【R18】Life Like a Ring

深山瀬怜

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第2話 カッターナイフ・1

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「一人暮らしでこんなん作ってたら絶対続かないでしょ」
 詩乃がそう言っていたことを思い出しながら、俺は電子レンジの中で温められていく冷凍パスタを眺めていた。残業などで帰りが遅くなり、とても自炊なんてできないようなときに、こういった温めればすぐに食べられるようなものは重宝する。その上外食するよりは安く済む。結局詩乃が言っていた通りになった。栄養バランスなどを考えるとこれではいけないのかもしれないが、何も食べないよりはいい。
 温め終わったパスタを取り出し、小さなテレビの画面を見ながらそれを食べる。一人の食事は寂しいものだ。最初の頃は行儀が悪いからとテレビをつけずに食べていたけれど、だんだん人の声がないことに耐えられなくなり、テレビや動画サイトに頼るようになってきた。仕事で疲れた脳には明るすぎるバラエティ番組もつらい。結果的にニュース番組に辿り着いた。
 俺が実家を出たその日に起きた事件は、一ヶ月を過ぎた今ではほとんど報道されなくなっている。高校生の少年が同級生を殺して、その首とともに出頭するという衝撃的な事件だった。加害者の少年は、被害者が推しを侮辱したからだとその動機を語り、そこから行き過ぎた推し活や侮辱の原因となったという恋愛スキャンダルの報道の是非まで話が膨らんだが、折からの物価高騰の方が世間にとっては大きな問題だったらしく、全ての議論が中途半端に放り出されたまま消えていこうとしている。
 いつもと同じパターンだ。でも詩乃はこの事件の記事もノートにスクラップしているのだろう。温めた時間よりは少し長い食事が終わり、下洗いをした容器をゴミ箱に投げ入れた。俺はそのままソファーに転がって、机の下に置いたマガジンラックから一冊のノートを取り出した。
 詩乃は、そろそろノートが一冊なくなっていることに気が付いただろうか。
 あの家で詩乃のノートの隠し場所を知っているのは、本人を除けば俺だけだ。最新のものではない、既に全てのページが埋まったノートだから、しばらくは気付かないだろうと踏んでいた。適当にページを開いて、丁寧に貼り付けられた記事を眺める。けれどこのノートに貼ってあるのは五年前の記事なので、そういえばそんな事件もあったなという記憶を呼び起こすものでしかない。俺はノートをマガジンラックに戻し、テーブルの上の筆立て兼リモコンラックからカッターナイフを取り出した。
 詩乃が少年事件の記事を集め出したのは、彼女が中学生の頃からだ。その前に起きた大きな事件に関しては、図書館で新聞の縮小版をコピーしてまとめていた。その中に同級生をカッターで切りつけた事件があったことを思い出す。実際に事件が起きたのは、詩乃が三歳の頃の話だ。俺はまだうっすらと覚えているが、詩乃はおそらく全く覚えていないだろう。リアルタイムで起きているものだけに飽き足らず、生まれてすぐに起きた事件から、生まれる前の事件に至るまで。過去の事件に関しては別のノートにまとめていることも知っている。知らないのは、それを始めた理由だ。
 けれど俺にとって、詩乃がそんなことをしている理由なんてどうでもよかった。母は詩乃の趣味を知ったときには随分心配し、その動機を何度も問い詰めていたけれど。
 スライダーを動かし、カッターナイフの刃を出す。本来は折線一本分だけ刃を出して使うのが正しいらしい。けれどそんなことは無視して長めに刃を出す。そのままそれを首筋に当てると、ひんやりとした感覚が伝わってきた。
 今回の事件は違う。けれどこの世界には「誰でもよかった」と言って人を殺す人がいる。しかし結局殺されるのは女性や子供などの力の弱い人たちだ。誰でもよかったと言うわりには殺す人を選んでいるだろうと言う人は多いが、その指摘はナンセンスだと思う。誰でもいいから、その中で殺しやすい人を探しているのだ。そこで選んでいるからといって、誰でもいいという言葉が嘘になるわけではない。善良な怒りに満ちた外野の言葉は的外れだ。本当は「人を殺したい」という殺意そのものに焦点を当てなければならないのだ。
 その上で、思う。
 人を殺したいと思う人がいると同時に、殺されたい人もいる。けれど鍵と鍵穴のようなその二人が出会う可能性は限りなく低い。自殺サイトに紛れ込んで人を殺す人もかつていたらしいが、そんな風に殺したい人と殺されたい人が噛み合う例は決して多くない。
 カッターナイフを持つ手に少しだけ力を込める。こんな力では痕すらつかないことはわかっていた。もっと力を入れればいいのにそれができないのだ。だから今まで誰にも気付かれなかった。
 心配性で過干渉なところがある母親は、詩乃の秘密には気付いたが、俺の心には気付かなかった。詩乃にはノートという動かせない証拠があった。けれど痕すら残せない俺の感情を知ることはできないだろう。だから母の前では問題なく優等生でいられた。この感情が芽生えた小学三年生の頃から今まで、俺は、少なくとも詩乃よりは、母にとっての「良い子」だったはずだ。
 詩乃なら、どうやってこのカッターナイフを使うのだろう。知っている事件の通りなら、首と左手首を深く切るだろうか。でもあえて違う方法を取るかもしれない。目を閉じれば、この何の変哲もないカッターナイフを握る、詩乃の白い手が浮かぶ。
 意外と筋張っていて、でも女性のものだとわかる柔らかな白い手。それを見る度に、いや思い出すだけで、体に熱が灯るのがわかる。その形が整っているからだけではない。それはもちろんあるけれど、何よりも重要なのは、その手が殺意を隠し持っているということだ。
 誰かが誰かを殺したというニュースを見る度に、その犯人が「誰でもよかった」という言葉を発する度に、俺は思っていた。どうして俺のところにはその人が来ないのだろうかと。ずっと待っているのに。俺を殺してくれる誰かが目の前に現れるその日を――。

