【R18】Life Like a Ring

深山瀬怜

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第2話 カッターナイフ・2

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 それから数年。詩乃は高校を卒業する年になっていた。
 詩乃は第一志望の私立大学に早々に合格し、穏やかな時間を過ごしていた。大学は自分の成績に合うところで、そこそこ就職活動に有利そうなところを何となく選んでいるようだった。本当の興味は別のところにある。けれど一度母に否定されたそれを口に出すことはできないようだった。
 もったいないことをしていると思う。俺の本意ではないけれど、見つけてもそのまま放っておいたなら、もしかしたらそれが将来の職業に繋がった可能性もあるのに。
 しかしそんな健全な伸ばし方では俺の目的は達成されない。鬱屈して、歪んでいかなければならない。見ている限り、それには成功しつつあると感じていた。

 俺も詩乃も母には隠し事をしているけれど、決して仲が悪い家族というわけではなかった。全員が休みのときは一緒に食事することもある。
 行儀が悪いことは全員わかっているけれど、何となく音が欲しくてテレビをつけたまま夕飯を食べていた。ニュースでは少年がバイクの無免許飲酒運転で事故を起こしたという事件が報道されていた。詩乃の興味をそそるような事件ではない。けれど母が作った生姜焼きを食べながらそちらに聞き耳を立てていることはわかった。それに気付かない母が画面を見ながら言う。
「こういう事件でも、子供は実名報道されないからいいわよねぇ」
 無免許飲酒運転の少年には、正直同情できるところは一切なかった。バイクも盗んだものらしく、今時珍しいくらいの不良だった。地方都市から少し外れたところには、まだこの手の人間も生き残っているようだが、最近は暴走族の影を見ることもめっきり減った。
 詩乃は一瞬何かを言いたげに顔を上げたが、すぐに何事もなかったようにキャベツをつまんだ。言っても意味がないことはわかっているのだろう。
 見えてくる情報からは同情の余地が一切ない加害者でも、その陰に何があるかまではわからない。家にも学校にも居場所がなく、かといって外に受け皿があるわけでもなく、酒でも飲んで気を紛らわそうとしたら気持ちが大きくなりすぎてバイクを盗んだというストーリーだって考えられる。何も情報がない以上、これも妄想に過ぎないけれど。
 詩乃は黙ったまま出されたものを完食し、下洗いした自分の皿を食器洗浄機に入れて部屋に戻っていった。空になった詩乃の席を見て母が溜息を吐く。
「最近、詩乃ったら家にいても自分の部屋に籠もってばかりなのよね」
「第一志望決まったけど、友達はまだ全員が試験終わったわけじゃないから暇なんじゃないか? そういう状況で外で遊び歩くのも何だか後ろめたいだろうし」
 本当は何をしているか知っている。けれど母に気付かれて邪魔されるわけにはいかなかった。中学生のときは記事を集めるだけだった。今はそれよりも一歩進んだ段階にいる。新聞記事とニュースとノートだけだった世界は、徐々にネットと繋がるようになった。そこに正確な情報が落ちているわけではない。黎明期のネットならいざ知らず、今のネットは情念が渦巻く掃き溜めだ。無知な正義が跳梁跋扈する世界は、詩乃のことを受け入れる人と同じくらいに、彼女を否定する声で溢れている。
 食事を終えて、自分の部屋に戻る前に詩乃の部屋の扉をノックした。詩乃は不機嫌そうな顔をしてドアを開ける。
「何か用?」
「この前貸した漫画、読みたくなったから返してもらおうと思って」
「本棚の横に置いてあるから持って行っていいよ。もう読み終わったから」
 詩乃の部屋は、多少生活感があるものの片付いている。もう受験が終わったからなのか、参考書の類は既に机の上の本棚から取り除かれていた。がらんどうの本棚には、これから大学で使う書籍などが入ることになるのだろう。
 ベッドに横になったままスマホをいじっている詩乃を見ていると、詩乃が面倒そうに体を起こした。
「何?」
「いや、何見てるのかなと思って」
「別に、普通のやつだけど」
 ちらりと見えた画面はSNSのものだった。何を調べているかも、太字になっている文字を見ればわかってしまう。
「……そんなの見たって何にもならないだろ」
「そうだね。イライラするだけ。この人たち、自分がそうなるかもしれないとは一度も思ったことないんだろうな」
 加害者を守る法律なんておかしい。それが正義の意見だ。今更それについてとやかく言う必要もないくらいありふれた意見。精神に問題があったからといって刑が軽くなるのはおかしいとか、罪を犯したことのない人の言葉はいつも綺麗だ。
 詩乃の手がシーツの上で動く。その手は詩乃の本心を映しているような気がした。詩乃は危うい境界線上に立っている。あと一押し、何かが必要だ。
「わかるよ。そういうの、腹立つよな」
 詩乃は何も答えなかった。それでいい。こんな表面だけの同意の言葉を求めているわけでないことは知っている。俺は高鳴る心臓を鎮めるために息を吐いた。
「いいよ、そんな形だけわかった振りしなくて」
「詩乃」
「……あの人は、自分の娘がそうなったときも同じこと言うのかな」
 詩乃はもう少年とは言えない年齢になりつつある。けれど誰かを殺したいという衝動に、法律で守られるかどうかなんて関係ない。母は永遠にそれを理解できないだろう。彼女はただ、俺たちにちゃんと育って欲しいと思っているだけだ。ちゃんとというのは、社会に溶け込んで、普通の範囲から出ずに、それなりに幸せな道を歩むということだ。
 けれどその道は塞がれつつある。下手に押さえ込んだからこそ、思春期の一過性のもので終わったかもしれないものが育ってしまった。その歪さが愛おしくてたまらない。俺は投げ出された詩乃の手にそっと触れた。
「何、ちょっと……!」
 手の甲に口づけると、詩乃が目を大きく見開いた。
 気持ち悪いと思われているだろうか。それで構わない。そもそも人間の感情なんてどれもこれも気持ち悪いものだ。希死念慮も、殺意も、愛情も、綺麗なものなどひとつもありはしない。
 嫌悪すればいい。それが最後の一押しだ。俺のことを殺したいと思うほど憎めばいい。
「ちょ……待って……!」
「あまり大きな声を出すなよ」
 母に気付かれて止められてしまっては全てが水の泡だ。指輪を外してから詩乃の口を手で塞ぐと、詩乃は怒りが籠もった目で俺を睨み付けた。
 服を剥ぎ取っていく度に露わになっていく白い肌。詩乃は自分自身の肉体がこれほどまでに美しいことを知っているのだろうか。淡々と最低な行為を続けながら、俺は詩乃に殺される瞬間だけを待ち望んでいた。
「詩乃……」
「なん……で、いきなり、こんな……っ」
 終わりの瞬間を思う度、興奮が抑えきれなくなる。自分を殺してくれるはずの存在が愛おしい。その手も、胸も、脚も全部凶器のように見える。内腿に手を滑らせてから、軽く布をずらしてその下に触れると、濡れた音が響いた。
 恨みがましい視線。けれど快感に悶えて漏れる吐息は甘い。きっと俺がどうしてこんなことをしているかもわかってはいないだろう。わかってもらう必要はない。そもそも説明したところで理解してもらえるとは思っていない。
 詩乃はどうやって俺を殺すのだろうか。
 刃物で刺されるのもいい。首を絞められるのも悪くない。方法はいくらでも知っているはずだ。その瞬間が待ち遠しくて、渇いて、渇いて、熱い水を求めてしまう。わずかに色付いた肢体に、避妊具を纏わせた自分の熱を突き立てる。詩乃の唇から、呻きのような声が零れた。
 何かを訴えるように、詩乃が俺の腕に爪を立てる。ああ、きっともう少しで俺の望みは叶う。今までにないほどの興奮が体の熱を上げて、俺はそのまま詩乃の中に入ったままで果ててしまった。
 荒い呼吸を互いに紡ぎながら、詩乃の体からゆっくりと離れていく。果てるその刹那は、夢続けてきた命の終わりに少しだけ似ているような気がした。



