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もう戻れない
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用事がなければこちらからはコールしたり出来ない実とは逆に、酔った勢いで新汰は何時でも気に掛ける様子もなく電話してきた。
深夜にうとうとしながら愚痴と文句を聞かされ、気付いたら意識を失っていて、ハッと目が覚めても新汰はそのまま喋り続けていたこともあったし、通話が切れていたこともあった。
記憶があればごめんねと後から謝られることもあったが、今回の工房での行為のように、根本的に悪いとは感じていないのだろう、何も言われないことの方が多かった。
それでも、そういったこと以上に、作品に対する褒め言葉や、軽くとはいえ口にされる睦言に励まされてきた。その後にはすぐに落ち込んでも、一時でも自分に気持ちが向くその瞬間が欲しくて、言われるまま褒められるままに共に作品を作り続けてきた。
飲み終えた湯飲みを回収し、まとめて流しで洗いながら思う。
自分は本当にガラス工芸が好きなのだろうか、と。
興味があったのは確かだった。そんな機会があるなら、是非自分の手でも作ってみたいと、その手を取った。
だが、それは新汰が居たからではなかったか。彼が好きなことだから、一緒に楽しめるから続けてきたのではないか。
はたして、一人になってでも、続けたいものなのだろうかと。
新汰からは、毎日のようにメールが入った。
大抵は工房に行くかどうかの問いだけだったが、今忙しいとの返答が続けば、家でも手付かずなのかと問われ、それにも時間が取れないとしか返さなかった。
実にとっては、自分に対する確認の期間でもあった。
確かに、全く会いたくないのかと言えば、そうではないと応じるだろう。
ただ、それは惰性ではないかと、執着や未練ではないように感じるのだ。
長年ずっと共に過ごしてきた。家族や職場の人たち以外では、ただ一人の人だった。
もしも同じ年数を哲朗と過ごしたとしても、時間数は全く異なるだろうと断言できる。
新汰が話す他愛ないことを聞きながら、二人で飲んだ日もあった。何処の誰ともよく知らないような人たちと、どんちゃん騒ぎで過ごす日も多かった。そして、回数を重ねるごとに自分の専門知識が増え、技が洗練され、それとともに集う仲間たちとも気心が知れるようになり、作家同士の横の繋がりも出来ていき、そこが実の居場所になっていった。
今、ただの高校の事務員としての吉岡実とは、一体なんだろうと思う。
自宅の作業場と決めた三畳間。帰宅してそこに佇む。腰高の小さな窓からは強い西日が差し込み、作業台の上を橙色に塗り潰している。
あっという間に黒く染まって行く部屋の中でゆっくりと首を巡らせ、何かに憑かれたように没頭して制作していた日々を思った。
近い筈なのに、遠い。
軋む椅子に腰掛けて前屈みになっている自分の幻影に目を細め、この一週間、一瞬たりともそこに座りたいと感じなかった自分の体を抱き締めた。
職場と自宅の往復の日々。一人でも楽しめるような、誰でもするようなことを少しずつ齧るだけの趣味ともいえない時間潰し。
ふわふわと、淡々と。殆どの人がそうであるように、起伏があるようでないような、そんな人生を一気に染め替えたのは新汰だった。
没頭し、生業ではないものの、それなりに名の知れるようになった専門的な世界で、気忙しくても充実した日々だった。
だったと、過去形にしても良いのだろうか。
以前のような、これといって張りのない、けれども平穏な日々に戻りたいのだろうか。
──あの時、最初に抱き合うことを拒んでいれば。
後悔ならば数え切れないほどにした。
もう戻れない。
ただ、同じ趣味を持つ者同士として、師弟でコンビで相方で。誰にも後ろめたいところのない関係のままだったならば、或いは。
その手を取ったのは、自分。
