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「ここにはいられない」
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(……なんだよ、それは)
スクは震えた。いっそ怯えた。なんだ、この男は、何なのだ。
頭がおかしいのではないか?
エメラードにとってスクはただの囚人のはずだ。真面目な男だ。だから優しくはするだろう、気づかいもするだろう、だがそれだけだ。自分の終わりのときに助けようとするような者ではない。
「何、考えてんの……」
スクのかすれた声に、エメラードは視線も向けてはこなかった。彼は王だけを見上げている。
王は、顔をしかめ、わずかに歯を剝いて嫌悪の顔をした。
スクはそれに同意した。最初からそうだ。エメラードよりも趣味の悪い王の方が、スクには共感できる存在だった。
エメラードの真面目さは理解できなかった。重荷を背負って、いったいどこの地獄に落ちるつもりなのだ?
それは人の場所ではない。
「……」
沈黙に支配された部屋で、がちゃりと音がした。
合鍵を持っていたらしい兵士が、それを回したのだった。その音がひどく響くので、兵士はわずかに顔をこわばらせた。
だが牢の扉を開けて中に入ってくる。
エメラードは抗わなかった。後ろ手に拘束され、牢を出ていく。
「……、」
これが本当に別れの時なのだとスクは気づいた。
「あ」
彼とはそう長く共にいたわけではない。
だが毎日、毎日ふたりでいたので、スクは彼の顔も声もまつげも髪のやわらかさも匂いも性器の形もてのひらの感触も優しさも忘れることはないだろう。
もしかすると自分が死ぬまで。
(それっていつ?)
いつまで。
彼の姿を見ずにいられるのだろうか。どうして彼はスクを助けようなどとしたのだろうか。どうして、
「あっ……」
スクはよろめいて絨毯に滑り落ちていた。スクが声をあげたというのに、エメラードは振り返らなかった。
(エメラード)
名前を、
さっき、
呼んでくれた。いや、呼んではいない。ただの名前だ。呼んだ。
これで終わりなのだ。
「……ああ!」
声が漏れたが、それほど大きな声ではなかった。ただ腹の底が絶望の音を出しただけだった。
(なんで、)
スクはただ死ぬだろう。
エメラードも死ぬだろう。同じ場所にいる。たとえ敵同士であっても看守と囚人であっても、そうである限り二人は同じものだ。
彼がスクを殺したとしても、スクは恨まないだろう。同じアリの一匹であるからだ。あの男もそうだった。それと同じ、
(同じ?)
本当にそうなのだろうか。
エメラードは、
「……?」
スクはぼんやりとした視界の中に、おかしなものを見つけた。
(ユリア?)
兵に拘束されたエメラードが牢から出ると、再び鍵がかけられる。王と兵士の意識はエメラードに向けられている。彼が王を裏切ることはないだろうに、とスクは思っている。
その後ろ、まるで当たり前のように彼女は歩いている。
この状況が見えていないのだろうか?
