【R18】Life Like a Ring

深山瀬怜

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第1話 糊・3

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 大阪の事件はほとんど報道されなくなった。SNSを見てももう誰も話題にしていない。ノートの新聞記事も増えていなかった。それとは対照的に、兄の引っ越しの準備は着々と進んでいた。家の中の兄のスペースが少しずつ減っていく。引っ越しとはこういうものなのか、と私はそれを眺めていた。でも母は兄の一人暮らしをあまり歓迎してはいないようだった。
「だいたい一人じゃ何もできないじゃない」
「だから今練習してるんだろ? それに仕事の都合なんだから、母さんが何を言ったって変えられないよ」
 それは言い争いと呼ぶには静かだったが、それまでの家の雰囲気を変えるには十分だった。私も兄の一人暮らしが順調に行くとはとても思えなかった。でも兄だって大人だ。できないことを補うだけの稼ぎもある。母は兄を心配しているというよりは、兄をこの家に留めておくことに執心しているように見えた。
「……勝手にすればいいじゃん」
 私は兄が淹れたお茶を飲みながら呟く。「遼は一人じゃ何もできない」と母は言っているけれど、少なくともお茶を淹れることはできるようになった。こうやってできることは増えていくのだろう。別に兄は絶望的に手先が不器用だとか、そういうことはないのだから。ただこれまで何もしてこなかっただけで
「詩乃は関係ないでしょう。別に新しいところだってうちから通えないわけじゃないんだし。遊びたいだけなんじゃないの?」
 大人なんだから遊びたければ遊べばいいのだ。妹に手を出すよりその方が健全だ。兄は母を説得するのを半ば諦めているのか、何も言わずに部屋に戻って行ってしまった。取り残される私の気持ちにもなってほしい。
「何でお兄ちゃんが出て行くのがそんなに嫌なの?」
「嫌ってわけじゃないのよ。でも心配で」
「……私と二人になるのは嫌?」
 長いような短いような間を置いてから、「何馬鹿なこと言ってるの」と母は言った。その間が胸に鈍い痛みを残していく。私は湯飲みを食洗機に入れて立ち上がった。