ならばその手を離すのも、自分で決めなくてはならないだろうと、そう思いながらそっと目を閉じた。
事務でずっと腰を下ろしているのもそれなりに辛かったが、車の振動もじわじわと堪えるものなんだなと、実は実感した。
運転席では哲朗がこれから行く先の公園の話をしてくれている。
それに微笑みながら相槌を打ちつつも、一週間経っても未だに痛む傷と腰に意識が割かれてしまい、それを気取られないようにするのに懸命だった。
何か薬を付けられるものなのかも判らないから、取り敢えずと清潔にして、脱肛すればこっそり中に押し込めて誤魔化しながら過ごしてきた。
母親の気遣いのお陰か休息の成果か、貧血は改善されたものの、外傷はすぐには治らない。しかも排便すれば治りかけの部分がまた裂けては出血しての繰り返しで、少しはマシになったと感じても、完治の日は遠そうだった。
比較的振動の少ないセダンでこれなのだから、もうどうしようもない。他の乗り物ならばもっと響くのだろうなと恐ろしくなった。
「みのっち、もしかして気分悪い?」
あまり喋らない実に何か感じるところがあったのか、哲朗が心配そうに問うた。
「えっ、あ、ごめん。そんなんじゃないんだけど」
ずっと忙しかったから疲れてるのかも。そう続けると、日延べした方が良かったかなと眉を下げている。
「山道に入るから、辛くなったら言ってな。なるべく丁寧に運転してるつもりだけど」
乱暴な運転手に当たると、同じ山道でもカーブいくつかくらいで普段車酔いしない体質の人でも気分が悪くなるものだ。その点哲朗は流石にプロのドライバーだけあって、積載物に負荷が掛からないようにハンドリングもブレーキやアクセルワークも丁寧だった。
「こっちこそごめんな、折角の休日なのに気を遣わせて。ずっと楽しみにしてたんだ。わったんと一緒に居られて凄く嬉しい」
黙って耐えるより少し話しながら気を紛れさせようと気分を切り替え、入試関連のあれこれなどで笑い話にする。
一生のうちでもかなり重要な書類である筈の願書ですら書き間違いが多く、御中すら知らないやら部活動の部の字も書けないやらと生徒たちの悪戦苦闘振りを話題にすれば、哲朗は遠慮なく笑い転げてくれた。
深夜にうとうとしながら愚痴と文句を聞かされ、気付いたら意識を失っていて、ハッと目が覚めても新汰はそのまま喋り続けていたこともあったし、通話が切れていたこともあった。
記憶があればごめんねと後から謝られることもあったが、今回の工房での行為のように、根本的に悪いとは感じていないのだろう、何も言われないことの方が多かった。
それでも、そういったこと以上に、作品に対する褒め言葉や、軽くとはいえ口にされる睦言に励まされてきた。その後にはすぐに落ち込んでも、一時でも自分に気持ちが向くその瞬間が欲しくて、言われるまま褒められるままに共に作品を作り続けてきた。
飲み終えた湯飲みを回収し、まとめて流しで洗いながら思う。
自分は本当にガラス工芸が好きなのだろうか、と。
興味があったのは確かだった。そんな機会があるなら、是非自分の手でも作ってみたいと、その手を取った。
だが、それは新汰が居たからではなかったか。彼が好きなことだから、一緒に楽しめるから続けてきたのではないか。
はたして、一人になってでも、続けたいものなのだろうかと。
新汰からは、毎日のようにメールが入った。
大抵は工房に行くかどうかの問いだけだったが、今忙しいとの返答が続けば、家でも手付かずなのかと問われ、それにも時間が取れないとしか返さなかった。
実にとっては、自分に対する確認の期間でもあった。
確かに、全く会いたくないのかと言えば、そうではないと応じるだろう。
ただ、それは惰性ではないかと、執着や未練ではないように感じるのだ。
長年ずっと共に過ごしてきた。家族や職場の人たち以外では、ただ一人の人だった。
もしも同じ年数を哲朗と過ごしたとしても、時間数は全く異なるだろうと断言できる。
