を、返しただけさぁね。旦那は優しい御侍様、だからねぇ。力だって、俺の助けじゃぁなくってさ。自分で使えるように、なったのさぁ」
にやりとする死神に、宇八郎が同じような笑みを返す。
『そうであったか。弟が世話になった。世話ついでに、一つ、頼みがあるのだが』
宇八郎が振り向いた先は、長七だ。
皆のやり取りを忙然と眺めていた長七が、顔を強張らせた。
『久しいな、長七。息災で何よりだ。お鴇は眠っておるようだが、じきに目覚めよう。此度はお鴇に随分と世話になった。恩に着る』
宇八郎が礼をする。眠るお鴇を抱いたまま、長七が前のめりになった。
「よしてくだせぇ! 礼を言わなきゃならねぇのは、俺たちだ。善次郎様の兄上様の命を、削っちまった。どんなに詫びたって、詫びきれねぇ」
唇を噛む長七に、宇八郎が微笑み掛けた。
『それは、違うぞ。この場所で儂の命の火が消えたのは、定だ。お主らのせいではない。むしろ儂は、感謝しておる。其方は善次郎の力となり支えてくれた。これからも善次郎の傍に、いてやってはくれぬか』
「そりゃ、勿論ですが……」
不思議そうに、長七が応える。宇八郎が嬉しそうに、安堵の笑みを浮かべた。
『そうか、応じてくれるか。それは、有難い』
宇八郎が、善次郎を振り返る。見詰める目が、柔らかく細まった。
(儂が長七を潺に誘おうと思っているのに、兄上は気付いておる。何でもお見通しだな)
善次郎は、しっかりと頷いた。
『そうなると、これからもお鴇には護りが必用になるな。儂の魂の一片を、お鴇に渡した鈴に込めよう。久遠に渡り、お鴇の護りとなるように』
宇八郎がちらりと、死神を横目に見る。死神は、すぃと、目を逸らした。
『善次郎、今すぐに、泣け。お主の涙に魂を溶かして、流し込む』
真面目至極な顔で、宇八郎が涙を強いる。
「承知しました、と、すぐに泣けるものではありませぬ。突然に無理を強いるのは、生前と変わりませぬな、兄上」
思わず零れた本音に、宇八郎が声を上げて笑った。
『はっは! 言うようになったのぅ、善次郎。いいや、違うな。お主は昔から利発で口達者であった。剣筋も良く、気も敏い。何をもっても儂より優れておった』
宇八郎が、懐かしそうな顔をする。
「それは、兄上です。儂は童の頃から、ずっと兄上の背中を追いかけて、稽古に勉学に励んで参りました。兄上の背中に追いつこうと。いつか共に御役目に付きたいと、懸命に」
憧れだった兄と肩を並べて、役目を果たしたい。それが善次郎の目処だった。
宇八郎が、善次郎の道標だった。
叶わない夢に散るのだと気付いた途端、胸に悲しみが去来した。
『お主は、とうに儂を追い越しておる。自信を持て、善次郎。儂にできぬ役目も、お主なら必ず全うできる。お主は儂が総てを託すと決めた、明楽家の誇りだ』
宇八郎の温かい手が、善次郎の肩を優しく叩く。目が潤んで、辺りが、ぼやけた。
「兄上は、狡いです。やはり兄上のほうが、一枚も二枚も、上手でございます」
出るはずのなかった涙が、善次郎の頬を一筋、流れた。
宇八郎の指が、涙を掬い取る。
『泣かせるために言うたのではないぞ。本音だ。今、伝えねば、もうこの口から伝える法がなくなるからな』
呟いた宇八郎の顔が、憂いを帯びた。
一滴で足りる涙が、止まらなくなる。善次郎は、ごしごしと目を擦った。
指に絡んだ善次郎の涙に、宇八郎が気を籠める。白い灯火が涙と解合った。掌に載せた鈴に、ぽたりと注ぎ込む。
善次郎の涙に溶けた宇八郎の魂が、鈴に宿った。白い光を淡く灯した鈴が、りぃん、と一つ、音を醸す。小川の潺のように透き通った綺麗な音色が、長く流れる。
宇八郎が、お鴇の帯留に、鈴を括りつけた。綺麗な音色の余韻を残して、鈴がお鴇の元に戻った。
『お鴇の巫覡の質を消すには至らぬが、難を逃れる助けとなろう。もう儂の力に左右されもせぬ。善次郎の涙が、儂の魂を鈴に留めてくれるからな』
頷いた長七は、善次郎より、泣いていた。
「ありがとうごぜぇやす。やっぱり、お二人は、そっくりだ」
善次郎は宇八郎と目を合わせ、微笑んだ。
宇八郎が一つ、息を吐き、後ろを振り返る。