彼女はまっすぐエメラードの机に向かい、花瓶に触れた。
(花……)
今このときに、いったいそれに何の意味があるのだろう。彼女の手がしっかりと花瓶を掴み、持ち上げる。
「え?」
思わず声をあげたが、誰もスクに注意を向けなかった。
そして、ユリアは花瓶を王に叩きつけた。
「ぐあっ!? なに……うぐぅっ?」
花瓶が割れて水が飛び散る。
「陛下!」
「貴様……!」
花が落ち、王とその周囲の兵士が濡れた。
「痺れ水か……!」
水を浴びた王と兵士がよろめき倒れる。びくびくと痙攣しながら、濡れた服を脱ぎ捨てようとしている。
(痺れ水……)
汚染された地から取られるという水だ。濃さによって効果に差があるが、浴びた人間は名前の通り体が痺れる。
話には聞いたことがあるが、スクは実物を見るのは初めてだった。戦では滅多に使われることがない。それほど多くの人間を害することはできず、高価だからだ。
「後宮からの贈り物ですわ、陛下」
ユリアが言った。
王はもがくが、その豪奢な衣装を脱ぎ捨てられずにいる。王のそばに侍る兵士もまた、名のある騎士なのだろう、きらびやかな防具を脱ぎ捨てられずにいた。
「そしてこれは私の姫から。……いいえ、私から」
ユリアの手にきらめく刃があった。
「陛下をお守りしろ!」
兵士は動けない。
……動かない。
水を浴びたのは王の周囲にいた一部の兵士だ。だというのに、なぜか多くの者がうずくまって動かなかった。
「ぐっ、させるかぁ!」
しかし一人の兵士が呻きながら剣を握り、ユリアに向かった。
「ユリア!」
エメラードが叫んだ。
彼女の細い体に剣が届く。
だが同時に、彼女は全身をぶつけるように、短剣を王の身に押し込んでいた。
「ぐは……っ」
王が血を吐き、ユリアは静かに倒れた。
彼女は格子の前に倒れたので、スクから良く見えた。彼女もまた血を吐いている。身のうち深くを傷つけられては、助かる見込みはほぼなかった。
「……ユリア」
「貴様ぁ!」
「それよりも陛下を!」
「くそっ!」
騒がしい中で彼女の死につつある身体は放置された。
その目がスクに向けられる。
血に濡れた唇が開く。
「……ひめさま」
朦朧としながらもスクに向けられた瞳には、何が見えているのだろう。
だがすぐに瞳ははっきりとして、再びスクを見つめて口を開いた。
「スク様、私、は、あなたにお会いしたことが……」
「何……?」
「あなたが、お逃げになられて、よう……ございました……」
スクは目を見開いた。
会ったことが?
まさか。
(逃げた……? あの時の……)
ラズウェル王の庶子であることさえ知らず市井で暮らしていたスクに、王になれなどと、あまりに馬鹿げたことを言ってきた者たち。
あの中に、いたのだろうか。
「どうか、お健やかに……」
スクは首を振った。
耳をふさいだ。
そんなことはなかった。そんなことは、なかった。スクはつまらないただの平民で、下らない人生を送り、下らなく死ぬのだ。
ユリアはわずかに口元を微笑ませたまま、動かなくなった。
スクは後ずさり、ユリアの死と、王と兵士たち、そしてエメラード、すべてから遠ざかろうとした。
自分はただの元兵士で虜囚だった。ここで行われていることには、なにひとつ関係がない。否、あるとしてもそこに関わることなどないのだ。
彼らは決まったことをスクに押し付けるだけでいい。スクは下らない人生を生きて、死ぬ。
「スク」
しかしひそやかに、そっと、彼が呼んだ。
エメラードだ。どうしてか格子の外から手を差し伸べてきている。痺れた、あるいは痺れてもいないのに動かない兵士を置いて、動ける兵士達が王を運び出していった。
血の痕が点々と残る。
「ここにはいられない」
「……エメラード」
「急ぐんだ」
「あんた、」
忠臣じゃなかったの。
真面目な男じゃなかったのか。こうなることを知っていたのだろうか。こうなることを待っていたのだろうか。
なぜだか裏切られたような心地がして、スクは身を縮めて彼を見た。
「王様は」
「こうなってはもはや、私が陛下にできることはない」
「……」
スクはいくらか冷静になって、今の状況を考えた。王はユリアに殺された。いや、生き残る可能性もゼロではないだろう。だが害された。
エメラードも危険な立場だ。
疑われるのは間違いなかった。ただでさえ彼は間男の役割を持たされたのだから。
「君も危険だ」
「……ああ、うん」
間の抜けた声が出た。
短い間とはいえユリアはスクの侍女だった。そしてスクは元他国の兵士であり、囚人である。
逃げたほうがいい。
どうせ最後は下らなく死ぬのだから、生きられるだけ生きるのだ。
スクは震えた。いっそ怯えた。なんだ、この男は、何なのだ。
頭がおかしいのではないか?
