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【第一章】チューニング
シュガー・グライド 《舞姫》
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登校の途中でカップルを見た。
登校の途中で朝練中の生徒を見た。
登校の途中で友達と合流した。
それらは私が辿り着くべきものではないように感じられた。現実を何気なく捌きながらも、何かが胸の中で燻っている。蠢いている。私の心は既存のものではない何かを強く欲しているようだった。そしてその違和感は、今に巻き起こった感覚ではなかった。
※
「余は私に思ふやう、我母は余を活きたる辞書となさんとし、我官長は余を活きたる法律となさんとやしけん。辞書たらむは猶ほ堪ふべけれど、法律たらんは忍ぶべからず。今までは瑣々たる問題にも、極めて丁寧にいらへしつる余が、この頃より官長に寄する書には連に法制の細目にかゝづらふべきにあらぬを論じて、一たび法の精神をだに得たらんには、紛々たる万事は破竹の如くなるべしなどゝ広言しつ。又大学にては法科の講筵を余所にして、歴史文学に心を寄せ、漸く蔗を嚼む境に入りぬ。」
「はい、そこまで。次」
私は着席し、後ろの生徒が続けて読むのを目で追っていく。
舞姫。それは私に柔らかく強固な共感を与えたが、しかし、それでも文学でさえ、時間と集中力が亜空間を求め、吸い込まれるようなことがあれば、その意義はある分水嶺を超えた途端に一介の散文と等価値にまで落ち込んでしまう。
共感はできるが、欲求はしていない。
私は、自身の退屈がもはや致命的なレベルにまで達してしまっていることに気がついたのである。
視線はやがて教科書の文字列を離れ、窓ガラスを挟んだ校庭の方へとずれこんでいく。
植樹された緑の木々、食品サンプルのような青空。
この世界のショーケースにはそれらがお行儀よく並んでいた。無論、あちらはケースの外側であるのだが。
「ん?」
私は小さく声を漏らす。草むらの一角に動物の存在を認めたためである。
あれは……リスだろうか。いいや、リスにしては小さすぎるように思える。
≪それ≫は私がこの距離から発見することがほぼ奇跡であったかの如く矮小な身なりをしていた。
私は目を凝らす。集中力が針のように鋭くなっていく。
リスにしてはしっぽが長すぎるように感じる。≪それ≫のしっぽは胴体そのものよりも長く見えた。
観察を続けていると、≪それ≫は出てきた草むらの方を振り返るや否や、全身をパワフルに使って〝びっくり〟という感情を発露させ、一目散に学校の方へとぴょんぴょんと跳ぶように走ってきた。
何かから逃げている。直感的に私はそのように理解する。
しかし≪それ≫はやがて私の死角に入り込む。ここは二階なのだ。≪それ≫は接近しすぎたのである。
私の周囲に再び退屈の波が押し寄せる。
見るものがなくなってしまった。
ため息をつき、私はからっぽになった景色をぼんやりと眺める。
その時だった。死角から窓ガラスそのものに張り付き、下から≪それ≫は再び現れたのだ。
呆気にとられ、声は出なかった。出せなかったと言った方が正しいような濃密な沈黙だった。
≪それ≫は手足を繋ぐ膜のようなものを備えており、拡げると凧のように見えた。
≪それ≫はしきりに首を動かし、周囲の様子を確認していた。臆病な小動物の行動。
やがてこちらに興味を持つと、≪それ≫は窓ガラスに鼻をべちゃっとくっつけた。
「ブタ……」
今度は小さく声が出た。それは完全なる未知に対する、知的生命体の最後の足掻きのようであった。
≪それ≫は鼻に付着した水分を窓ガラスに残すと、そのまま再び下方へと消えていった。
現実の音が戻ってくる。舞姫の一節、クラスメイトのささやき、ボールペンのノック音。
しかしもう私の心はその教室には存在してはいなかった。
