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ひとつになる日々
過去と未来がひとつになった日 ✴︎イラスト有
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かつて、精霊の加護を失ったという一人の男の手記を読んだことがある。
彼の手記には、人が人としての喜びを失った、その末路が描かれていた。
ものを食べても味がせず、どれほど美しい色彩を見ても色を感じず、芳しい花の匂いもなく、どれほど荘厳な音楽にも心を揺さぶられることはない。
そこに在るものには確かに触れられるのに、何も感じることができないのだ。
愛しい人と触れ合った瞬間の、指先まで心臓になったかのような素晴らしい喜びと高揚。それを記憶として知っているのに、もうそれを、感じることはできない。
目にするものすべてが、ただ見えているという現象、それだけだ。美しいと感じることも醜いと眉をしかめることもない。心は沈黙したままだ。
それは、ただひたすらに豊かさを追い求めてきた男から、生きる意味を奪い去った。
もっと美味なものを食べたい、もっと美しいものが着たい、もっと美しい女を手に入れたい、もっと面白い芝居が見たい、もっと音楽に酔いしれたい、もっと、もっと、もっと。
男は手にし得るすべてを望んだ。そして精霊の住む土地を汚した。
そして、男はすべての喜びを感じる心を失った。
精霊を失ったモノクロームの中で、ただ後悔という名の過去を延々と繰り返して、手記は終わる。
◆
泣き崩れるチャイロ男爵を見て、私はこの手記を思い出していた。
なぜ財を望んだのか? 美味しいものを味わい、上質な絹の感触を愉しみ、たくさんの宝石で自分を飾り立てるためだ。
なのに、何を食べても何に触れても、何を見ても喜びを感じない。
それが素晴らしいものだったということを知っている。知ってしまったからこそ、喜びの記憶は耐え難い苦痛に変わってしまう。
私は、イーサン殿下と訪れた美術館に、そこで一緒に見たセーブルの色彩に、思いを馳せる。時代ごとに移ろう様々な色彩と情景と、それを解説してくれる殿下の柔らかな声に。
殿下と見たオペラの、天から祝福が降り注ぐような音の響き合いを思う。クライマックスでふと隣を見たときの、舞台からの照明に照らされたいつもより硬質な横顔も。
図書館で向かい合って、ただ本のページをめくっていた時間を思い出す。ふと目線を上げたタイミング、互いの視線がぶつかって笑ってしまったこと。窓の外に広がる若葉の緑。紙の匂い。
気がつけば、頬を涙が流れていた。何ひとつ、どの思い出ひとつも無くしたくないと強く思って、周囲を飛び交う精霊に祈りながら泣いた。
「ニーナさん」
ゆらゆら揺れる涙の膜の向こうに、王族席に居たはずのイーサン殿下が立つ。会場の皆が自分の精霊を目で追うのに夢中で、誰も私たちを見ていない。
ディーン兄さまの手を解いて、殿下に向かって足を踏み出す。一歩踏み出すごとにふわりと光の粒子が舞い踊る中、辿り着いた先で差し出された手に自分の手を重ねてみる。
触れた瞬間に、殿下との思い出はちゃんと今に繋がった。
「どうして泣くの」
「殿下が」
「うん」
「殿下がとても、いとしいので」
私の言葉に、殿下が目を丸くして、それからじわじわと頬に喜びを滲ませていく。
「ニーナさん」
「はい」
「ニーナさんの未来を、わけてほしい」
イーサン殿下は、いつもイーサン殿下らしい。
お前の未来を寄越せと言える身分なのに、自分の分もわけてと言う。
「はい、殿下」
頷いて、顔を上げて、揺れる水の中に浮かぶ炎の瞳を見た。私は水の精霊ではないけれど、今この瞬間、殿下の赤が何よりも愛おしかった。
イーサン殿下に手を引かれ、そちらへと進む前に、ディーン兄さまを振り向く。
ひとつ頷いて、目線で行けという兄。杖に灯る光を見れば、それは徐々に小さくなっていくところだった。庭園に広がっていた魔法が収束していく。
「裁きは終わった」
陛下が厳かに宣言する。加護を失い呆然とへたり込む人たち、許され涙を流す人たち、初めて目にする精霊の光に感動する人たち。その表情は様々だ。
「正式な決定は後日に改めるが、議会は精霊の裁量に従うことになるだろう」
その宣言に、加護のなき人たちが退席を促され、茫洋とした目と覚束ない足取りのまま、庭園から連れられてゆく。それはまるで、精霊の満ちた世界からの追放のようだった。
もうすぐ、夜会が終わる。
あたりを飛び交う精霊の光がひとつ、またひとつと消えてゆき、やがて夜はいつもの顔を取り戻した。
【追加更新】
✴︎読んでくださりありがとうございます!
感謝を込めて、リクエスト頂いていた、「叱られて背中を丸めるデューク」のイラストです。
お待たせしてしまいごめんなさい!