 何が理由なのかはわからない。気が付けば、誰かに殺されることを望むようになっていた。死んでしまいたいというのともまた違う。他人の手で、圧倒的な理不尽で、この生を奪われたい。
 小学校の近くでは、時折不審者の情報が回ってきた。その中でよく覚えているのは、ある女子生徒が後ろから急に首を絞められたというものだった。その女子生徒は咄嗟にランドセルにつけていた防犯ブザーを鳴らし、犯人が逃亡したために事なきを得たという話だ。その被害者が俺だったら良かったのにと思った。被害に遭った女子生徒からしてみれば許せない考えだろうということもわかっていた。それでも想像することをやめられなかった。放課後に何度かその場所に行ってみることもあった。けれどその犯人は二度と現れず、そのうちほとんどの人の記憶から消えてしまった。
 俺は俺を殺してくれる誰かを待っているのに、人を殺したいと思っている誰かは俺のところには来てくれない。誰かが殺されたというニュースを見る度に、同じ方法で自分が殺されるところを想像した。けれど自分がそんなことを考えているとは言えなかった。言ったら異常だと思われるだろう。特に母は心配して病院に連れて行こうとするくらいのことはしたかもしれない。でも言わなければ誰にも気付かれない。たとえ、初めて射精したのが見知らぬ誰かに首を絞められているところを妄想しているときで、それ以来、誰かに殺される想像をしたときにしか興奮できないとしてもだ。
 異常なのは自分でも理解している。けれど自分を矯正して正常に生きたいとも思えなかった。ただ誰かが俺を殺してくれればいいだけなのだ。殺されたいという感情が鍵穴ならば、それに合う鍵さえ見つかればいい。
 しかしそれは簡単なことではない。――俺にとって幸運だったのは、詩乃がいたということだ。
 大学生になったばかりの頃の話だ。俺は自分の欲望を誰にも打ち明けないまま、表面上は優等生を演じていた。強要されていたわけではないけれど、誰かが望むとおりの自分であることは俺にとっては楽だった。ただ真面目に目の前のことに取り組むだけでよかったのだから。順当にそこそこの進学校に入って、そこそこに成績を維持していれば何も言われなかった。
 そんなある日、夜中に目を覚ました俺は、リビングのソファーに座り込んで泣いている母の姿を見た。俺は母にそっと近付いて尋ねた。母が心配だったわけではない。ただそうするべきだと思ったからそうしただけだった。母は少し迷っていたけれど、やがて声を潜めて話し始めた。
「今日、詩乃の部屋を掃除したんだけど……そのときに見つけてしまったの」
 少年が起こした事件の記事を集めたノート。母からしてみれば心配なのだろう。もしかしたら詩乃がいずれ事件を起こすかもしれないと思っているのかもしれない。
「心配ないよ。中学生なんだからそういう時期もあるって」
「そうかしら……でも最近、遼の大学でもあんな事件があったばかりだし」
 俺が高校三年生のとき、俺が志望していた大学に通っていた学生が知人の女性を殺すという事件が起きた。逮捕された十九歳の少女はその動機を「人が死ぬところを見たかった」と語ったという。また彼女は、過去に起きた殺人事件などに異常な興味を示していたとも報道されている。母が詩乃を心配するのももっともかもしれない。
 詩乃が記事を集め始めたのはその事件の後からのようだ。口には出さなかったものの、俺たちはお互いに同じ事件に衝撃を受けたということになる。ただし俺の場合は、あと少し大学に入るのが早ければ、その少女と会えて――殺されることが出来たかもしれないと思っていただけだけれど。
「そのうち落ち着くと思うよ。俺も気を付けて詩乃のことを見ておくから」
 そう言えば母は安心するとわかっていた。そして俺を更にいい子だと認識する。でも俺の本心は違っていた。歓喜に震えているのを隠すために、母に向かって笑いかける。
 中学生だからそういう時期もあるだとか、そのうち落ち着くだとか、自分でもよくもそんな白々しい言葉が出てくるものだと思った。それを誰よりも望んでいないのが俺なのに。仮に今の感情が一過性のものでしかなくても、それが本物に変わるまで育ててほしい。
 殺されたい人間と殺したい人間が、こんなに近くにいる奇跡なんて、今後起こるかどうかわからないのだから。

