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Ⅸ
平成元年1月② 雨日の朝刊配達
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冬の季節が深まっていた。朝刊配達に出てほどなくは、外の寒冷気と手のかじかみに痛めつけられる。ペダルの重たい業務用自転車を懸命に漕ぎ、降りて駆けまわっているうちに、しだいに体の芯から、やがて指の先まで温まっていく。今日のような雨の日は、例外だった。軍手越しに濡れつづける手がかじかみつづけ、体全体まですくむ。東京は、日の出が熊本より三、四十分早い。あせりもする。
――あの日より、ましだ。一郎は、気を取り直した。系列の販売店の合同新人研修会を終え、石神井へ来て二日目。東京ドームで初めてプロ野球公式戦の行われた昨年の四月八日の未明に、ドカ雪が降った。自転車を漕ぐことはできない。何度も倒し、やむなく引きずりながら十一区内に入って所々に捨て置き、配達指導役の東海と二人で手分けしてバージンスノーを駆けまわった。小中学生の登校時間になっても、中継地点のどちらにも朝刊の梱包が届かず、一郎は三幸荘の前で一時間近くにわたり、二十センチ近く積もった雪と全身に掻いた後に冷え切った汗に凍え、ぶるぶると震えながら立ちすくむしかなかった。
東海の指導が終わり、一人で配達するようになってほどなく、初めて大雨に降られた未明も思い出さずにいられない。十一区に入る直前の急な上り坂で、ハンドルを取られ自転車もろとも転倒した。前籠に積んだ朝刊は雨水の流れる路面にぶちまけてしまい、新聞も挟んだ折込みも配達できる代物でなくなった。販売店に戻り全区域分の予備と交換した後に、必死に十一区内を駆けまわったものの、降りつづく雨の中での配達は遅れに遅れた。八時すぎにようやく販売店に帰り着くと、読者から未着の電話が十件以上も入っていた。
今朝は、霧雨に近い。濡れた新聞や軍手が乾きにくく、厄介だ。こんなに冷たかったのかと、改めて痛感させられた。冬の雨には体の芯まで、心までも冷やされるのかと。一郎は、佐藤の若奥さんを思い浮かべる。明るく可愛らしい笑顔や、春風のような声に、身も心も温めてもらおうと。
雨漏りするポストが少なくなかった。石神井販売店に自動包装機は備えられておらず、朝刊に連載中の国民的四コマ漫画の主人公の印刷された専用ビニール袋に、手で新聞を入れて投函せねばならない。真冬の雨の日にかじかんだ手でその作業も伴いつつ行う配達に、いつにもまして根気と忍耐が求められていた。普段より、少なく見積もって三十分、降り方しだいで一時間ほど余分に時間を要する。五時半までに配達せねばならない「早入れ」の優先順位の選択にも迫られていた。五時までに配達しろと集金に行くたびに怒る、証券新聞だけ取っている山内さんは、まず除外する。他の早入れ読者に、心の中で謝った。今日は、前回の集金時にねちねちと嫌味を言われた父っちゃん坊やの得津さんを最優先に考えねばなるまい。
三百二十数部の朝刊配達を二時間強で終わらせたいなら、販売店の定めた順路に沿って行うことが必須の条件となる。そうしていては、区域内に点在する朝の早い読者の要望に沿えない。雨の日もあれば、新聞輸送トラックの到着が遅れる日もあった。最初の不動産会社から概ね八十部目の中元酒店まで順路に沿って配り、荷台に載せた朝刊をほぼ空になった前籠に積み替える。そこから、軽くなった自転車で駆けまわらねばならない。順路を変更しながら、さらに急げば、早入れの家々のみ飛び飛びに。一郎は、雨の日に野球帽をかぶるものの、レインコートを着なくなった。着れば、掻かいた汗でジャージや下着も内側からずぶ濡れになる。寒い季節は、かえって体が冷えてしまう。
――あの日より、ましだ。一郎は、気を取り直した。系列の販売店の合同新人研修会を終え、石神井へ来て二日目。東京ドームで初めてプロ野球公式戦の行われた昨年の四月八日の未明に、ドカ雪が降った。自転車を漕ぐことはできない。何度も倒し、やむなく引きずりながら十一区内に入って所々に捨て置き、配達指導役の東海と二人で手分けしてバージンスノーを駆けまわった。小中学生の登校時間になっても、中継地点のどちらにも朝刊の梱包が届かず、一郎は三幸荘の前で一時間近くにわたり、二十センチ近く積もった雪と全身に掻いた後に冷え切った汗に凍え、ぶるぶると震えながら立ちすくむしかなかった。
東海の指導が終わり、一人で配達するようになってほどなく、初めて大雨に降られた未明も思い出さずにいられない。十一区に入る直前の急な上り坂で、ハンドルを取られ自転車もろとも転倒した。前籠に積んだ朝刊は雨水の流れる路面にぶちまけてしまい、新聞も挟んだ折込みも配達できる代物でなくなった。販売店に戻り全区域分の予備と交換した後に、必死に十一区内を駆けまわったものの、降りつづく雨の中での配達は遅れに遅れた。八時すぎにようやく販売店に帰り着くと、読者から未着の電話が十件以上も入っていた。
今朝は、霧雨に近い。濡れた新聞や軍手が乾きにくく、厄介だ。こんなに冷たかったのかと、改めて痛感させられた。冬の雨には体の芯まで、心までも冷やされるのかと。一郎は、佐藤の若奥さんを思い浮かべる。明るく可愛らしい笑顔や、春風のような声に、身も心も温めてもらおうと。
雨漏りするポストが少なくなかった。石神井販売店に自動包装機は備えられておらず、朝刊に連載中の国民的四コマ漫画の主人公の印刷された専用ビニール袋に、手で新聞を入れて投函せねばならない。真冬の雨の日にかじかんだ手でその作業も伴いつつ行う配達に、いつにもまして根気と忍耐が求められていた。普段より、少なく見積もって三十分、降り方しだいで一時間ほど余分に時間を要する。五時半までに配達せねばならない「早入れ」の優先順位の選択にも迫られていた。五時までに配達しろと集金に行くたびに怒る、証券新聞だけ取っている山内さんは、まず除外する。他の早入れ読者に、心の中で謝った。今日は、前回の集金時にねちねちと嫌味を言われた父っちゃん坊やの得津さんを最優先に考えねばなるまい。
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