それらの物音は、まるで遥か何万光年先から届く星屑の残留思念のように思えた。
登校の途中で朝練中の生徒を見た。
登校の途中で友達と合流した。
それらは私が辿り着くべきものではないように感じられた。現実を何気なく捌きながらも、何かが胸の中で燻っている。蠢いている。私の心は既存のものではない何かを強く欲しているようだった。そしてその違和感は、今に巻き起こった感覚ではなかった。
※
「余は私に思ふやう、我母は余を活きたる辞書となさんとし、我官長は余を活きたる法律となさんとやしけん。辞書たらむは猶ほ堪ふべけれど、法律たらんは忍ぶべからず。今までは瑣々たる問題にも、極めて丁寧にいらへしつる余が、この頃より官長に寄する書には連に法制の細目にかゝづらふべきにあらぬを論じて、一たび法の精神をだに得たらんには、紛々たる万事は破竹の如くなるべしなどゝ広言しつ。又大学にては法科の講筵を余所にして、歴史文学に心を寄せ、漸く蔗を嚼む境に入りぬ。」
「はい、そこまで。次」
私は着席し、後ろの生徒が続けて読むのを目で追っていく。
舞姫。それは私に柔らかく強固な共感を与えたが、しかし、それでも文学でさえ、時間と集中力が亜空間を求め、吸い込まれるようなことがあれば、その意義はある分水嶺を超えた途端に一介の散文と等価値にまで落ち込んでしまう。
共感はできるが、欲求はしていない。
私は、自身の退屈がもはや致命的なレベルにまで達してしまっていることに気がついたのである。
視線はやがて教科書の文字列を離れ、窓ガラスを挟んだ校庭の方へとずれこんでいく。
植樹された緑の木々、食品サンプルのような青空。
この世界のショーケースにはそれらがお行儀よく並んでいた。無論、あちらはケースの外側であるのだが。
「ん?」
私は小さく声を漏らす。草むらの一角に動物の存在を認めたためである。
あれは……リスだろうか。いいや、リスにしては小さすぎるように思える。
≪それ≫は私がこの距離から発見することがほぼ奇跡であったかの如く矮小な身なりをしていた。
私は目を凝らす。集中力が針のように鋭くなっていく。
リスにしてはしっぽが長すぎるように感じる。≪それ≫のしっぽは胴体そのものよりも長く見えた。
観察を続けていると、≪それ≫は出てきた草むらの方を振り返るや否や、全身をパワフルに使って〝びっくり〟という感情を発露させ、一目散に学校の方へとぴょんぴょんと跳ぶように走ってきた。
何かから逃げている。直感的に私はそのように理解する。
しかし≪それ≫はやがて私の死角に入り込む。ここは二階なのだ。≪それ≫は接近しすぎたのである。
私の周囲に再び退屈の波が押し寄せる。
見るものがなくなってしまった。
ため息をつき、私はからっぽになった景色をぼんやりと眺める。
その時だった。死角から窓ガラスそのものに張り付き、下から≪それ≫は再び現れたのだ。
呆気にとられ、声は出なかった。出せなかったと言った方が正しいような濃密な沈黙だった。
≪それ≫は手足を繋ぐ膜のようなものを備えており、拡げると凧のように見えた。
≪それ≫はしきりに首を動かし、周囲の様子を確認していた。臆病な小動物の行動。
やがてこちらに興味を持つと、≪それ≫は窓ガラスに鼻をべちゃっとくっつけた。
「ブタ……」
今度は小さく声が出た。それは完全なる未知に対する、知的生命体の最後の足掻きのようであった。
≪それ≫は鼻に付着した水分を窓ガラスに残すと、そのまま再び下方へと消えていった。
現実の音が戻ってくる。舞姫の一節、クラスメイトのささやき、ボールペンのノック音。
しかしもう私の心はその教室には存在してはいなかった。
それらの物音は、まるで遥か何万光年先から届く星屑の残留思念のように思えた。
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