次回もよろしくお願いします!
彼の手記には、人が人としての喜びを失った、その末路が描かれていた。
ものを食べても味がせず、どれほど美しい色彩を見ても色を感じず、芳しい花の匂いもなく、どれほど荘厳な音楽にも心を揺さぶられることはない。
そこに在るものには確かに触れられるのに、何も感じることができないのだ。
愛しい人と触れ合った瞬間の、指先まで心臓になったかのような素晴らしい喜びと高揚。それを記憶として知っているのに、もうそれを、感じることはできない。
目にするものすべてが、ただ見えているという現象、それだけだ。美しいと感じることも醜いと眉をしかめることもない。心は沈黙したままだ。
それは、ただひたすらに豊かさを追い求めてきた男から、生きる意味を奪い去った。
もっと美味なものを食べたい、もっと美しいものが着たい、もっと美しい女を手に入れたい、もっと面白い芝居が見たい、もっと音楽に酔いしれたい、もっと、もっと、もっと。
男は手にし得るすべてを望んだ。そして精霊の住む土地を汚した。
そして、男はすべての喜びを感じる心を失った。
精霊を失ったモノクロームの中で、ただ後悔という名の過去を延々と繰り返して、手記は終わる。
◆
泣き崩れるチャイロ男爵を見て、私はこの手記を思い出していた。
なぜ財を望んだのか? 美味しいものを味わい、上質な絹の感触を愉しみ、たくさんの宝石で自分を飾り立てるためだ。
なのに、何を食べても何に触れても、何を見ても喜びを感じない。
それが素晴らしいものだったということを知っている。知ってしまったからこそ、喜びの記憶は耐え難い苦痛に変わってしまう。
私は、イーサン殿下と訪れた美術館に、そこで一緒に見たセーブルの色彩に、思いを馳せる。時代ごとに移ろう様々な色彩と情景と、それを解説してくれる殿下の柔らかな声に。
殿下と見たオペラの、天から祝福が降り注ぐような音の響き合いを思う。クライマックスでふと隣を見たときの、舞台からの照明に照らされたいつもより硬質な横顔も。
図書館で向かい合って、ただ本のページをめくっていた時間を思い出す。ふと目線を上げたタイミング、互いの視線がぶつかって笑ってしまったこと。窓の外に広がる若葉の緑。紙の匂い。
気がつけば、頬を涙が流れていた。何ひとつ、どの思い出ひとつも無くしたくないと強く思って、周囲を飛び交う精霊に祈りながら泣いた。
「ニーナさん」
ゆらゆら揺れる涙の膜の向こうに、王族席に居たはずのイーサン殿下が立つ。会場の皆が自分の精霊を目で追うのに夢中で、誰も私たちを見ていない。
ディーン兄さまの手を解いて、殿下に向かって足を踏み出す。一歩踏み出すごとにふわりと光の粒子が舞い踊る中、辿り着いた先で差し出された手に自分の手を重ねてみる。
触れた瞬間に、殿下との思い出はちゃんと今に繋がった。
「どうして泣くの」
「殿下が」
「うん」
「殿下がとても、いとしいので」
私の言葉に、殿下が目を丸くして、それからじわじわと頬に喜びを滲ませていく。
「ニーナさん」
「はい」
「ニーナさんの未来を、わけてほしい」
イーサン殿下は、いつもイーサン殿下らしい。
お前の未来を寄越せと言える身分なのに、自分の分もわけてと言う。
「はい、殿下」
頷いて、顔を上げて、揺れる水の中に浮かぶ炎の瞳を見た。私は水の精霊ではないけれど、今この瞬間、殿下の赤が何よりも愛おしかった。
イーサン殿下に手を引かれ、そちらへと進む前に、ディーン兄さまを振り向く。
ひとつ頷いて、目線で行けという兄。杖に灯る光を見れば、それは徐々に小さくなっていくところだった。庭園に広がっていた魔法が収束していく。
「裁きは終わった」
陛下が厳かに宣言する。加護を失い呆然とへたり込む人たち、許され涙を流す人たち、初めて目にする精霊の光に感動する人たち。その表情は様々だ。
「正式な決定は後日に改めるが、議会は精霊の裁量に従うことになるだろう」
その宣言に、加護のなき人たちが退席を促され、茫洋とした目と覚束ない足取りのまま、庭園から連れられてゆく。それはまるで、精霊の満ちた世界からの追放のようだった。
もうすぐ、夜会が終わる。
あたりを飛び交う精霊の光がひとつ、またひとつと消えてゆき、やがて夜はいつもの顔を取り戻した。
【追加更新】
✴︎読んでくださりありがとうございます!
感謝を込めて、リクエスト頂いていた、「叱られて背中を丸めるデューク」のイラストです。
お待たせしてしまいごめんなさい!
次回もよろしくお願いします!
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