エメラードにとってスクはただの囚人のはずだ。真面目な男だ。だから優しくはするだろう、気づかいもするだろう、だがそれだけだ。自分の終わりのときに助けようとするような者ではない。
「何、考えてんの……」
スクのかすれた声に、エメラードは視線も向けてはこなかった。彼は王だけを見上げている。
王は、顔をしかめ、わずかに歯を剝いて嫌悪の顔をした。
スクはそれに同意した。最初からそうだ。エメラードよりも趣味の悪い王の方が、スクには共感できる存在だった。
エメラードの真面目さは理解できなかった。重荷を背負って、いったいどこの地獄に落ちるつもりなのだ?
それは人の場所ではない。
「……」
沈黙に支配された部屋で、がちゃりと音がした。
合鍵を持っていたらしい兵士が、それを回したのだった。その音がひどく響くので、兵士はわずかに顔をこわばらせた。
だが牢の扉を開けて中に入ってくる。
エメラードは抗わなかった。後ろ手に拘束され、牢を出ていく。
「……、」
これが本当に別れの時なのだとスクは気づいた。
「あ」
彼とはそう長く共にいたわけではない。
だが毎日、毎日ふたりでいたので、スクは彼の顔も声もまつげも髪のやわらかさも匂いも性器の形もてのひらの感触も優しさも忘れることはないだろう。
もしかすると自分が死ぬまで。
(それっていつ?)
いつまで。
彼の姿を見ずにいられるのだろうか。どうして彼はスクを助けようなどとしたのだろうか。どうして、
「あっ……」
スクはよろめいて絨毯に滑り落ちていた。スクが声をあげたというのに、エメラードは振り返らなかった。
(エメラード)
名前を、
さっき、
呼んでくれた。いや、呼んではいない。ただの名前だ。呼んだ。
これで終わりなのだ。
「……ああ!」
声が漏れたが、それほど大きな声ではなかった。ただ腹の底が絶望の音を出しただけだった。
(なんで、)
スクはただ死ぬだろう。
エメラードも死ぬだろう。同じ場所にいる。たとえ敵同士であっても看守と囚人であっても、そうである限り二人は同じものだ。
彼がスクを殺したとしても、スクは恨まないだろう。同じアリの一匹であるからだ。あの男もそうだった。それと同じ、
(同じ?)
本当にそうなのだろうか。
エメラードは、
「……?」
スクはぼんやりとした視界の中に、おかしなものを見つけた。
(ユリア?)
兵に拘束されたエメラードが牢から出ると、再び鍵がかけられる。王と兵士の意識はエメラードに向けられている。彼が王を裏切ることはないだろうに、とスクは思っている。
その後ろ、まるで当たり前のように彼女は歩いている。
この状況が見えていないのだろうか?
