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13 一軒家
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ラーズに案内された家は神殿の目と鼻の先にあった。狭い間口と長い通路を抜けるとその先には小さな庭がある。まさかこんなところに庭があるとは。
私はあたりを見回す。
壁に取り付けられた水盤に水が落ちるように設計されていて、その周りには小さな花が咲く植物が植えられていた。花のいい香りがする。まるで林の中にいるかのような空気だ。私は大きく息を吸い込む。
「ラーズさん、本当にここなんですか?」
「気に入らなかったですか?」
心配そうに聞くラーズに私は手を振って否定した。
「いえいえ、すごく素敵なところです。でも、ここ……お高くないかしら?」
私が大学のときに借りていたのは部屋だった。それでも、かなりの額だったのに。
そんな部屋に比べると、これは邸宅規模だ。専用の庭付きなんて、家賃を想像すると恐ろしくなる。
「大丈夫ですよ。ここは物価が安いところですから」
ラーズはこともなげにそういった。
本当なのだろうか。あとで、払えないとわかったらどうしよう。
でも、当たり前のように払えるというラーズ会長に確かめるのが怖い。
私はラーズ会長の大きな背中に隠れるようにしてあたりを見分する。
奥の入り口で家主らしき男に丁重にあいさつをされた。
「ラーズ様のお望み通り、極上の物件を用意しました」
男は恭しく、中を案内する。
「ご覧ください。ここは眺めのいい食堂、そして、その向こうに……」
うわ。思っていたよりもずっと広い。
やっぱり、いいですといいたかったけれど、ラーズ会長が熱心に見て回っているのでとても声をかけられない。
そうこうしているうちに、内覧は終わった。一通り中を案内して、男は胸を張った。
「いかがでございましょう。奥様」
「とっても素敵な部屋なのですけれど……ここ、下宿にしては部屋が多すぎませんか? 寝室だけでも3部屋はありましたよ」
男はうなずいた。
「最近の流行ではこのくらいの数は必要かと。お子様の数によっては……」
「あー、住み込みの召使の部屋もいるでしょう? 先生」
またまた、私はびっくりした。
「住み込みの召使ですか? それはちょっと、贅沢すぎるような……」
「ここはまだまだ治安が悪くて、家を守る召使は必要ですよ。そうだよな」
低い声で尋ねられて、案内の男はうなずく。
「このあたりは治安のいいところですが、大体の人たちは住み込みを雇っていますね。ご家族を守るにはそのくらいの用心は必要でしょう」
当たり前のように言われて、私は言い返せない。
「まぁ、そうなんですか」
そういえば、護衛を雇えという忠告も受けていた。ここは荒っぽい街だから? 今までそんな荒事を見たことがないので、私にはピンとこない。
私は二階の部屋の小窓を開けた。そこからははるか向こうまで台地が広がって見える。いい眺めだ。
「あの、この部屋だけ、お借りするということでは……」
寝台と大きめの備え付けのタブレットと、これで十分だ。そう、私は思ったのだが……
「こちらの主寝室からの眺めもご覧ください」男は隣の部屋の窓も開け放つ。「ここからの開けた眺望は格別です」
「まぁ」そこはバルコニーになっていた。
「なにしろ、この部屋の寝台は特注、ご主人様が乗っても……グふ」
嬉々として説明していた男が奇妙な音を立てた。
私が振り返ったが、ラーズの巨体が視界に入るだけだった。
彼は私の肩に手を置いて、バルコニーの外を指さした。
「あの向こうに見えるのが黒の森だ。先生。薄く見えているのが山だ」
「まぁ、あれが。あちらが、本物の辺境なんですね」
「ここも、辺境だが。そうだな」ラーズは苦笑する。「間に見えるのが開拓地だ。緑色に見えているだろう」
町の近くには確かに緑の畑らしきものが広がっていた。その向こうは、茶色の荒野だ。きっとこの町に着くまでに広がっていた乾いた大地なのだろう。
「昔はずっと向こうまで畑があったんだが、魔人にやられてしまってね。あっという間に荒野に戻ってしまった」
ラーズの口調が苦くなる。
私は黙って辺境の光景を見つめた。
