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その後 クレイン側
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「クレイン! クレイン! クレイン!」
牢番に金を握らせてマリアの脱獄を手引きしたクレインは、城壁の外でマリアをきつく抱きしめた。
マリアは子どものように泣きじゃくり、クレインに抱きついている。
「助けにきてくれる、って、思ってた」
涙でしゃくりあげながら、マリアがクレインを見上げる。
「当たり前だ。お前の騎士は、俺だ」
クレインに頼りきったマリアの姿に、深い満足感と嵐のような激情を覚えてクレインは深くマリアに口づけた。
脱獄したマリアとクレインは日が昇る前に王都を抜けた。
騎士見習いだったクレインは、王都の巡回路を熟知していたため、その穴をついての逃走だった。
馬一頭と日持ちのする食糧と水、明るいマリアの髪を隠すように黒いマントで彼女を包み、クレインは王都を抜けた後は南の交易都市に向かった。
王都と同じくらい栄えている交易都市には他国の人間も多く、後ろ暗い影の部分も多い。
マリアを脱獄させ、他国に渡る。そのための協力者とここで合流する予定だった。
だが交易都市までくると、入口に長蛇の列ができていた。検問がしかれ、商人たちのキャラバンがいくつも待たされているようだ。
クレインは舌打ちした。脱獄するとき、マリアに似た下町の娘の舌を抜いて身代わりにしてきたというのに、発見されるのが早すぎる。
このまま交易都市に向かうとまず検問にひっかかるだろう。だが物資もほとんどないまま国境に向かう決断もできない。
「クレイン、こっちだ」
不安そうにするマリアの頭を、大丈夫だと撫でて、内心の焦りをなんとか隠していたクレインをよく知った声が呼んだ。
その声に導かれてクレイン達は、交易都市へ向かう道から逸れ山側の森に入っていく。
「アーサー」
森の中で、冒険者の恰好をしたアーサーが二人を待っていた。
「よくここまで来れたな。王都から役人が何人も来ている。国中で検問がしかれていてもおかしくない」
「どこにも寄らなかったからな。王都から一駆けしてきた」
「相変わらずの体力馬鹿だな」
昔を思い出すように、ふっとアーサーが口元をほころばせた。
「アーサー久しぶり。貴方も、私を助けてくれたのね」
マリアが嬉しそうにアーサーに近づく。彼女の腕をふいと避けて、アーサーは二人をさらに森の奥にある広場に連れて行った。
「馬車を用意した。この馬車なら、見つからずに国境を抜けられるだろう。南西に抜ければ、帝国へ入れる。魔物の森を迂回して、川を渡れ」
「この馬車は…」
クレインが顔を顰めた。マリアには普通の馬車の箱馬車に見えるのだが、どうしたのだろうとクレインの顔を見る。
「奴隷馬車か」
箱馬車の見えにくいところに赤い布が巻いている。
王国には奴隷制度はないが、帝国には奴隷制度がある。奴隷商人たちが王国で奴隷狩りをして、密かに商品を帝国に運び込む時に使われるのが奴隷馬車だ。
奴隷商人の息がかかった場所では、赤い布が巻かれている馬車は荷を改められないのだ。
「これで交易都市に入れるのか」
「交易都市は無理だ。この側道を道なりにいくと、村が点在している。帝国まで続く秘密の街道だ」
赤い布の巻かれた奴隷馬車に乗ると二度と家には帰れない。帝国へ続く奴隷行路を騎士団は見つけられない。
騎士見習いであるクレインにとっては忌むべき道。だが、この道ならこの国を抜け出せる。
「よく考えたな。さすが騎士見習い筆頭だ」
「クレイン、大丈夫なの?」
「マリア。もう大丈夫だ。馬車の旅が続くが、俺がついている」
「アーサーも一緒?」
マリアはクレインに笑いかけた後、アーサーの手を引こうとした。アーサーが身を引く。
「俺にはまだやることがある」
すぐそこで検問がしかれているのだ。アーサーは追っ手をごまかすために残ってくれるのだろう。
「ありがとう、アーサー。友よ」
クレインはマリアを片手に抱きながら、アーサーの肩を抱こうとした。
アーサーが呆れたように溜息をつく。
「ゆっくりしている時間はないぞ」