彼女はまっすぐエメラードの机に向かい、花瓶に触れた。
(花……)
今このときに、いったいそれに何の意味があるのだろう。彼女の手がしっかりと花瓶を掴み、持ち上げる。
「え?」
思わず声をあげたが、誰もスクに注意を向けなかった。
そして、ユリアは花瓶を王に叩きつけた。
「ぐあっ!? なに……うぐぅっ?」
花瓶が割れて水が飛び散る。
「陛下!」
「貴様……!」
花が落ち、王とその周囲の兵士が濡れた。
「痺れ水か……!」
水を浴びた王と兵士がよろめき倒れる。びくびくと痙攣しながら、濡れた服を脱ぎ捨てようとしている。
(痺れ水……)
汚染された地から取られるという水だ。濃さによって効果に差があるが、浴びた人間は名前の通り体が痺れる。
話には聞いたことがあるが、スクは実物を見るのは初めてだった。戦では滅多に使われることがない。それほど多くの人間を害することはできず、高価だからだ。
「後宮からの贈り物ですわ、陛下」
ユリアが言った。
王はもがくが、その豪奢な衣装を脱ぎ捨てられずにいる。王のそばに侍る兵士もまた、名のある騎士なのだろう、きらびやかな防具を脱ぎ捨てられずにいた。
「そしてこれは私の姫から。……いいえ、私から」
ユリアの手にきらめく刃があった。
「陛下をお守りしろ!」
兵士は動けない。
……動かない。
水を浴びたのは王の周囲にいた一部の兵士だ。だというのに、なぜか多くの者がうずくまって動かなかった。
「ぐっ、させるかぁ!」
しかし一人の兵士が呻きながら剣を握り、ユリアに向かった。
「ユリア!」
エメラードが叫んだ。
彼女の細い体に剣が届く。
だが同時に、彼女は全身をぶつけるように、短剣を王の身に押し込んでいた。
「ぐは……っ」
王が血を吐き、ユリアは静かに倒れた。
彼女は格子の前に倒れたので、スクから良く見えた。彼女もまた血を吐いている。身のうち深くを傷つけられては、助かる見込みはほぼなかった。
「……ユリア」
「貴様ぁ!」
「それよりも陛下を!」
「くそっ!」
騒がしい中で彼女の死につつある身体は放置された。
その目がスクに向けられる。
血に濡れた唇が開く。
「……ひめさま」
朦朧としながらもスクに向けられた瞳には、何が見えているのだろう。
だがすぐに瞳ははっきりとして、再びスクを見つめて口を開いた。
「スク様、私、は、あなたにお会いしたことが……」
「何……?」
「あなたが、お逃げになられて、よう……ございました……」
スクは目を見開いた。
会ったことが?
まさか。
(逃げた……? あの時の……)
ラズウェル王の庶子であることさえ知らず市井で暮らしていたスクに、王になれなどと、あまりに馬鹿げたことを言ってきた者たち。
あの中に、いたのだろうか。
「どうか、お健やかに……」
スクは首を振った。
耳をふさいだ。
そんなことはなかった。そんなことは、なかった。スクはつまらないただの平民で、下らない人生を送り、下らなく死ぬのだ。
ユリアはわずかに口元を微笑ませたまま、動かなくなった。
スクは後ずさり、ユリアの死と、王と兵士たち、そしてエメラード、すべてから遠ざかろうとした。
自分はただの元兵士で虜囚だった。ここで行われていることには、なにひとつ関係がない。否、あるとしてもそこに関わることなどないのだ。
彼らは決まったことをスクに押し付けるだけでいい。スクは下らない人生を生きて、死ぬ。
「スク」
しかしひそやかに、そっと、彼が呼んだ。
エメラードだ。どうしてか格子の外から手を差し伸べてきている。痺れた、あるいは痺れてもいないのに動かない兵士を置いて、動ける兵士達が王を運び出していった。
血の痕が点々と残る。
「ここにはいられない」
「……エメラード」
「急ぐんだ」
「あんた、」
忠臣じゃなかったの。
真面目な男じゃなかったのか。こうなることを知っていたのだろうか。こうなることを待っていたのだろうか。
なぜだか裏切られたような心地がして、スクは身を縮めて彼を見た。
「王様は」
「こうなってはもはや、私が陛下にできることはない」
「……」
スクはいくらか冷静になって、今の状況を考えた。王はユリアに殺された。いや、生き残る可能性もゼロではないだろう。だが害された。
エメラードも危険な立場だ。
疑われるのは間違いなかった。ただでさえ彼は間男の役割を持たされたのだから。
「君も危険だ」
「……ああ、うん」
間の抜けた声が出た。
短い間とはいえユリアはスクの侍女だった。そしてスクは元他国の兵士であり、囚人である。
逃げたほうがいい。
どうせ最後は下らなく死ぬのだから、生きられるだけ生きるのだ。
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