内地で報道されていたよりも、被害が大きかったのだ。
魔人戦争の当時、私はまだ子供だった。魔人戦争は、星の皇子様の華々しい功績であり、華やかな凱旋行進は帝国民を熱狂させた。いかに皇子が勇敢に戦って辺境の民を守ったか、そればかりが伝わってきた。畑がなくなったとか、町に被害が及んだとか、そういうことは全く知らなかった。
「ラーズ会長も、魔人と戦ったのですよね。この土地を守るために」
そう、話を向けるとラーズは目をそらした。
「……まぁ。そんな、大層な理由ではないが」
「奥様、どうぞ、お茶でもいかがですか?」
タイミングよくお茶が運ばれてきた。小さな干した果物もついている。
「どうぞ、こちらに座ってください。いかがですか? よい風が入るでしょう」
男はタブレットを開いて、説明を始めた。
家主が提示した金額は私が思っていた金額よりも一桁も二けたも低い額だった。
本当にこれでいいのだろうか。そう思って何度も念押しをする。
「神殿の学校にお勤めなのですよね。あそこから補助金が出ますから、ご心配なく」
男はちらちらとラーズの顔を見ながら話している。
ラーズはいかめしい顔をしてうなずいた。
「それはありがたいですわ」
なにしろ、私はほぼ無一文でこの町に来た。かかる費用は少なければ少ないだけいい。
実のところ、私もこんな家に住んでみたかったのだ。この広さなら、友人たちを呼んでちょっとしたパーティを開ける。
以前私の借りていた部屋は、貴族子女用の下宿ということにはなっていたが、とても狭かった。ベッドと机を入れたら、衣装棚をどこに置こうかと悩むくらいの広さだ。平民の友達の下宿をうらやましいと思ったくらいだ。
あまりの狭さが恥ずかしくて、部屋に友達を呼ぶこともできなかった。
華やかな社交生活を金持ちの貴族や商人の子女が送っているのをしり目に、興味がないふりをしてひたすら勉強するしかなかった。
暗い学生時代の思い出だ。
金額さえ折り合えば、あとは私の注文を付けるところはどこにもなかった。
契約の細かい話はラーズが代行してくれるという。私は安心して神殿の戻ることができそうだった。
「何から何まで、申し訳ありません」
「いえいえ、エレッタさんが気にされることではない。神殿からもよろしくといわれている。こうして、お役に立てることがこちらとしてもうれしい」
ラーズ会長は下を向いた。
そんなに距離が離れていないというのに、ラーズはまた私を神殿まで送ってくれた。
「私、知らないことばかりで、ラーズさんがいて心強いですわ」
「心強い?」
ちらりと見上げると、ラーズは顔が赤くなっていた。
「また、いろいろなことを相談しに事務所に伺っても、いいですか」
「……もちろんです」
目は合わさないけれど、ラーズの返事には熱意が感じられた。
「エレッタさんのためでしたら、何でもしますよ」
お世辞でも、いい。私はうれしくなって、ラーズの腕に手をかけた。ラーズの筋肉が固くなるのを感じて、私は慌てて手を離した。
「ご、ごめんなさい。お気を悪くされたかしら?」
「いえ、いえいえいえいえ……あの、ちょっとびっくりしただけで」
私の顔を見て、ラーズは慌てて首を振った。
「いえ、ちがうのです。その、その……兵士の、そう、兵士の習性なのです。ついつい警戒心が……」
私はホッとした。私に触られるのが嫌なのかと一瞬おもったのだ。前の婚約者がそういう反応をしていたから。
「そうですよね。戦う方々は、そういうことに敏感ですものね」
小説の中でそういう描写があったような気がする。戦士たるもの、いつでも緊張感をもって行動すべし。私はもう一度ラーズの手を取った。また、彼の緊張を感じたが、いやだという感情は伝わってこなかった。
なんだろう? 恥じらいみたいなもの? こんな立派な男性に恥じらいなんて変な表現だと思う。そういう感情は女性のものだ。なのに。
変な気分だ。でも、なんだか心地よい。
私がぎゅっと手を握ると、ますますラーズさんは緊張する。
神殿の門まで、私たちはそうやって歩いて行った。
「ラーズさん、また……あ、先生」
今度はちゃんと私だと門番は気が付いたらしい。
「先生……大丈夫でしたか?」
彼はまるで私をかばうように飛び出してきた。私の心配をしている? なにから?