『死神殿、待たせたの。魂が一片、現に残っても、黄泉に案内してもらえるか?』
宇八郎の問いに、死神は首を捻った。
「さぁて、何の話かねぇ。俺ぁ、なぁんも見ちゃぁいないから、わからないねぇ」
とぼける死神に、宇八郎が、くくっと笑う。
『流石は、善次郎の恩人の死神殿じゃ。話がわかる』
死神が、ははっと笑った。
「やれやれ、旦那の兄上様は、随分と遣り手だねぇ。でもまぁ、その程度じゃぁ、閻魔様も怒りゃぁしないよぉ。何せ、長いこと彷徨った死霊と面倒な怨霊の魂を連れて行くんだぁ。俺からすりゃぁ、大手柄さね」
「源壽院の魂も連れて行けるのか? 自然に還ったとばかり思うておった」
意外そうな善次郎に、死神が、にやりと頷く。
『六年以上も張り付いておったのだ。御役目は、きっちりと果たさねばな。儂が最後まで送り届けよう。死神殿と共に』
宇八郎が善次郎から離れ、死神に並び立った。
「兄上!」
これが本当に最後なのだと思ったら、言葉に迷った。まだまだ、交わしたい話も伝えたい言葉も、山ほどある。
「それじゃ、逝きやしょうかね、明楽宇八郎様」
死神が黄泉への道を開く。宇八郎の体が、透け始めた。
善次郎は慌てて、宇八郎に向かい、叫んだ。
「儂が、明楽家を! 兄上から引き継いだ明楽家を、盛り立てて見せます。黄泉から見ていてくだされ!」
宇八郎は満面の笑みで、力強く頷いた。
全員の顔を見渡して、宇八郎が叫ぶ。
『後は頼んだぞ、善次郎。……皆、さらばだ』
開いた道に流れるように、宇八郎の体が消えていく。
止まったはずの涙がまた一筋、頬を流れた。善次郎は、目を逸らさずに、消える兄の姿を見送った。
黄泉の道が閉じる。本殿から溢れていた神々しい光も消えた。
境内に、平生の夜が戻る。
夕月が姿を消しても、数多の星で空は煌く。境内には、柔らかな宵闇が広がっていた。
刀を納めためた宇八郎と皓月が、歩み寄る。笑顔を交わし、硬く手を握り合った。
二人の姿を忙然と眺める善次郎に、宇八郎が目を向ける。
どきり、と背筋を伸ばす。宇八郎の手が、善次郎の頭を乱暴に撫でた。
『ようやった。流石は儂の弟だ。強うなったな、善次郎。儂の役目は仕舞いだ。これで心置きなく、黄泉の門を潜れるぞ』
宇八郎が、にっかりと満足そうに笑う。童の頃、大きく感じていた手は、いつの間にか善次郎と同じに、なっていた。変わらない温もりに安堵しながら、少しだけ、寂しく思う。
口を開いたが、言葉が出てこない。溢れ出る思いを、何から伝えればいいのか、わからなかった。
「宇八郎様! もう、逝っちまう気かよ。まだまだ、あんたには、やるべき役目が残っているだろう」
駆け寄った環が、宇八郎に後ろから、しがみ付いた。
宇八郎が青い顔をして、環の手を叩いた。
『環、待て。お主が本気でしがみ付いたら、体が壊れる。死霊でも、怪我をすれば痛い』
後ろから、むすっと宇八郎を睨んで、環が腕に力を籠める。
「だったら、まだ現に残って、善次郎様と潺の力になってくれよ。これ以上、絞め付けられたかねぇだろ」
にやりと笑って、環が更に宇八郎を絞め上げる。
宇八郎が、困り顔で微笑んだ。
『痛いと、言うておる。全く、お主は六年が経っても変わらぬな。儂の役目は仕舞いだ。久伊豆大明神の御神も、さぞお疲れだろう』
宇八郎の目が本殿に向く。神々しい光は、少しずつ弱まっていた。
環の顔が曇り、俯く。自然と宇八郎の背に顔を埋めた。
宇八郎が、そっと環の手を握る。
『これからも潺として善次郎を支えてやってくれ。それとな、……幸せに、なれよ』
環が、びくっと、肩を上げた。
「その口で言うかよ。あんたも大概、変わらねぇ。黄泉にでも地獄にでも行っちまえ! 追っかけて、また絞め付けてやるからな!」
宇八郎の背に、がん、と頭突きをして環が離れる。走り去った環の体を、円空が受け止めた。
前のめりになった宇八郎が、眉を下げて笑った。
『円空、環を頼むぞ。その御転婆は、放っておくと何をしでかすか、わからぬ。儂の気懸りが、増えてしまうからな』
円空が頷き、纏う布で環を包んだ。黒い布の下で、環の肩が震えているのが、わかった。