 兄と母の関係は、私と母の関係よりはずっと上手くいっている。私と母も表面的には不仲というわけではないが、母はあのときからどこかで私を怖がっているように感じていた。私が少年事件の記事をスクラップしているということが母に知られた日。母は私を自分とは別の怪物のように思っているのかもしれない。母は人を殺したいと思う人間のことなど理解できないのだろう。いや、私がいつか本当に人を殺してしまうかもしれないと思っているのか。
 兄は私のことをどう思っているのだろうか。兄は私がやっていることを知ってからも態度は変えなかった。それどころか今や肉体関係を持つに至ってしまった。そこまでされると、もう少し怖がってくれてもいいのにと思ってしまう。自分が殺されるかもしれないとは考えないのだろうか。
「片付いてきたね、部屋」
「そう思ったんだけど、その辺のはもっと小さいやつに詰め直した方がいいみたいで」
 兄が部屋の隅に積まれた段ボールを指差す。品名欄には大きな字で「書籍」と書いてあった。
「確かに、本にこの段ボールは、引っ越し屋さんの腰を破壊しようとしてるとしか思えないね」
 大きな段ボールに詰め込んだのが衣類なら簡単に運べるが、それが全部本だとかなりの重さだ。底が抜ける危険性もあるし、それを運ぶ人のことを考えると小さな段ボールに詰め直した方がいい。
「漫画、自分で買いに行かないとな」
 兄が話題作のほとんどを買ってくるから、私は自分で漫画を買ってきたことがほとんどなかった。これからはそうもいかない。何気なくそう呟くと、兄が不思議そうな顔をして私を見た。
「別にそこまで遠くないし、うちに来て借りればいいと思うけど。それに本全部持って行くわけじゃないし。この量入れたら床が抜けるだろ」
「床抜けるくらい重いのわかってんなら、最初から小さな段ボールに詰めればよかったのに」
「そこまで考えが及ばなかったんだって」
「それに、わざわざ漫画借りになんて行かないよ」
 兄の表情が曇ったように見えた。一人暮らしをしたいと言っておきながら、私が会いに行く気がないことに対しては寂しいだなんて思っているのだろうか。そんな調子では引っ越した直後にホームシックになるのではないか。私にとってはどうでもいいことだけれど、不安になる。
 兄の部屋は物が少なくなっていたが、机の上には梱包用の紐がだらしなく引き出された状態で置いてあった。私はその紐を指に巻きつけたり解いたりしながら話を続ける。
「反対されてるじゃん、お母さんに」
「詩乃が気にすることじゃないよ」
「いや家の中の雰囲気最悪なんだけど。私、被害者」
 紐を巻きつけた指で自分自身を差す。兄は呆れたように笑った。
「もう部屋も決まってるし。母さんもそのうち諦めるだろ」
「お兄ちゃんがやってることがバレたら、その前にここ追い出されちゃうかもね」
 母から見れば、兄は特に問題なく育ったいい子なのだ。でもそのいい子は妹に手を出すような男でもある。母がそれを知ったらどんな反応を見せるのだろう。私の秘密を知ったときと同じような、綺麗な石だと思って拾い上げたら実は虫だったときのような顔をするのだろうか。兄は慌てて私に詰め寄る。
「詩乃、まさかバラすつもりじゃ」
「だったらどうする?」
 指に巻いた紐が、ざりざりと兄の肌を撫でた。でもこの紐を使って兄を殺すのは難しいだろう。抵抗されれば私の力ではとても勝てない。怯えた顔をする兄の頬を撫で、私は軽くキスをした。
「バラさないよ。私も困るもん」
 兄は明らかに安堵している。もう少し引っ張って、あの怯えた顔を堪能すればよかった。それにしても兄は私がそんなことをすると本気で思ったのだろうか。やるならもうとっくにやっているのに。私は私たちのしていることを誰にも言っていない。言う必要がなかったからだ。
 愛なんてものがあるわけではない。ただ、嫌ではないだけだ。性欲なのか何なのか、終わった後は確かに満たされたような気持ちにもなる。
「詩乃」
 指に巻きつけた紐が解かれていく。きつく巻いていたせいでカールがかかったそれを、兄は邪魔そうに机の上に戻した。荷物をまとめるために必要であろう文具だけが残った机の上で、私は紐の行先を目で追う。
「糊、まだ買ってないな」
「いきなり何だよ」
「思い出しちゃって。買っておかないと」
 セックスの前にするにはあまりにも日常的な会話だ。けれど私にとってはこれが日常だった。一緒に食事をするのと変わらない感覚。人はこんな日常の延長線上で、簡単におかしくなってしまえる。
「そういえば、新しい部屋のカーテンの色まだ迷ってて」
 兄は兄で行為と関係のない話をする。兄だけの部屋になる新居のことなんて、私が聞いて何になるのか。他人の家のカーテンなんて何色でもいい。よほど印象的な色でもない限り、三日もすれば忘れてしまうようなことだ。
「何色と何色で悩んでるの?」
 服を脱がされながら、私は尋ねた。どうだっていいことだけれど、どうだっていいから会話は滑らかに続いていく。
「藍色と、薄い緑」
「私は水色が好き」
「選択肢にない答えを言うなよ」
 水色が好きだと答えたけれど、兄は藍色か薄い緑色のどちらかにすればいい。そこは私の部屋ではないのだから。
「ねぇ、お兄ちゃん」
「何?」
 私の胸に吸い付いている姿はまるで赤ん坊のようだ。でも授乳で気持ち良くなったりはしないだろうから、きっと何かが違うのだ。呼吸の乱れやわずかな身じろぎに気付いて、兄の右手が体をするすると下りていく。
「近いうちにきっと、また事件が起こる気がするよ」
 兄には興味のない話だろう。兄の新しい部屋のカーテンの色が、私にとってはどうでもいい話だったように。そもそもこの話は今の状況には全く相応しくない。でもなぜか口を突いて出てしまった。
「期待してるのか?」
「期待?」
「そんな風に見える」
「そうかもね。期待、してるのかも」
 少年事件が続けば、世論はもっと厳罰化すべきだとか、子供の心に闇が巣食っているだとか言い出すのだろう。それは何度も繰り返されてきたうんざりするほどの光景。でも私は自分がまだ少年と呼ばれる年齢だったときの、事件が起こるたびに感じた浮遊感を覚えている。自分の足元が少しだけ不安定になる、その感覚を味わいたくなってしまうのだ。
「誰かが死ぬのを期待してるのは、気持ち悪い?」
 私のしていることは、被害に遭った人たちやその周囲の人から見ればとても許されたことではないだろう。人の不幸を望む人でなしと言われても否定はできない。けれど兄は首を横に振って、私の下着の中に手を入れた。指が入り込む圧迫感。ぬるついた音。私のことを気持ち悪いなんて思っていたら、少なくともこんなことはしないか。そう思い直す。
「俺たちがしてることだって、他人からしたら気持ち悪いだろ」
 お互い、わかっているのにやめられないのだ。どうしようもないところはよく似ているのかもしれない。私の中に入っている指が増やされて、私は快楽に追い詰められていく。足元が崩れてふわりと体が浮く、あの瞬間がまたやってくる。
 似ているのだ。セックスで得られるそれと、少年事件の記事を集めてノートに貼っているときの感覚は。
 避妊具をつけた性器を突き入れられる。私の体は何の抵抗もなく慣れたそれを受け入れた。しかしその瞬間に、玄関のドアが開く音が聞こえた。母が帰ってきたのだ。予定よりずっと早い。兄は一瞬固まったが、すぐにこの状況に気付かれないようにと素早く動く。けれど私はそんな兄の腕を引き、動きを止めさせた。
「どうせ出て行くんだから、追い出されたっていいんじゃない?」
「ちょっ……待て、詩乃!」
「大きい声出すと、本当に気付かれるよ」
 母がリビングで何かを探している音がする。忘れ物か何かを取りにきたのだろう。余裕のなさそうな気配からして、急いでいるからこちらに気を配ってはいない。私は兄に跨り、まだ萎えていないそれを自分の中に導いた。
「遼? 実印どこにあるか知らない?」
 部屋の中で何が起きているかも知らず、母が大きな声で兄に尋ねる。明らかに色を無くす兄を見下ろして、私は笑った。
「ほら、早く答えてあげないと」
「詩乃、こんな状況で……」
「バレても知らないよ?」
 観念したように兄は大きな声で答える。戸棚の引き出しの一番上。兄が言い終わるやいなや腰を落とすと、語尾がわずかに乱れた。扉を隔てた母には気付かれない程度に、けれど本人は慌ててしまう程度に。
 探し物を見つけたらしい母が、また慌ただしく家を出ていく。静寂が訪れた部屋で、兄は安堵の溜息を漏らした。
「何考えてるんだ、詩乃」
「バレてなんか困ることあるの?」
「色々あるだろ」
「バレて困るようなことならしなきゃいいんだよ」
 いっそ気付かれてもいいと思っていた。あの状況なら、たとえ母が入ってきたとしても襲っていたのは私の方に見えただろう。でも兄はそこで私に罪をなすりつけて自分だけ助かろうとはしない人だ。
「お兄ちゃんって、本当にどうしようもないよね」
 このまま首を絞めたら殺せるかもしれない。兄が死んだらその死体はどうすればいいだろうか。隠したいとは思わない。どこかに飾るのも悪くはない。その肌に指を滑らせると、兄がその指先をじっと見ていた。
 きっと近いうち、また大きな事件が起きる。私の予感は何故か確信めいたものに変わり始めていた。