「? ええ。素晴らしい家を見せていただいたの。広くて、新しくて。家主さんもよい方だったわ」
「あ、あぁ。いや……何もないのでしたら、それは」
私はラーズさんの手を放して、向き直る。
「今日はどうもありがとうございました。ラーズ会長。もう少し、考えてからお返事させていただきますわ」
「……ご連絡をお待ちしております」
なんだか気が入っていない返事だった。それに、顔が赤い。日に焼けた肌でもごまかしきれないほど赤くなっている。まさか……
「ラーズさん、ちょっとしゃがんでいただけますか」
私は無理やりラーズと私の目線を合わせさせる。
「あ、え?」
「失礼しますね」
私はさっとラーズの額に手を当てる。
「ラーズさん、お熱があるのではありませんか? ひょっとして、体調が……」
弟が熱を出したときにそうしていたように、熱を測る。
「大変、ずいぶんお熱があるようですわ。ごめんなさい。私、自分のことだけで」
そばにいる人の不調に気が付かなかったなんて。自分のことしか見ていなかった。恥ずかしい。
「ち、違う……大丈夫だ。熱なんて……ない」
「あら、大変。もっと熱が上がってるみたいですわ。神官様を呼んでまいりますわね」
「いや、いいんだ。違う……笑うな」
私が驚いて、振り返ると門番のいつも真面目そうな顔が歪んでいた。
どうしたのかしら。なにか、伝染病とか……
「俺なら……大丈夫、それよりも……おい、くそ神官。彼女を……」
「行きましょう、エレッタさん」
影のように現れたのは、ドライツェン神官だった。彼は私の手をそっと取ると、神殿の中へ案内する。
「え? 神官様……ラーズさんは。あ、門番さん」
門番が体を折って苦しそうにうめいていた。
「大丈夫ですよ。すぐによくなります。一時的なものです」
冷たいとも思える口調でドライツェンはそちらを見ることもなく私を門の中に誘導する。
「本当に、治療しなくてもいいのでしょうか」
姿が見えなくなっても、私は心配で後ろを振り返った。
「ええ。それよりも……エレッタさんは?」
「私ですか? 私は何ともありません。まさか、感染する病なのでしょうか」
ありうることだ。ここ、辺境では風土病の類も多いと聞く。
「いえ、うつる病気ではありません。死んでも治らない病ですけれど……その様子なら、問題ないようですね」
あ? ドライツェン様も笑っている? いつも厳しい薄い瞳が心なしか緩んでいるような気がする。
「いい家は見つかりましたか?」
「はい、素晴らしい家を紹介していただきました。神殿からも補助をつけていただいたとかで、安く借りられそうです」
ふーん、補助ねぇ……そんなことをドライツェンはつぶやいていた。
「ああ、そうだ。エレッタ先生。ご家族からの連絡が来ていましたよ」
「え?」
私は残してきた家族のことをすっかり忘れていた。正確には考えないようにしていた。心配性の両親のことだ。辺境に行くなどと言ったら、絶対に反対した。
「カーセ卿からの何通ものメッセージが辺境神殿あてに送られてきています。ここにいることをご家族に連絡していなかったのですか?」
「え。ええ」
「受け取った神官がかなり動揺していましてね。かなり過激なことを言われたそうで。誘拐されたとか、だまされたとか。そんなことはありませんよね」
うわぁ。私は天を仰ぐ。
父さまとお母さまならそのくらいのことはやりかねない。近くだったら押しかけてきたかもしれない。
…神殿の人にはご迷惑をおかけしてしまった。
「……あとで、こちらから話をします……」
「そのほうがよいかと思います。担当の神官がずいぶん困っていましたから。ああ、そうだ。ここはタブレットの鮮明な映像をとることはむつかしいので、メッセージで連絡を取ることをお勧めしますよ」
あれ? もっといろいろなことを聞かれると思ったのに。ドライツェン神官はあっさりとひいた。
「あの、神官様は、事情を聴かないのですね」
思い切って尋ねた。ドライツェンはかすかに笑う。
「ここ、辺境では人の過去については触れないことが暗黙の作法なのですよ。人それぞれ、いろいろありますからね」