「宇八郎様の御心願に叶うか、わかりませぬが、尽力致します。環の猛勢は私でも手に余ります故、困った時は助けに来てください」
律儀に頭を下げる円空に、宇八郎が吹き出した。
『お主も結局、儂を呼ぶか。黄泉に逝けば容易には戻れぬぞ。良く知っておろうに。案じずとも今は、善次郎がおる。我が弟は、頼れる漢になったぞ。なぁ、卯之助』
宇八郎が振り返った先で、皓月が深く頷いた。
「俺たちの読みを遥かに超えて、強くなった。お前の心願は叶ったぞ、宇八郎」
四人のやりとりを見ていた善次郎は、ひっそりと安堵した。
(昔の潺は、きっと今のように、賑やかだったのだろうな)
それは何より、宇八郎の陽気な性質に由来する。宇八郎を慕って集まった三人だ。
皆が宇八郎を、昔と同じ賑やかさで送ってやろうとしている心情が、伝わってきた。
『お迎えも来ておるようだ。儂も、そろそろ逝くとしたいが……』
宇八郎が、境内の隅に目をやる。
榊の大木の後ろから、死神が、ひょっこりと顔を出した。
「お主は、この前の。何故、ここに来ておるのだ。岩槻も、お主の領分か?」
驚く善次郎に、円空が応えた。
「皓月と環を抱えて走るのは流石に難儀だと思っておりました所に、この死神様が顕れまして。ここまで運んで頂きました」
とぼとぼと歩み寄った死神が、大きく息を吐いた。
「元沙門の円空大僧正様に頼まれたんじゃぁ、死神如きが断れやしませんぜぇ。お陰で腰を痛めちまった。まぁ、善次郎の旦那のためなら、岩槻くれぇは、なんてことは、ないけれどねぇ」
腰を叩きながら笑う死神に、円空が珍しく目を剥いた。
「仮にも神が、沙門如きを揶揄いなさるな。しかも私はもう沙門ではない。一介の世捨人です」
「世捨人も沙門も、同じだろうよぉ。善次郎の旦那は、面白い朋輩をお持ちだねぇ」
死神が、くっくと笑う。
『なんだ、善次郎と死神殿は知り合いか。随分と知人が多いのぅ』
宇八郎が感心した顔をする。善次郎は、どこか恥ずかしい心持になった。
「この死神には、恩があります。儂がまだ巧く力を使えず困っておった時に、助けてもらいました」
「いいやぁ、違うよぉ。俺が前に助けてもらった恩を、返しただけさぁね。旦那は優しい御侍様、だからねぇ。力だって、俺の助けじゃぁなくってさ。自分で使えるように、なったのさぁ」
にやりとする死神に、宇八郎が同じような笑みを返す。
『そうであったか。弟が世話になった。世話ついでに、一つ、頼みがあるのだが』
宇八郎が振り向いた先は、長七だ。
皆のやり取りを忙然と眺めていた長七が、顔を強張らせた。
『久しいな、長七。息災で何よりだ。お鴇は眠っておるようだが、じきに目覚めよう。此度はお鴇に随分と世話になった。恩に着る』
宇八郎が礼をする。眠るお鴇を抱いたまま、長七が前のめりになった。
「よしてくだせぇ! 礼を言わなきゃならねぇのは、俺たちだ。善次郎様の兄上様の命を、削っちまった。どんなに詫びたって、詫びきれねぇ」
唇を噛む長七に、宇八郎が微笑み掛けた。
『それは、違うぞ。この場所で儂の命の火が消えたのは、定だ。お主らのせいではない。むしろ儂は、感謝しておる。其方は善次郎の力となり支えてくれた。これからも善次郎の傍に、いてやってはくれぬか』
「そりゃ、勿論ですが……」
不思議そうに、長七が応える。宇八郎が嬉しそうに、安堵の笑みを浮かべた。
『そうか、応じてくれるか。それは、有難い』
宇八郎が、善次郎を振り返る。見詰める目が、柔らかく細まった。
(儂が長七を潺に誘おうと思っているのに、兄上は気付いておる。何でもお見通しだな)
善次郎は、しっかりと頷いた。
『そうなると、これからもお鴇には護りが必用になるな。儂の魂の一片を、お鴇に渡した鈴に込めよう。久遠に渡り、お鴇の護りとなるように』
宇八郎がちらりと、死神を横目に見る。死神は、すぃと、目を逸らした。
『善次郎、今すぐに、泣け。お主の涙に魂を溶かして、流し込む』
真面目至極な顔で、宇八郎が涙を強いる。
「承知しました、と、すぐに泣けるものではありませぬ。突然に無理を強いるのは、生前と変わりませぬな、兄上」