「そ、そうだな」
アーサーに避けられて宙に浮いた腕を戻しながら、気まずそうにクレインがマリアをつれて奴隷馬車に向かった。
「また会える?」
歩きながら、マリアがアーサーを振り返る。
アーサーは曖昧な笑みを浮かべて佇んでいた。
奴隷馬車に乗ると、中は真っ暗だった。
外から見えないように、窓が目張りされているのだ。
それにしても暗い。
クレインは魔法で明かりを灯そうとした。
腕をつかまれ、ガシャン、と何かが腕にはめられる。
「いや! なにこれ、クレイン!!」
魔法の光りは灯らずに、マリアの叫び声がした。
「マリア! どうした!!」
「奴隷に首輪をはめただけですよ、旦那」
マリアを抱きしめようと振り返ったクレインの後ろから何かが覆いかぶさるような気配がして、クレインの首に冷たい感触がした。
「いきのいい奴隷を二人も調達してくださるなんて、さすがアーサーの旦那だ。ひひひ、旦那、お嬢さん、ここからは楽しい楽しい道行ですよ」
「アーサーが裏切ったのか!」
「クレイン、恐いよ」
「アーサー! アーサー!!」
奴隷馬車からはしばらく男女の叫び声が続いていたが、とうとつに静かになった。
「マリア、君は俺の手紙に返事をくれなかっただろう。お別れだ」
二人を見送ったアーサーが小さく呟いた。
「毎度ありがとうございます」
「その演技はやめろ」
「しかしこれが私の商売ですから」
「奴隷商人に偽装して重犯罪者を輸送するのがか」
「ひひひ。犯罪奴隷ですからね。誰にも疑われなくて楽をさせていただいています」
家から追放され冒険者になったアーサーだが、甘やかされた貴族のぼんぼんがすぐに冒険者としてやっていけるわけがない。
最初は初心者が得られるわずかな稼ぎで雑魚寝の安い宿に泊まっていたが、すぐに稼ぎは酒代に消えて路上で寝るようになった。
そんなアーサーを蹴って殴って引きずって湖に落とし沈めたのが、アーサーの母親違いの兄だった。
アーサーは正妻の子、兄は愛人が生んだ子を正妻が引き取った子どもだ。アーサーが産まれなければ、彼が跡継ぎになっていたはずだが、アーサーが産まれたために日陰の身に追いやられた。
もう何年も会っていない異母兄がどうしてここにいるのかアーサーには分からなかった。
湖で弟を丸洗いしたアーサーの兄は、無言でアーサーに木刀を投げてよこした。
すぐに打ちかかってこられ、アーサーは迎え撃つ。はじめの合図もなく打ち合いを始めた二人は、無言で何日も何日も打ち合い続けていた。
何日続いただろう、少なくとも3日以上打ち合いを続けるうちに、アーサーの中に、なにか芯のようなものが芽生えてきた。
兄はアーサーより何倍も強い。
打ちかかって転がされるばかりだったアーサーが少しだけ打ち合えるようになった。
さらに数日。もう日付の感覚もなく意識ももうろうとしたころ、アーサーは身体が軽くなるのを感じた。
まるで導かれるように、木刀を上段から打ち下ろすと、兄の頭があった。
頭の上ではじき飛ばされたが、それは不思議な感覚だった。
それが何度も続いた。
もう少し、もう少しで、兄に届く。
そう思い続けて木刀を振るったが、木刀が兄に届く前に、アーサーの体力が尽きた。
地面に倒れ、指先にさえ力が入らない無様な自分。
だが、騎士候補生をしていた頃より、冒険者をしていたころよりずっと、気持ちがよかった。
「少しはマシな顔になったか」
アーサーはまた地面を引きずられ、湖で丸洗いされ、その途中で意識が落ちた。
目が覚めると、焚火の向こうに兄がいた。
「王宮が裏の仕事をする下人を探している。意思は必要ない。王宮の膿を掻き出す道具だ。お前を推薦しておいた」
アーサーはしばらく考えた。なにも思いつかない。
「なぜですか」
「お前には似合いの仕事だからだ」
焚火の向こうから干し肉をほうられた。
最初それがなにか分からなかったが、干し肉のかすかな匂いが鼻に届くと、胃が鳴いた。
アーサーは干し肉を掴み、唾液で柔らかくしてからゆっくりと食べた。
熱心に干し肉を食べていたが、お腹がいっぱいになると、アーサーはやっと焚火の向こうの兄の顔をみた。
闇の中に沈む兄の顔は、恐ろしいほど静かだった。