過去があるのはラーズ会長も、だろうか。私は彼のたくましい後姿を思い浮かべた。
私はあたりを見回す。
壁に取り付けられた水盤に水が落ちるように設計されていて、その周りには小さな花が咲く植物が植えられていた。花のいい香りがする。まるで林の中にいるかのような空気だ。私は大きく息を吸い込む。
「ラーズさん、本当にここなんですか?」
「気に入らなかったですか?」
心配そうに聞くラーズに私は手を振って否定した。
「いえいえ、すごく素敵なところです。でも、ここ……お高くないかしら?」
私が大学のときに借りていたのは部屋だった。それでも、かなりの額だったのに。
そんな部屋に比べると、これは邸宅規模だ。専用の庭付きなんて、家賃を想像すると恐ろしくなる。
「大丈夫ですよ。ここは物価が安いところですから」
ラーズはこともなげにそういった。
本当なのだろうか。あとで、払えないとわかったらどうしよう。
でも、当たり前のように払えるというラーズ会長に確かめるのが怖い。
私はラーズ会長の大きな背中に隠れるようにしてあたりを見分する。
奥の入り口で家主らしき男に丁重にあいさつをされた。
「ラーズ様のお望み通り、極上の物件を用意しました」
男は恭しく、中を案内する。
「ご覧ください。ここは眺めのいい食堂、そして、その向こうに……」
うわ。思っていたよりもずっと広い。
やっぱり、いいですといいたかったけれど、ラーズ会長が熱心に見て回っているのでとても声をかけられない。
そうこうしているうちに、内覧は終わった。一通り中を案内して、男は胸を張った。
「いかがでございましょう。奥様」
「とっても素敵な部屋なのですけれど……ここ、下宿にしては部屋が多すぎませんか? 寝室だけでも3部屋はありましたよ」
男はうなずいた。
「最近の流行ではこのくらいの数は必要かと。お子様の数によっては……」
「あー、住み込みの召使の部屋もいるでしょう? 先生」
またまた、私はびっくりした。
「住み込みの召使ですか? それはちょっと、贅沢すぎるような……」
「ここはまだまだ治安が悪くて、家を守る召使は必要ですよ。そうだよな」
低い声で尋ねられて、案内の男はうなずく。
「このあたりは治安のいいところですが、大体の人たちは住み込みを雇っていますね。ご家族を守るにはそのくらいの用心は必要でしょう」
当たり前のように言われて、私は言い返せない。
「まぁ、そうなんですか」
そういえば、護衛を雇えという忠告も受けていた。ここは荒っぽい街だから? 今までそんな荒事を見たことがないので、私にはピンとこない。
私は二階の部屋の小窓を開けた。そこからははるか向こうまで台地が広がって見える。いい眺めだ。
「あの、この部屋だけ、お借りするということでは……」
寝台と大きめの備え付けのタブレットと、これで十分だ。そう、私は思ったのだが……
「こちらの主寝室からの眺めもご覧ください」男は隣の部屋の窓も開け放つ。「ここからの開けた眺望は格別です」
「まぁ」そこはバルコニーになっていた。
「なにしろ、この部屋の寝台は特注、ご主人様が乗っても……グふ」
嬉々として説明していた男が奇妙な音を立てた。
私が振り返ったが、ラーズの巨体が視界に入るだけだった。
彼は私の肩に手を置いて、バルコニーの外を指さした。
「あの向こうに見えるのが黒の森だ。先生。薄く見えているのが山だ」
「まぁ、あれが。あちらが、本物の辺境なんですね」
「ここも、辺境だが。そうだな」ラーズは苦笑する。「間に見えるのが開拓地だ。緑色に見えているだろう」
町の近くには確かに緑の畑らしきものが広がっていた。その向こうは、茶色の荒野だ。きっとこの町に着くまでに広がっていた乾いた大地なのだろう。
「昔はずっと向こうまで畑があったんだが、魔人にやられてしまってね。あっという間に荒野に戻ってしまった」
ラーズの口調が苦くなる。
私は黙って辺境の光景を見つめた。
内地で報道されていたよりも、被害が大きかったのだ。
