【R18】Life Like a Ring

深山瀬怜

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第1話 糊・2

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 引っ越しの準備のために仕事を休んだ兄が、いつの間にか夕飯を作っていた。焼き魚と味噌汁と肉じゃがとほうれん草のおひたし。味は悪くなかった。ほうれん草の根本に少し土の粒が残っていて、噛むとその感触が気になったが、今までほとんど料理をしたことがない人の作ったものだと考えれば上出来だ。
「どう?」
「一人暮らしでこんなん作ってたら絶対続かないでしょ。仕事もあるんだし。美味しいけど」
「そっか。美味しいならよかった」
「一人になったらどうせ冷凍パスタとかそういうのになるって」
「一人暮らししたことないのに、詳しいんだな」
 兄は一人暮らしをするにあたって、ネット上に溢れている体験談を読んだりはしていないのだろうか。一人暮らしできちんとした一汁三菜を用意し続けられる人なんていない。仕事をしているなら尚更。三食カップラーメンにならなければ褒められるくらいだ。そんなことを知ってしまうくらいに、私はそのことについて調べてしまった。対して当の兄は全くのんきなものだ。
「ていうか住むところに魚焼きグリルなんてあるの?」
「いや、ガスコンロが一口だけ」
「そんなの味噌汁でコンロ埋まるでしょうが」
 味噌汁の具は豆腐とわかめ。母の味噌汁でも定番の具だ。兄は食べながら母がやっていた手の上で豆腐を切るやつがどうしても怖くて出来なかったなどと話している。私にとってはどうでもいい話だった。一人でこれだけ作れれば死にはしないだろう。
 大学三年生の夏みたいだと思った。それまで単位がどうの、レポートが間に合わないだの話していた周囲の話題が変わる瞬間。ゴールに向かって突き進む人たちの中で、私は置いていかれていた。やりたいことなんてひとつも見つからず、大学の研究室は楽しかったけれど、大学院に進もうと思えるほどではなく。あのときのような冷めた気持ちで私は兄を見ていた。こんなに準備をして、明日急に交通事故に遭って死んでしまったらどうするのだろう。人の命の終わりは突然訪れることを、兄だって十分知っているはずなのに。
 食事を終えると、兄は食器洗い機に二人分の皿を入れた。一人暮らしの家にはそんなものはない。自分がやらなければ永遠に皿が片付かない状態で、その全てを面倒がらずにできるのか。私が気にしても仕方のないことだけれど。
 リビングのソファーに移動してテレビを点けると、ちょうど七時のニュースが始まったところだった。あの大阪の事件は、おととい発生した大雨災害によって押し流されていった。そういえばまだ糊を買っていなかった。でもそろそろ記事も出て来なくなる頃だろうか。
 最初はどれだけ事件に恐怖を抱き、憤っていても、大抵の人はすぐにそれを忘れてしまう。それよりもっと大きな事件が起きたときはなおさらだ。そのくせ日本の少年に対する処分は甘すぎるなどと意見を述べるのだ。どうせ人を殺すような人間は更生出来ないのだから、死刑にしてしまえばいいと言ってしまう人さえいる。でもそういう人に限って、どうしようもない理由からの殺人には同情したりもする。
 人殺しは人殺しだ。私と兄の関係が双方の同意に基づくものであっても到底世間には受け入れられないのと同じ。結局自分が理解できないものはできるだけ遠ざけておきたいという考えなのかもしれない。
 大した情報はなさそうだ。チャンネルを変えようとすると、兄が私の手を止めた。
「天気予報見たいから」
「そんなんスマホで見ればいいじゃん」
「いや、雨降るにしてもどんな感じの雨なのかとか、わりと重要だろ」
 兄が私の隣に座ってテレビを見る。それにしても今まで天気なんて気にする人だっただろうか。うちには乾燥機付きの洗濯機があるから、洗濯するにしてもわざわざ天気を確認したりはしない。それ以外の理由を考えてみても、傘を持っていくかどうかの判断に使うならスマホの天気予報で十分だ。
「まさかとは思うけど、今から一人暮らしの予行演習みたいなことしてる?」
「ある程度どんな感じか想定しながら動いてはいるよ」
「何それ、馬鹿みたい」
 私はソファーの背もたれに体重をかけ、スマホをテーブルの上に置いた。一人暮らしに予行演習なんて。浮かれているのか。高校卒業して初めて一人暮らしをする大学生とやっていることが変わらない。それよりも電気やガスなどの手続きは大丈夫なのだろうか。私が心配しても仕方ないことだけれど。そんなことを考えてしまう自分が嫌になって、つい兄の銀色のイヤーカフを引っ張ってやりたい衝動に駆られる。でもそんなことをしても何の意味がないのもわかっているので、私は黙って天気予報の画面を見つめていた。明日は全国的に晴れで、洗濯日和で、熱中症に注意。うんざりするくらいの最高気温だ。もう九月の終わりなのだから早く秋らしい気温にになればいいと思うけれど、最近の四季は秋を忘れがちだ。期待は出来ない。
「何でそんなに突っかかってくるんだよ」
「別にそんなつもりないけど。でもお兄ちゃんに一人暮らしなんてできんの?」
「やってみなきゃわからないだろ」
 私はその言葉が終わる前に立ち上がった。しかし兄に腕を掴まれ、その体に収まるような形で倒れ込んだ。首筋に唇が触れる。
「帰ってくるかもよ、お母さん」
「今日は遅くなるって言ってた」
 だからといってリビングで堂々となんて、今までなかったことだ。引っ越しを決めてから兄は今までとは変わった気がする。それがいいのか悪いのかもわからず、私は流されていく。ここでしたことの残滓が見つかってしまって、私たちのことが母親に露呈してしまわないか。私はそればかり気にしていた。
「ねぇ、何で一人暮らしすることにしたの?」
 こんな会話は、リビングのソファでセックスしながらするものではないと思いながらも、私は尋ねた。あまりにも場所にそぐわない湿った音が響く。
「前に言っただろ。職場が遠くなるから」
「それだけじゃないでしょ」
 兄は少し口ごもってから、けれど嘘を吐くような器用さもなかったのか、観念したように私を見つめた。
「一人暮らししてみたくて」
 馬鹿みたいな理由だけれど、それが正直な気持ちなのだろう。世の大学生だって、一人暮らしをしてみたい、という動機で始めてしまう人はそれなりにいる。一人暮らしのときはそんな理由がまかり通るのだ。でも、人殺しのときはそうもいかない。
 人の命を奪えば取り返しのつかないことになる。一人暮らしのように、駄目だったら実家に戻るなんてことはできないのだ。
 終わりに向かって突き上げられながら、私の脳裏を言葉が通り過ぎていった。あなたは私を一人にするんだね。私はその言葉を自分で否定した。これではまるで兄に出て行ってほしくないみたいだ。そんなはずはない。兄には特に何の感情も抱いていないはずなのだ。自分で出したものを自分で処理する兄の滑稽な姿を眺めながら、私は深く溜息を吐いた。
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