「あの女が妙な術を使うことを、なぜ報告しなかった」
「俺は…」
なぜだろう。最初は学院に妙な女が紛れ込んでいると思い目をつけていた。だが気づいた時には抜けられなくなっていた。
彼女が好きだったから、とは、いまでは思えない。
丸洗いされたせいか、彼女への気持ちは不思議となにもない。
好意も、悪意も。
「お前は馬鹿だから、考えても無駄だ。俺の人形になれ」
兄は数年前、アーサーに後継者の座を譲ると、騎士団に入った。
だがきっと、騎士というのは表の顔なのだろう。
裏の顔が、王宮の犬。
「もう考える必要はない」
アーサーは嗤った。
今回のアーサーの任務は、処刑予定の重罪人を、裏取引で隣国に渡すことだった。
マリアの妙な術、それがどんなものかいまだにアーサーには分からなかったが、人の欲を増長させる精神系の魔法らしい、を隣国が調べたがっていて、王国は最低でも処分を条件に引き渡すことを決めた。
騎士の国である王国にとって、騎士の目をくらまし警備をすり抜けるマリアの妙な術は扱いきれるものではなく、あっさりと処刑が決まったが、魔法のさかんな隣国では研究の対象になるらしい。
王子への詫びも兼ねた取引だった。
当然、公に知られてはならないため、アーサーに仕事が回ってきた。
本来はアーサーがマリアを脱獄させる予定だったが、クレインが冒険者をしていたアーサーを探し、協力を依頼してきた。
アーサーは後払いで快く了承した。
正直、騎士見習いとしても未熟だったクレインが無事に脱獄させられるか心配だったが、その辺は分からないように手を貸した。
クレインがマリアの身代わりにした少女も、アーサーと同じような立場の者で、あの後治癒魔法で身体も元通りになっている。
「クレインも、昔はもう少しまともだったんだがな」
大きな体に見合わず小心者だったので、家から追放されたとはいえ、処刑される犯罪者を脱獄させて逃げ出すような甲斐性はなかったはずだ。
「たいしてかわらないか」
婚約者に冷たく接し、裏で仲間に悪口を言っていたクレインを思い出す。
仕事は終わりだ。
人体実験の盛んな隣国への道を辿る奴隷馬車を見送り、少しの感傷を振り払い、アーサーは報告のために戻っていった。
牢番に金を握らせてマリアの脱獄を手引きしたクレインは、城壁の外でマリアをきつく抱きしめた。
マリアは子どものように泣きじゃくり、クレインに抱きついている。
「助けにきてくれる、って、思ってた」
涙でしゃくりあげながら、マリアがクレインを見上げる。
「当たり前だ。お前の騎士は、俺だ」
クレインに頼りきったマリアの姿に、深い満足感と嵐のような激情を覚えてクレインは深くマリアに口づけた。
脱獄したマリアとクレインは日が昇る前に王都を抜けた。
騎士見習いだったクレインは、王都の巡回路を熟知していたため、その穴をついての逃走だった。
馬一頭と日持ちのする食糧と水、明るいマリアの髪を隠すように黒いマントで彼女を包み、クレインは王都を抜けた後は南の交易都市に向かった。
王都と同じくらい栄えている交易都市には他国の人間も多く、後ろ暗い影の部分も多い。
マリアを脱獄させ、他国に渡る。そのための協力者とここで合流する予定だった。
だが交易都市までくると、入口に長蛇の列ができていた。検問がしかれ、商人たちのキャラバンがいくつも待たされているようだ。
クレインは舌打ちした。脱獄するとき、マリアに似た下町の娘の舌を抜いて身代わりにしてきたというのに、発見されるのが早すぎる。
このまま交易都市に向かうとまず検問にひっかかるだろう。だが物資もほとんどないまま国境に向かう決断もできない。
「クレイン、こっちだ」
不安そうにするマリアの頭を、大丈夫だと撫でて、内心の焦りをなんとか隠していたクレインをよく知った声が呼んだ。
その声に導かれてクレイン達は、交易都市へ向かう道から逸れ山側の森に入っていく。
「アーサー」
森の中で、冒険者の恰好をしたアーサーが二人を待っていた。
「よくここまで来れたな。王都から役人が何人も来ている。国中で検問がしかれていてもおかしくない」
「どこにも寄らなかったからな。王都から一駆けしてきた」
「相変わらずの体力馬鹿だな」