思わず零れた本音に、宇八郎が声を上げて笑った。
『はっは! 言うようになったのぅ、善次郎。いいや、違うな。お主は昔から利発で口達者であった。剣筋も良く、気も敏い。何をもっても儂より優れておった』
宇八郎が、懐かしそうな顔をする。
「それは、兄上です。儂は童の頃から、ずっと兄上の背中を追いかけて、稽古に勉学に励んで参りました。兄上の背中に追いつこうと。いつか共に御役目に付きたいと、懸命に」
憧れだった兄と肩を並べて、役目を果たしたい。それが善次郎の目処だった。
宇八郎が、善次郎の道標だった。
叶わない夢に散るのだと気付いた途端、胸に悲しみが去来した。
『お主は、とうに儂を追い越しておる。自信を持て、善次郎。儂にできぬ役目も、お主なら必ず全うできる。お主は儂が総てを託すと決めた、明楽家の誇りだ』
宇八郎の温かい手が、善次郎の肩を優しく叩く。目が潤んで、辺りが、ぼやけた。
「兄上は、狡いです。やはり兄上のほうが、一枚も二枚も、上手でございます」
出るはずのなかった涙が、善次郎の頬を一筋、流れた。
宇八郎の指が、涙を掬い取る。
『泣かせるために言うたのではないぞ。本音だ。今、伝えねば、もうこの口から伝える法がなくなるからな』
呟いた宇八郎の顔が、憂いを帯びた。
一滴で足りる涙が、止まらなくなる。善次郎は、ごしごしと目を擦った。
指に絡んだ善次郎の涙に、宇八郎が気を籠める。白い灯火が涙と解合った。掌に載せた鈴に、ぽたりと注ぎ込む。
善次郎の涙に溶けた宇八郎の魂が、鈴に宿った。白い光を淡く灯した鈴が、りぃん、と一つ、音を醸す。小川の潺のように透き通った綺麗な音色が、長く流れる。
宇八郎が、お鴇の帯留に、鈴を括りつけた。綺麗な音色の余韻を残して、鈴がお鴇の元に戻った。
『お鴇の巫覡の質を消すには至らぬが、難を逃れる助けとなろう。もう儂の力に左右されもせぬ。善次郎の涙が、儂の魂を鈴に留めてくれるからな』
頷いた長七は、善次郎より、泣いていた。
「ありがとうごぜぇやす。やっぱり、お二人は、そっくりだ」
善次郎は宇八郎と目を合わせ、微笑んだ。
宇八郎が一つ、息を吐き、後ろを振り返る。
『死神殿、待たせたの。魂が一片、現に残っても、黄泉に案内してもらえるか?』
宇八郎の問いに、死神は首を捻った。
「さぁて、何の話かねぇ。俺ぁ、なぁんも見ちゃぁいないから、わからないねぇ」
とぼける死神に、宇八郎が、くくっと笑う。
『流石は、善次郎の恩人の死神殿じゃ。話がわかる』
死神が、ははっと笑った。
「やれやれ、旦那の兄上様は、随分と遣り手だねぇ。でもまぁ、その程度じゃぁ、閻魔様も怒りゃぁしないよぉ。何せ、長いこと彷徨った死霊と面倒な怨霊の魂を連れて行くんだぁ。俺からすりゃぁ、大手柄さね」
「源壽院の魂も連れて行けるのか? 自然に還ったとばかり思うておった」
意外そうな善次郎に、死神が、にやりと頷く。
『六年以上も張り付いておったのだ。御役目は、きっちりと果たさねばな。儂が最後まで送り届けよう。死神殿と共に』
宇八郎が善次郎から離れ、死神に並び立った。
「兄上!」
これが本当に最後なのだと思ったら、言葉に迷った。まだまだ、交わしたい話も伝えたい言葉も、山ほどある。
「それじゃ、逝きやしょうかね、明楽宇八郎様」
死神が黄泉への道を開く。宇八郎の体が、透け始めた。
善次郎は慌てて、宇八郎に向かい、叫んだ。
「儂が、明楽家を! 兄上から引き継いだ明楽家を、盛り立てて見せます。黄泉から見ていてくだされ!」
宇八郎は満面の笑みで、力強く頷いた。
全員の顔を見渡して、宇八郎が叫ぶ。
『後は頼んだぞ、善次郎。……皆、さらばだ』
開いた道に流れるように、宇八郎の体が消えていく。
止まったはずの涙がまた一筋、頬を流れた。善次郎は、目を逸らさずに、消える兄の姿を見送った。
黄泉の道が閉じる。本殿から溢れていた神々しい光も消えた。
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とある秘密を抱えた兄弟と町娘おりんの紡ぐ江戸捕物抄です!お楽しみください!