新汰が話す他愛ないことを聞きながら、二人で飲んだ日もあった。何処の誰ともよく知らないような人たちと、どんちゃん騒ぎで過ごす日も多かった。そして、回数を重ねるごとに自分の専門知識が増え、技が洗練され、それとともに集う仲間たちとも気心が知れるようになり、作家同士の横の繋がりも出来ていき、そこが実の居場所になっていった。
今、ただの高校の事務員としての吉岡実とは、一体なんだろうと思う。
自宅の作業場と決めた三畳間。帰宅してそこに佇む。腰高の小さな窓からは強い西日が差し込み、作業台の上を橙色に塗り潰している。
あっという間に黒く染まって行く部屋の中でゆっくりと首を巡らせ、何かに憑かれたように没頭して制作していた日々を思った。
近い筈なのに、遠い。
軋む椅子に腰掛けて前屈みになっている自分の幻影に目を細め、この一週間、一瞬たりともそこに座りたいと感じなかった自分の体を抱き締めた。
職場と自宅の往復の日々。一人でも楽しめるような、誰でもするようなことを少しずつ齧るだけの趣味ともいえない時間潰し。
ふわふわと、淡々と。殆どの人がそうであるように、起伏があるようでないような、そんな人生を一気に染め替えたのは新汰だった。
没頭し、生業ではないものの、それなりに名の知れるようになった専門的な世界で、気忙しくても充実した日々だった。
だったと、過去形にしても良いのだろうか。
以前のような、これといって張りのない、けれども平穏な日々に戻りたいのだろうか。
──あの時、最初に抱き合うことを拒んでいれば。
後悔ならば数え切れないほどにした。
もう戻れない。
ただ、同じ趣味を持つ者同士として、師弟でコンビで相方で。誰にも後ろめたいところのない関係のままだったならば、或いは。
その手を取ったのは、自分。
ならばその手を離すのも、自分で決めなくてはならないだろうと、そう思いながらそっと目を閉じた。
事務でずっと腰を下ろしているのもそれなりに辛かったが、車の振動もじわじわと堪えるものなんだなと、実は実感した。
運転席では哲朗がこれから行く先の公園の話をしてくれている。
それに微笑みながら相槌を打ちつつも、一週間経っても未だに痛む傷と腰に意識が割かれてしまい、それを気取られないようにするのに懸命だった。
何か薬を付けられるものなのかも判らないから、取り敢えずと清潔にして、脱肛すればこっそり中に押し込めて誤魔化しながら過ごしてきた。
母親の気遣いのお陰か休息の成果か、貧血は改善されたものの、外傷はすぐには治らない。しかも排便すれば治りかけの部分がまた裂けては出血しての繰り返しで、少しはマシになったと感じても、完治の日は遠そうだった。
比較的振動の少ないセダンでこれなのだから、もうどうしようもない。他の乗り物ならばもっと響くのだろうなと恐ろしくなった。
「みのっち、もしかして気分悪い?」
あまり喋らない実に何か感じるところがあったのか、哲朗が心配そうに問うた。
「えっ、あ、ごめん。そんなんじゃないんだけど」
ずっと忙しかったから疲れてるのかも。そう続けると、日延べした方が良かったかなと眉を下げている。
「山道に入るから、辛くなったら言ってな。なるべく丁寧に運転してるつもりだけど」
乱暴な運転手に当たると、同じ山道でもカーブいくつかくらいで普段車酔いしない体質の人でも気分が悪くなるものだ。その点哲朗は流石にプロのドライバーだけあって、積載物に負荷が掛からないようにハンドリングもブレーキやアクセルワークも丁寧だった。
「こっちこそごめんな、折角の休日なのに気を遣わせて。ずっと楽しみにしてたんだ。わったんと一緒に居られて凄く嬉しい」
黙って耐えるより少し話しながら気を紛れさせようと気分を切り替え、入試関連のあれこれなどで笑い話にする。
一生のうちでもかなり重要な書類である筈の願書ですら書き間違いが多く、御中すら知らないやら部活動の部の字も書けないやらと生徒たちの悪戦苦闘振りを話題にすれば、哲朗は遠慮なく笑い転げてくれた。
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