 兄が引っ越す日、母はやたらせわしなく兄の世話を焼いていた。新しい部屋までついて行くと言うのを兄が何度も断っていた。
「詩乃、もう行くから」
 多くの荷物はもう既に運んでいて、残りの荷物を兄の車に積んで引っ越しが完了する。私はつけっぱなしのテレビを見たままで答えた。
「行ってらっしゃい」
 いざその日になってみると実感がない。そもそも県内なのだから、会いに行こうと思えばいつでも行けるのだ。けれどあっさりと兄を送り出してしまったあとで、家の中に残った空洞に、改めて兄はもうこの家にはいないんだと実感する。
「詩乃、今日の夕飯何がいい?」
 母が冷蔵庫を開けながら私に尋ねた。
「じゃあ、ハンバーグとか」
「えー、あれ結構面倒なのよ」
 兄がいなくなった後も、こうやって日常は否応なく続くのだろう。世の中で何かが起こっていても関係ない。けれど母はまだ兄が新居にも着いていない頃から「大丈夫かしら」と心配している。
「ハンバーグ、お兄ちゃんがこの前作りすぎて冷凍したやつがあったよ」
 一人暮らしをするために色々練習をしているときに、ハンバーグも作っていた。それ自体はレシピ通りだったので美味しかったのだが、量の加減がわからずに作りすぎていた。どうすればいいかと聞かれたので、冷凍でもすればと私は答えた。
「あ、本当だ。でもこれ中でくっついてるんだけど」
 普通は平らなバッドなどを下に置いて冷凍するものなのだ。そうしなければせっかく成形しても全部くっついたまま冷凍されてしまう。ちゃんと教えれば良かった、と私は溜息を吐いた。でも大したことではない。焼けばどうにかなるだろう。
「大丈夫なのかしら、こんな調子で」
「死にはしないでしょ」
 まだ兄がいないことに違和感を覚えてしまうけれど、やがてこれにも慣れていくのだろう。ことあるごとに体を求められることもない。でもそれに何らかの感情を抱くほど、私は兄のことが好きだったわけではないし、嫌いだったわけでもない。でも指先が、兄を殺してみたいという感情を思い出していた。
 つけっぱなしにしていたテレビから、討論という名の口論を始めたコメンテーターの声が聞こえる。聞いているだけで疲れるので、アナウンサーが淡々と原稿を読むだけのニュースにチャンネルを合わせると、その瞬間に「速報です」と急いた声が響いた。
 十六歳の少年が同級生を殺して、その首と共に出頭したというニュースだった。近いうちに何か事件が起こると思っていたけれど、それがまさか兄の引っ越しの日に重なるとは思わなかった。少年は動機について、「好きな物を侮辱されてどうしても許せなかった」と供述しているという。
「まだ糊、買ってなかったな」
 これからあのノートに集める記事は、この事件のものになるだろう。体が浮いたような感覚につられるようにして、兄の手が私の中心に触れたときのことを思い出した。私はその記憶を振り払うようにして立ち上がる。
「ちょっと糊買いに行ってくるね」
 どうして私はこんなことをしているのか。これまで立っていた地面がなくなったような浮遊感の中、私は近くのコンビニへ向かう。きっとこの事件だって数週間もすればほとんど報道されなくなる。私はこれから何度、同じことを繰り返して生きていくのだろう。
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