※フィクションです。
※周辺の歴史事件などは、史実を踏んでいます。
皆さまご評価頂きありがとうございました。大変嬉しいです!
今後も精進してまいります!
無用庵隠居清左衛門
蔵屋
歴史・時代
前老中田沼意次から引き継いで老中となった松平定信は、厳しい倹約令として|寛政の改革《かんせいのかいかく》を実施した。
第8代将軍徳川吉宗によって実施された|享保の改革《きょうほうのかいかく》、|天保の改革《てんぽうのかいかく》と合わせて幕政改革の三大改革という。
松平定信は厳しい倹約令を実施したのだった。江戸幕府は町人たちを中心とした貨幣経済の発達に伴い|逼迫《ひっぱく》した幕府の財政で苦しんでいた。
幕府の財政再建を目的とした改革を実施する事は江戸幕府にとって緊急の課題であった。
この時期、各地方の諸藩に於いても藩政改革が行われていたのであった。
そんな中、徳川家直参旗本であった緒方清左衛門は、己の出世の事しか考えない同僚に嫌気がさしていた。
清左衛門は無欲の徳川家直参旗本であった。
俸禄も入らず、出世欲もなく、ただひたすら、女房の千歳と娘の弥生と、三人仲睦まじく暮らす平穏な日々であればよかったのである。
清左衛門は『あらゆる欲を捨て去り、何もこだわらぬ無の境地になって千歳と弥生の幸せだけを願い、最後は無欲で死にたい』と思っていたのだ。
ある日、清左衛門に理不尽な言いがかりが同僚立花右近からあったのだ。
清左衛門は右近の言いがかりを相手にせず、
無視したのであった。
そして、松平定信に対して、隠居願いを提出したのであった。
「おぬし、本当にそれで良いのだな」
「拙者、一向に構いません」
「分かった。好きにするがよい」
こうして、清左衛門は隠居生活に入ったのである。
アブナイお殿様-月野家江戸屋敷騒動顛末-(R15版)
三矢由巳
歴史・時代
時は江戸、老中水野忠邦が失脚した頃のこと。
佳穂(かほ)は江戸の望月藩月野家上屋敷の奥方様に仕える中臈。
幼い頃に会った千代という少女に憧れ、奥での一生奉公を望んでいた。
ところが、若殿様が急死し事態は一変、分家から養子に入った慶温(よしはる)こと又四郎に侍ることに。
又四郎はずっと前にも会ったことがあると言うが、佳穂には心当たりがない。
海外の事情や英吉利語を教える又四郎に翻弄されるも、惹かれていく佳穂。
一方、二人の周辺では次々に不可解な事件が起きる。
事件の真相を追うのは又四郎や屋敷の人々、そしてスタンダードプードルのシロ。
果たして、佳穂は又四郎と結ばれるのか。
シロの鼻が真実を追い詰める!
別サイトで発表した作品のR15版です。
【読者賞】江戸の飯屋『やわらぎ亭』〜元武家娘が一膳でほぐす人と心〜
旅する書斎(☆ほしい)
歴史・時代
【第11回歴史・時代小説大賞 読者賞(読者投票1位)受賞】
文化文政の江戸・深川。
人知れず佇む一軒の飯屋――『やわらぎ亭』。
暖簾を掲げるのは、元武家の娘・おし乃。
家も家族も失い、父の形見の包丁一つで町に飛び込んだ彼女は、
「旨い飯で人の心をほどく」を信条に、今日も竈に火を入れる。
常連は、職人、火消し、子どもたち、そして──町奉行・遠山金四郎!?
変装してまで通い詰めるその理由は、一膳に込められた想いと味。
鯛茶漬け、芋がらの煮物、あんこう鍋……
その料理の奥に、江戸の暮らしと誇りが宿る。
涙も笑いも、湯気とともに立ち上る。
これは、舌と心を温める、江戸人情グルメ劇。
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