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第一話

【本日の御予約】 紫乃原みちる 様 ②

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 熊本県熊本市中央区、新町しんまち――。
 それが二限の講義のあとバスで二〇分。路面電車に乗り換えて一〇分ほど揺られた末にたどり着いた場所の名だった。
 繁華街がすぐ隣にあるというのに、街は意外にも落ち着いていた。
 
 静かで、狭くて、老いていて、どこか昭和・大正風のレトロな匂いが残っている。狭い道路を走る車のほとんどが繁華街へと消えていく様は、まるでこの街には用など無いとでも言いたげだった。

 ――携帯に送られていた凛介のバイト先を探し始める。

 家を出る時、凛介に言われて一枚多くセーターを着込んだ。
 黒いセーターは春の陽気を目一杯吸い込んで、体が熱を持つ。
 
 それでも暑くはない。――ううん。

 どこから暑くてどこから寒いのか、あたしは自分の事さえよくわからないのだ。


 ◇◆◇


 平日の昼にもかかわらず、歩けばそれなりの人と出会った。
 すれ違う人の方が多く感じるのは、たぶん彼らの目的地があたしの背中側にそびえる熊本城だからだろう。
 もとより桜の名所として有名ではあったけれど、地震で崩れた城郭は、皮肉にも観光地としての価値をさらに引き上げたらしい。

 ……正直なところ、桜も崩れた城郭もなんとも思わない。そんな物をわざわざ見に行く事になんの意味があるのか解らないまま、あたしはただ歩を進める。
 
 レンガ作りの壁に瓦屋根が乗った和洋折衷の書店。
 築一〇〇年は経っていそうな白壁の醤油蔵。
 赤く錆びたシャッターが目立つ商店街。

 それらを横目に流しながら桜の花びらが浮かぶ小川を超える。
 その後、古民家をリノベーションしたカフェや居酒屋が並ぶ路地を抜けた先に――目的の店はあった。

 見た目は立派な武家屋敷。
 建物の周りは木造の塀に覆われていて、敷地に入るには表門の格子戸こうしどを抜ける必要があるらしい。格子戸の奥は庭のような造りになっていて、不規則に並んだ踏み石の先にようやく屋敷の玄関が見てとれた。
 ……宿と聞いていたのに、思っていたよりずっと大きい。

 と。門の上部に視線を向けると、年季の籠った一枚板の看板が目に入った。



『民宿・うらおもて』



 あたしは芸術ってモノが全く理解できない人間だけれど、そんなあたしでもうなじにぞわりと寒気を感じる達筆で、そう書いてある。
 念のためにもう一度、携帯に目を向ける。
 うん、間違いない。ここが凛介のバイト先だ。

「悪いけど今日はやってないよ。うちは完全予約制でね」
「――っ?!」

 完全に意識の外から声がして、両の肩がビクンと跳ねた。
 鼓動が一気に早まったのを感じながら声の方へ視線を移すと――いつの間にか、門の奥に女性が立っていた。

 ……綺麗な人だ。


 ぱっと見た感じ二十代後半くらい。
 すらっと伸びた鼻筋に、三日月を思わせる細い目。漆黒の黒髪。仕事用と思われる薄化粧が、逆に素材の良さを引き立てている。

 しかし最も目を惹かれたのは、このヒトの恰好だった。

 大正袴――と呼べばいいだろうか。
 着物や振袖よりも巫女服に近いソレは淡い菖蒲色をしていて、屋敷の雰囲気にとても合っている。
 むしろあまりにも馴染んでいて、門の向こう側だけ時間がかしいでいるみたいだ。

「――いえ、その。泊りに来た訳じゃなくて」

 返答を待っている風の女性にそこまで言って、言葉に詰まった。
 このヒトが民宿の店員なのは間違いない。……でも、何を言えばいいんだろう。凛介は「話を通しておく」なんて言っていたけれど、どうやってそこに話を持っていけばいいのか見当がつかない。
 こんな事なら無理を言ってでも凛介と一緒に来れば良かった……。
 あたしが『無理』を言えるかどうかは別の話として――なんて思っていると、

「おや? もしかして……キミが凛くんのカノジョさんかい?」
「あ、はい。そうです」

 馬鹿正直に『彼女』として紹介されているのか、とか。
 ここでは『凛くん』なんて呼ばれているのか、とか。
 いくつか思うところはあったけれど、全部後回しにして頷く。

「へぇ……。そっかそっか。どんな子が来るのか楽しみにしてたけど、なるほどね」

 言いながら、女性は口元をにやりと歪ませた。
 たったそれだけで女性の雰囲気がガラリと変わる。……なぜか、首筋にゾワリと鳥肌が立った。

「うん。ある程度の話は凛くんから聞いてるよ。でもまぁ、立ってするような話じゃないし中にお入りよ。凛くんにコーヒーでも淹れて貰おう」
「――あ、はい」

 ……いまの感覚は何だったんだろう? 気付けば首筋の鳥肌は消えている。
 ともあれ。店の中に凛介が居るのだとわかって少しだけホッとした。
 いくらか緊張が解けたところで、あたしは手招きに従って店の中に入ることにした。

「ああ、そうだ。面倒だし先に自己紹介を済ませておこうか」

 先に店の戸を潜ろうとしていた女性が思い出したように振り返った。
 それから左手を胸に当てながら、

「私は浦面摩子うらおもてまこ。この店の主人だよ」

 これがあたしと浦面摩子さんの、出会い方だけはなんてことのない、ファーストコンタクトだった。
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