昔を思い出すように、ふっとアーサーが口元をほころばせた。
「アーサー久しぶり。貴方も、私を助けてくれたのね」
マリアが嬉しそうにアーサーに近づく。彼女の腕をふいと避けて、アーサーは二人をさらに森の奥にある広場に連れて行った。
「馬車を用意した。この馬車なら、見つからずに国境を抜けられるだろう。南西に抜ければ、帝国へ入れる。魔物の森を迂回して、川を渡れ」
「この馬車は…」
クレインが顔を顰めた。マリアには普通の馬車の箱馬車に見えるのだが、どうしたのだろうとクレインの顔を見る。
「奴隷馬車か」
箱馬車の見えにくいところに赤い布が巻いている。
王国には奴隷制度はないが、帝国には奴隷制度がある。奴隷商人たちが王国で奴隷狩りをして、密かに商品を帝国に運び込む時に使われるのが奴隷馬車だ。
奴隷商人の息がかかった場所では、赤い布が巻かれている馬車は荷を改められないのだ。
「これで交易都市に入れるのか」
「交易都市は無理だ。この側道を道なりにいくと、村が点在している。帝国まで続く秘密の街道だ」
赤い布の巻かれた奴隷馬車に乗ると二度と家には帰れない。帝国へ続く奴隷行路を騎士団は見つけられない。
騎士見習いであるクレインにとっては忌むべき道。だが、この道ならこの国を抜け出せる。
「よく考えたな。さすが騎士見習い筆頭だ」
「クレイン、大丈夫なの?」
「マリア。もう大丈夫だ。馬車の旅が続くが、俺がついている」
「アーサーも一緒?」
マリアはクレインに笑いかけた後、アーサーの手を引こうとした。アーサーが身を引く。
「俺にはまだやることがある」
すぐそこで検問がしかれているのだ。アーサーは追っ手をごまかすために残ってくれるのだろう。
「ありがとう、アーサー。友よ」
クレインはマリアを片手に抱きながら、アーサーの肩を抱こうとした。
アーサーが呆れたように溜息をつく。
「ゆっくりしている時間はないぞ」
「そ、そうだな」
アーサーに避けられて宙に浮いた腕を戻しながら、気まずそうにクレインがマリアをつれて奴隷馬車に向かった。
「また会える?」
歩きながら、マリアがアーサーを振り返る。
アーサーは曖昧な笑みを浮かべて佇んでいた。
奴隷馬車に乗ると、中は真っ暗だった。
外から見えないように、窓が目張りされているのだ。
それにしても暗い。
クレインは魔法で明かりを灯そうとした。
腕をつかまれ、ガシャン、と何かが腕にはめられる。
「いや! なにこれ、クレイン!!」
魔法の光りは灯らずに、マリアの叫び声がした。
「マリア! どうした!!」
「奴隷に首輪をはめただけですよ、旦那」
マリアを抱きしめようと振り返ったクレインの後ろから何かが覆いかぶさるような気配がして、クレインの首に冷たい感触がした。
「いきのいい奴隷を二人も調達してくださるなんて、さすがアーサーの旦那だ。ひひひ、旦那、お嬢さん、ここからは楽しい楽しい道行ですよ」
「アーサーが裏切ったのか!」
「クレイン、恐いよ」
「アーサー! アーサー!!」
奴隷馬車からはしばらく男女の叫び声が続いていたが、とうとつに静かになった。
「マリア、君は俺の手紙に返事をくれなかっただろう。お別れだ」
二人を見送ったアーサーが小さく呟いた。
「毎度ありがとうございます」
「その演技はやめろ」
「しかしこれが私の商売ですから」
「奴隷商人に偽装して重犯罪者を輸送するのがか」
「ひひひ。犯罪奴隷ですからね。誰にも疑われなくて楽をさせていただいています」
家から追放され冒険者になったアーサーだが、甘やかされた貴族のぼんぼんがすぐに冒険者としてやっていけるわけがない。
最初は初心者が得られるわずかな稼ぎで雑魚寝の安い宿に泊まっていたが、すぐに稼ぎは酒代に消えて路上で寝るようになった。
そんなアーサーを蹴って殴って引きずって湖に落とし沈めたのが、アーサーの母親違いの兄だった。
アーサーは正妻の子、兄は愛人が生んだ子を正妻が引き取った子どもだ。アーサーが産まれなければ、彼が跡継ぎになっていたはずだが、アーサーが産まれたために日陰の身に追いやられた。
もう何年も会っていない異母兄がどうしてここにいるのかアーサーには分からなかった。
湖で弟を丸洗いしたアーサーの兄は、無言でアーサーに木刀を投げてよこした。