魔人戦争の当時、私はまだ子供だった。魔人戦争は、星の皇子様の華々しい功績であり、華やかな凱旋行進は帝国民を熱狂させた。いかに皇子が勇敢に戦って辺境の民を守ったか、そればかりが伝わってきた。畑がなくなったとか、町に被害が及んだとか、そういうことは全く知らなかった。
「ラーズ会長も、魔人と戦ったのですよね。この土地を守るために」
そう、話を向けるとラーズは目をそらした。
「……まぁ。そんな、大層な理由ではないが」
「奥様、どうぞ、お茶でもいかがですか?」
タイミングよくお茶が運ばれてきた。小さな干した果物もついている。
「どうぞ、こちらに座ってください。いかがですか? よい風が入るでしょう」
男はタブレットを開いて、説明を始めた。
家主が提示した金額は私が思っていた金額よりも一桁も二けたも低い額だった。
本当にこれでいいのだろうか。そう思って何度も念押しをする。
「神殿の学校にお勤めなのですよね。あそこから補助金が出ますから、ご心配なく」
男はちらちらとラーズの顔を見ながら話している。
ラーズはいかめしい顔をしてうなずいた。
「それはありがたいですわ」
なにしろ、私はほぼ無一文でこの町に来た。かかる費用は少なければ少ないだけいい。
実のところ、私もこんな家に住んでみたかったのだ。この広さなら、友人たちを呼んでちょっとしたパーティを開ける。
以前私の借りていた部屋は、貴族子女用の下宿ということにはなっていたが、とても狭かった。ベッドと机を入れたら、衣装棚をどこに置こうかと悩むくらいの広さだ。平民の友達の下宿をうらやましいと思ったくらいだ。
あまりの狭さが恥ずかしくて、部屋に友達を呼ぶこともできなかった。
華やかな社交生活を金持ちの貴族や商人の子女が送っているのをしり目に、興味がないふりをしてひたすら勉強するしかなかった。
暗い学生時代の思い出だ。
金額さえ折り合えば、あとは私の注文を付けるところはどこにもなかった。
契約の細かい話はラーズが代行してくれるという。私は安心して神殿の戻ることができそうだった。
「何から何まで、申し訳ありません」
「いえいえ、エレッタさんが気にされることではない。神殿からもよろしくといわれている。こうして、お役に立てることがこちらとしてもうれしい」
ラーズ会長は下を向いた。
そんなに距離が離れていないというのに、ラーズはまた私を神殿まで送ってくれた。
「私、知らないことばかりで、ラーズさんがいて心強いですわ」
「心強い?」
ちらりと見上げると、ラーズは顔が赤くなっていた。
「また、いろいろなことを相談しに事務所に伺っても、いいですか」
「……もちろんです」
目は合わさないけれど、ラーズの返事には熱意が感じられた。
「エレッタさんのためでしたら、何でもしますよ」
お世辞でも、いい。私はうれしくなって、ラーズの腕に手をかけた。ラーズの筋肉が固くなるのを感じて、私は慌てて手を離した。
「ご、ごめんなさい。お気を悪くされたかしら?」
「いえ、いえいえいえいえ……あの、ちょっとびっくりしただけで」
私の顔を見て、ラーズは慌てて首を振った。
「いえ、ちがうのです。その、その……兵士の、そう、兵士の習性なのです。ついつい警戒心が……」
私はホッとした。私に触られるのが嫌なのかと一瞬おもったのだ。前の婚約者がそういう反応をしていたから。
「そうですよね。戦う方々は、そういうことに敏感ですものね」
小説の中でそういう描写があったような気がする。戦士たるもの、いつでも緊張感をもって行動すべし。私はもう一度ラーズの手を取った。また、彼の緊張を感じたが、いやだという感情は伝わってこなかった。
なんだろう? 恥じらいみたいなもの? こんな立派な男性に恥じらいなんて変な表現だと思う。そういう感情は女性のものだ。なのに。
変な気分だ。でも、なんだか心地よい。
私がぎゅっと手を握ると、ますますラーズさんは緊張する。
神殿の門まで、私たちはそうやって歩いて行った。
「ラーズさん、また……あ、先生」
今度はちゃんと私だと門番は気が付いたらしい。
「先生……大丈夫でしたか?」
彼はまるで私をかばうように飛び出してきた。私の心配をしている? なにから?
