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二章 歌姫の競演
2-6 饗宴
しおりを挟む翠蓮がいる控えの間では、それぞれの係りや楽府員が忙しく動き回る。楽器や声の音も合わさり、ざわざわとした喧騒を生み出していた。
絢麗との二重唱は完璧とは言えなかったが、舞台で披露するには十分な出来に仕上がっていた。
「翠蓮さま、本日の衣装はこちらです」
袖はふわりと天女のように広がり、スカート部分が柔らかく重なっている。
そしてあちこちに美しい珠飾りが散りばめられていた。
(素敵……)
これを着て舞台に立つと思うと、翠蓮の胸は希望で満たされる。
段々と出来上がっていく自身の姿を翠蓮は、姿見を通してじっと見つめる。
(いつか本で見たお姫様みたい……なんて言ったら子どもっぽいかな……)
まるで自分でいて自分ではないようだった。美しい衣装に身を包み、隙のなく結われた髪に化粧。全てが初めてのことで、高揚し、心が弾む。
「素敵ねぇ……」
周りもうっとりして声を漏らす。
絢麗と二人並ぶと、そこだけ明るく見えるほどだ。
いつ来たのだろうか。
蒼瑛は息を止め、翠蓮へそっと視線を寄せている。
「蒼瑛さま、お忙しいのにありがとうございます。きっと今日の舞台は素晴らしいものになります。」
香蘭は悠然と微笑むと、蒼瑛を今日の主役の元へ案内する。
蒼瑛は翠蓮の前に立つと声をかけるでもなく、どこか後ろめたげに視線を外した。
(やっぱり、避けられてる……)
翠蓮は唇を結ぶが、すぐにいつもの表情に戻した。
そして挨拶のため深く身をかがめるようとすると、不意に、衣装係が緊迫した声を上げる。
「動かないで――」
――遅かった。
布が裂ける音とともに、長居の襞が引き攣り、輝く珠飾りが弾け飛ぶ。
最後の光が、重力で床に吸い寄せられる。
かつんっ――
「きゃーっ」
その音が止むと同時に、誰かが悲鳴をあげた。
「な……に……?」
状況を把握できず、翠蓮は肩越しに視線を向ける。
美しかった衣装は、右後ろあたりが腿から胴まで大きく裂けていた。
足がもつれたように絡む。
「大丈夫か!?」
咄嗟に蒼瑛が手を出したが、翠蓮はそのまま床へと崩れ落ちた。
香蘭は真っ青になりながらも、確認する。
「……今、次第は!?」
「琵琶が演奏中で……出番まで十分を切ってます!」
蒼瑛は素早く衣装の後ろに回り込み、腰を下ろす。
損傷した部分を手にとると、裏地の一部分に不審な点がある。自然に裂けたのとは別の、鋭利な切れ込みだ。
その小さな切れ込みは、まるで舞台上で衣装が裂けることを狙ったように見えた。
歌唱前、両手を広げ身を沈めるように行礼する――その瞬間を。
蒼瑛はぞっとした。
「もし観客の前で破けていたら……」
すぐに陳偉に、指示を出す。
「控室を封鎖して、直ちに内官府へ調査を依頼してくれ」
「承知いたしました」
陳偉は弾けるように出て行った。
(舞台は中止するしか……)
蒼瑛が声を出そうとした時、鋭い声が響き渡る。
「待って!針と糸を!!」
声の主は絢麗だった。
「……修復できるのか?」
蒼瑛は衣装に手をかけたまま絢麗に尋ねた。
この日は饗宴の舞台に合わせ、演者ごとに採寸し、衣装を誂えていた。
他の衣装を取りに行ったとしても着付けが間に合わないだろう。
「針と糸ならここに……」
針子が裁縫道具を差し出すと、絢麗は冷静に言う。
「スカート部分は荒く縫って。見えないよう念の為、下袴も同色のものを!
それから……帯を高く合わせて、胴の裂けた部分を隠して!」
その場にいる誰もが固唾を飲んで成り行きを見守っている。
蒼瑛は、翠蓮の正面から様子を確認する。
がっくりと肩を落とし、力なく頭を垂れている。まるで糸が切れた操り人形だ。
琵琶の演奏は最後の盛り上がりを見せ、拍手がこちらまで聞こえてくる。
「もう出番が……」
進行係は蒼瑛と香蘭を代わる代わる見やる。
予断を許さない空気の中、蒼瑛は重々しく口を開く。
「舞台は中止だ。責任は私がとる」
「蒼瑛さま!それでは……」
「わかっている」
香蘭の言葉を手で制する。これが大事な政治的駆け引きを含む饗宴の場だということは、蒼瑛も理解していた。
中止ともなれば、あらゆる方面から追及は免れない。
蒼瑛は翠蓮から目を離し、炎辰の影を恐れ、何も策を講じなかった自分を悔いた。
舞台に向かおうとする蒼瑛の足を、絢麗が両手を大きく広げて阻む。
驚く蒼瑛を横目に、絢麗は振り返り、翠蓮の肩を掴んだ。
「翠蓮! この程度で歌えなくなるようなら、私は貴方を軽蔑するわ」
その言葉に、翠蓮ははっと顔を上げた。
翡翠の瞳には動揺の色が見えるが、閉ざされてはいなかった。
「もう本当に時間が……お急ぎください!」
進行係に急かされ、二人は舞台に向かっていく。
蒼瑛はその後ろ姿を見守るしかなかった。
舞台の幕が上がり、二人は手を取り合ったまま、ゆっくりと行礼する。
一際大きな拍手は、陽国の歌姫と呼ばれる絢麗への、期待の高さの表れだろう。
口を開いた歌姫二人の歌声は、しなやかにハーモニーが紡ぐ。
翠蓮の声はわずかに弱く、絢麗が何とか声量でカバーしていた。
翠蓮は、何とか立て直そうともがいていた。絢麗の言う通り、こんな嫌がらせに負けてはいけない。
だが、もがけばもがくほど水の底に沈んでいくようだ。
(声が出ない……息ができない……)
――助けて
そう思った時、握った手の震えが指先から伝わってきた。
絢麗が震えている――
どうして気づかなかったのだろう。
絢麗とて、楽府に入府してから初めて舞台だったというのに。
(私は自分のことばかりで……
助けてもらうんじゃなく、自分の足で立たないと)
そう決意すると気持ちが軽くなり、声に艶と伸びが戻ってきた。
呼応するように絢麗の声も美しく合わさる。
まるで最初から二人で一つであったかのような美しいハーモニーは、観客の心に深く響き、魅了する。
圧巻だった。
歌唱が終わると、二人は額にうっすらと汗をかき、頬は上気していた。互いにしっかりと視線を合わせると、晴れやかに微笑んだ。
灯が温かく二人を照らし、観客の拍手はとどまることを知らなかった。
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