 けれどそれから三年が過ぎても、本当の望みが叶えられる日は来なかった。
 最初は詩乃に憎悪を植え付けるために始めた行為は、いつしか死の代替行為にすり替わっていった。けれどあくまで代替品でしかない。本物の輝きには敵わない。
 いつになったら詩乃は俺を殺すのだろうか。もう機は熟したはずだ。
 苦しみを紛らわすための酒の量がどうしても増えていくように、詩乃とセックスする回数も少しずつ増えていった。
 そろそろ、この膠着状態を抜け出さなければならない。
 そう思っていたところに降って湧いた異動の話は、俺にとっては好都合だった。詩乃に殺されたいと思っているのに距離を取るのも変な話かもしれないが、離れることによって何かは変わるだろう。あるいは一人暮らしの家ならば、他に誰かが来る可能性も低いから殺しやすいかもしれない。
 母は俺の一人暮らしにあまりいい顔をしなかった。最初はそれまでろくに料理もしたことがない俺が生活できるかどうかを心配しているのかと思っていたが、それはどうやら違うようだった。
「別に知多だったらここからでも通えるじゃない」
「でも残業とかで遅くなったときに、あの距離じゃ帰るのだけで疲れるんだよ。それに俺もいい歳だし、一人暮らしくらい」
 結婚していない同僚も、それほど引っ越す必要もないようなきっかけで何となく一人暮らしを始めている人が多い。ここで一人暮らしを検討すること自体はそうおかしいことではないはずだ。しかし母は納得しなかった。
「いい歳ってねぇ……私から見れば遼は永遠に私の子供なんだから。一人暮らしすると無駄にお金もかかるし、別に彼女がいるってわけでもないんでしょう?」
「まあ、今はいないけど。でもそのうちできるかもしれないし」
 正直に言えば、死のうとしているのに彼女を作るなんて無駄なことはしない。でも世間から見て普通に思える発言をしておいた方が無難だろうと思ってそう言った。
「どうせすぐに音を上げるでしょう?」
「やってみないとわからないだろ。それに今回は知多だけど、そのうちどこに飛ばされるかもわからないんだ。いずれ一人暮らしになるなら今のうちに慣れておいた方がいい」
「それなら全員で知多に引っ越す? どうせこの家持ち家でもないんだし」
「そんなことしたら、今度は詩乃の大学が遠くなるだろ。何でそこまで俺に一人暮らしさせたくないの?」
「だって心配なのよ」
 心配という言葉を使われると反論が難しくなる。それは好意から来るものとされているからだ。けれど結局はそれも人の感情で、特に母のものはべたべたとして気持ち悪い。どうせ本当は今まで都合の良い子だった俺が、自分の意思で出て行くと決めたことが気に入らないだけだろう。母は自分の子供を自分を美しく見せるアクセサリーか何かだと思っている。
「とにかく、もう一人暮らしする予定だって会社にも言ったし。通勤手当が減って住居手当が増えるから、今更やっぱやめますとは言えないよ」
「会社の都合と親の私と、どっちが大事なの? 会社はあなたの人生に責任を持ってくれるの?」
 俺の人生に責任を持てるのは、会社でも親でもなくて俺だけだ。
 そもそももう生きるつもりなんて微塵もないのだ。死ぬ瞬間までに命があればいい。それ以外は別にどうだっていいのだ。一人暮らしの理由も、もっともらしいものを挙げているだけで、本当は膠着状態に陥った詩乃との関係を動かしたいというだけだ。けれど本心を言ったところで半狂乱になる未来しか見えない。これまで優等生だと思っていた俺が、本当はずっと誰かに殺されることを望んでいるような人間だったとは認められないだろう。
「とにかくもう決めたことだし、引っ越し業者に見積もりも頼んだから」
 何か言いたげに俺を見る母を無視し、俺は一人暮らしのための準備を少しずつ進めていった。