すぐに打ちかかってこられ、アーサーは迎え撃つ。はじめの合図もなく打ち合いを始めた二人は、無言で何日も何日も打ち合い続けていた。
何日続いただろう、少なくとも3日以上打ち合いを続けるうちに、アーサーの中に、なにか芯のようなものが芽生えてきた。
兄はアーサーより何倍も強い。
打ちかかって転がされるばかりだったアーサーが少しだけ打ち合えるようになった。
さらに数日。もう日付の感覚もなく意識ももうろうとしたころ、アーサーは身体が軽くなるのを感じた。
まるで導かれるように、木刀を上段から打ち下ろすと、兄の頭があった。
頭の上ではじき飛ばされたが、それは不思議な感覚だった。
それが何度も続いた。
もう少し、もう少しで、兄に届く。
そう思い続けて木刀を振るったが、木刀が兄に届く前に、アーサーの体力が尽きた。
地面に倒れ、指先にさえ力が入らない無様な自分。
だが、騎士候補生をしていた頃より、冒険者をしていたころよりずっと、気持ちがよかった。
「少しはマシな顔になったか」
アーサーはまた地面を引きずられ、湖で丸洗いされ、その途中で意識が落ちた。
目が覚めると、焚火の向こうに兄がいた。
「王宮が裏の仕事をする下人を探している。意思は必要ない。王宮の膿を掻き出す道具だ。お前を推薦しておいた」
アーサーはしばらく考えた。なにも思いつかない。
「なぜですか」
「お前には似合いの仕事だからだ」
焚火の向こうから干し肉をほうられた。
最初それがなにか分からなかったが、干し肉のかすかな匂いが鼻に届くと、胃が鳴いた。
アーサーは干し肉を掴み、唾液で柔らかくしてからゆっくりと食べた。
熱心に干し肉を食べていたが、お腹がいっぱいになると、アーサーはやっと焚火の向こうの兄の顔をみた。
闇の中に沈む兄の顔は、恐ろしいほど静かだった。
「あの女が妙な術を使うことを、なぜ報告しなかった」
「俺は…」
なぜだろう。最初は学院に妙な女が紛れ込んでいると思い目をつけていた。だが気づいた時には抜けられなくなっていた。
彼女が好きだったから、とは、いまでは思えない。
丸洗いされたせいか、彼女への気持ちは不思議となにもない。
好意も、悪意も。
「お前は馬鹿だから、考えても無駄だ。俺の人形になれ」
兄は数年前、アーサーに後継者の座を譲ると、騎士団に入った。
だがきっと、騎士というのは表の顔なのだろう。
裏の顔が、王宮の犬。
「もう考える必要はない」
アーサーは嗤った。
今回のアーサーの任務は、処刑予定の重罪人を、裏取引で隣国に渡すことだった。
マリアの妙な術、それがどんなものかいまだにアーサーには分からなかったが、人の欲を増長させる精神系の魔法らしい、を隣国が調べたがっていて、王国は最低でも処分を条件に引き渡すことを決めた。
騎士の国である王国にとって、騎士の目をくらまし警備をすり抜けるマリアの妙な術は扱いきれるものではなく、あっさりと処刑が決まったが、魔法のさかんな隣国では研究の対象になるらしい。
王子への詫びも兼ねた取引だった。
当然、公に知られてはならないため、アーサーに仕事が回ってきた。
本来はアーサーがマリアを脱獄させる予定だったが、クレインが冒険者をしていたアーサーを探し、協力を依頼してきた。
アーサーは後払いで快く了承した。
正直、騎士見習いとしても未熟だったクレインが無事に脱獄させられるか心配だったが、その辺は分からないように手を貸した。
クレインがマリアの身代わりにした少女も、アーサーと同じような立場の者で、あの後治癒魔法で身体も元通りになっている。
「クレインも、昔はもう少しまともだったんだがな」
大きな体に見合わず小心者だったので、家から追放されたとはいえ、処刑される犯罪者を脱獄させて逃げ出すような甲斐性はなかったはずだ。
「たいしてかわらないか」
婚約者に冷たく接し、裏で仲間に悪口を言っていたクレインを思い出す。
仕事は終わりだ。
人体実験の盛んな隣国への道を辿る奴隷馬車を見送り、少しの感傷を振り払い、アーサーは報告のために戻っていった。
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