「? ええ。素晴らしい家を見せていただいたの。広くて、新しくて。家主さんもよい方だったわ」
「あ、あぁ。いや……何もないのでしたら、それは」
私はラーズさんの手を放して、向き直る。
「今日はどうもありがとうございました。ラーズ会長。もう少し、考えてからお返事させていただきますわ」
「……ご連絡をお待ちしております」
なんだか気が入っていない返事だった。それに、顔が赤い。日に焼けた肌でもごまかしきれないほど赤くなっている。まさか……
「ラーズさん、ちょっとしゃがんでいただけますか」
私は無理やりラーズと私の目線を合わせさせる。
「あ、え?」
「失礼しますね」
私はさっとラーズの額に手を当てる。
「ラーズさん、お熱があるのではありませんか? ひょっとして、体調が……」
弟が熱を出したときにそうしていたように、熱を測る。
「大変、ずいぶんお熱があるようですわ。ごめんなさい。私、自分のことだけで」
そばにいる人の不調に気が付かなかったなんて。自分のことしか見ていなかった。恥ずかしい。
「ち、違う……大丈夫だ。熱なんて……ない」
「あら、大変。もっと熱が上がってるみたいですわ。神官様を呼んでまいりますわね」
「いや、いいんだ。違う……笑うな」
私が驚いて、振り返ると門番のいつも真面目そうな顔が歪んでいた。
どうしたのかしら。なにか、伝染病とか……
「俺なら……大丈夫、それよりも……おい、くそ神官。彼女を……」
「行きましょう、エレッタさん」
影のように現れたのは、ドライツェン神官だった。彼は私の手をそっと取ると、神殿の中へ案内する。
「え? 神官様……ラーズさんは。あ、門番さん」
門番が体を折って苦しそうにうめいていた。
「大丈夫ですよ。すぐによくなります。一時的なものです」
冷たいとも思える口調でドライツェンはそちらを見ることもなく私を門の中に誘導する。
「本当に、治療しなくてもいいのでしょうか」
姿が見えなくなっても、私は心配で後ろを振り返った。
「ええ。それよりも……エレッタさんは?」
「私ですか? 私は何ともありません。まさか、感染する病なのでしょうか」
ありうることだ。ここ、辺境では風土病の類も多いと聞く。
「いえ、うつる病気ではありません。死んでも治らない病ですけれど……その様子なら、問題ないようですね」
あ? ドライツェン様も笑っている? いつも厳しい薄い瞳が心なしか緩んでいるような気がする。
「いい家は見つかりましたか?」
「はい、素晴らしい家を紹介していただきました。神殿からも補助をつけていただいたとかで、安く借りられそうです」
ふーん、補助ねぇ……そんなことをドライツェンはつぶやいていた。
「ああ、そうだ。エレッタ先生。ご家族からの連絡が来ていましたよ」
「え?」
私は残してきた家族のことをすっかり忘れていた。正確には考えないようにしていた。心配性の両親のことだ。辺境に行くなどと言ったら、絶対に反対した。
「カーセ卿からの何通ものメッセージが辺境神殿あてに送られてきています。ここにいることをご家族に連絡していなかったのですか?」
「え。ええ」
「受け取った神官がかなり動揺していましてね。かなり過激なことを言われたそうで。誘拐されたとか、だまされたとか。そんなことはありませんよね」
うわぁ。私は天を仰ぐ。
父さまとお母さまならそのくらいのことはやりかねない。近くだったら押しかけてきたかもしれない。
…神殿の人にはご迷惑をおかけしてしまった。
「……あとで、こちらから話をします……」
「そのほうがよいかと思います。担当の神官がずいぶん困っていましたから。ああ、そうだ。ここはタブレットの鮮明な映像をとることはむつかしいので、メッセージで連絡を取ることをお勧めしますよ」
あれ? もっといろいろなことを聞かれると思ったのに。ドライツェン神官はあっさりとひいた。
「あの、神官様は、事情を聴かないのですね」
思い切って尋ねた。ドライツェンはかすかに笑う。
「ここ、辺境では人の過去については触れないことが暗黙の作法なのですよ。人それぞれ、いろいろありますからね」
過去があるのはラーズ会長も、だろうか。私は彼のたくましい後姿を思い浮かべた。
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