 一人暮らしを始めて少し経ったが、残念ながら状況は変わっていない。でも兆しは確かにあった。引っ越し前に、詩乃は母が家に戻ってきたのをわかっていて、わざと行為を続けたことがあった。そこにどんな思いがあったかはわからないが、これまでにないことが起きたのは確かだ。
「お兄ちゃんって、本当にどうしようもないよね」
 その言葉と、治まらない体の熱と、冷たくて熱い瞳を毎日のように思い出す。
 ああそうだ、本当に俺はどうしようもない人間だ。ただ殺されたいという願望のために、様々なものを積み上げてきた。
 カッターナイフを握る詩乃の白い手を思い浮かべながら、服で隠れる部分の皮膚に浅い傷をつける。このまま首を深く切れば死ぬことはわかっている。けれど自殺では意味がない。誰かが俺を殺してくれなければならない。
「詩乃……っ」
 服を着たままで放ってしまったせいで、その部分が気持ち悪い。それを自分で片付ける行為には、虚しい以外の言葉が浮かばない。俺はこんなことでしか興奮できない人間なのだ。けれどそれを治したいとも思わないあたりがどうしようもないと自分でも思う。
 それでも自分自身を止められる段階は、とっくの昔に通り過ぎてしまっている。


 だから、早く。
 殺されたい人間と殺したい人間が出会うことなんてほとんどないのだから。

 渇いて、飢えて、どうしようもないんだ――。
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