 詩乃の秘密を知った数日後、俺は捨てるために部屋の隅に置かれていた新聞をこっそり持ち去ろうとしている詩乃を呼び止めた。詩乃はわかりやすく肩を震わせて、手に持った新聞を隠す。
「学校で使うのか?」
「……そんなところ」
 それが嘘であることはわかっている。詩乃は明らかに特定の記事が載っているものだけを抜き取っていたからだ。
「集めてるんだろ?」
 核心を突く一言に、詩乃がわかりやすく狼狽する。俺は詩乃を安心させるために笑みを浮かべた。母は詩乃のことを心配している。でもそれは心配という名の否定だ。そんな記事を集めるなんて、少年犯罪に興味を持つなんておかしいと言外に伝えてしまっている。俺は詩乃を否定しない。このわずかな希望をみすみす捨てるような真似をするわけがないだろう。
「……どうせ、お兄ちゃんも私のことおかしいと思ってるんでしょ?」
「詩乃、」
「いつか私が人を殺すかもしれないって」
 今はまだ、その段階には至っていないと思っている。
 思春期に後ろ暗いものに惹かれる人は少なくない。けれど大抵はそれを黒歴史と呼んで大人になっていく。今の詩乃の前にはまだその道が残っている。気付かれないように、慎重に、その道は塞いでいかなければならない。
「興味を抱いて調べているだけで、即犯罪に結びつける方がおかしいんだよ。この世には犯罪を研究している学者だっている。記事を読んでるなら詩乃もわかるだろ?」
 そういった記事では、その手の学者が解説をしていることもある。詩乃はどんな小さな記事でも取りこぼさずにスクラップしていた。内容が重複していると思われるものも全てだ。
 けれどそれだけで異常だとは言えない。これが犯罪でなく鉄道の記事だったら、それはただの鉄道オタクでしかない。
「でも、これからは母さんには見つからないようにした方がいいな。口出されたくないだろ?」
 詩乃は無言で頷いた。今は味方だと思わせておいた方がいい。その方が誘導もしやすい。共犯関係は結びつきを強くすることもわかっている。
「いい隠し場所を教えようか?」
「……いいけど、何でそんなこと知ってるの?」
 伊達に本当の望みを隠し続けて生きてきたわけではない。そもそも形に残るものを作らないというのが鉄則ではあるが、詩乃の場合はそれは適用できない。それなら見つからないようにするのが次善の策だ。
「俺にも色々あるんだよ」
 詩乃の部屋に入り、机の中に隠し場所を作る。母は勝手に部屋の中を掃除したりはするが、机の中までわざわざ見たりはしない人だということはわかっていた。だから不自然に鍵をかけたりもしない。
「……ありがとう」
「礼を言われるようなことではないけど」
「お兄ちゃんは聞かないんだね。……人を殺したいのかって」
 聞くはずがないだろう。欲しい答えが決まっているのにあえて尋ねることほど愚かなことはない。期待外れの答えが返ってきても困る。ただ俺は、詩乃にとって自分の感情を否定しない人間であればいいのだ。
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