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1巻

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 目の前にそびえる建物を見上げる。高級そうな高層マンション……帰るなら今しかないよなって思った。時間は午後十一時になるところ、よかったまだ今日だ。
 どうする? どうする私!! このまま男性の家に上がるってどういう意味なのか、わかっているのか私。でも結局、新しいメイク道具買ってないし、返してもらえるなら返して欲しいよな……
 袴田君、めぐちゃんの話とちょっと一緒にいて話した感じでは、いい人っぽいけど……
 エントランスに行くまでの植栽すごくて、わさわさえちゃってる、なんのため? とりあえず花壇のふちにちょっと腰下ろす。袴田君はジャケットのそでに腕を通しながら首を傾げた。

「どこか具合でも悪いんですか」
「ああ……っと違くて」
「どうしました?」

 なんていうか、私はこういう場面って経験ないから、すべて書物の知識なんですけど……でも曖昧あいまいが一番よくないから!
 心配そうに顔をのぞき込んでくる袴田君に、できるだけ真剣な顔で言った。

「仕事もプライベートも時短じたん推奨のため、単刀直入たんとうちょくにゅうに言わせてもらいますと!」
「はい」
「袴田君は私に下心がありますか!!」
「え」
「だって、私がすすすす好きなんですよね? 今家に行ったら押し倒されたりするんでしょうか! 私にはそんな気ないんですが、世にあるTL漫画等では、のこのこ男の部屋に入ったが最後、組み敷かれ抵抗すると『はぁ? お前男が一人で暮らしてる家に入ってきといて、いまさらそれはねーんじゃねーの? お前だってこうされたいんだろ? ほら顔真っ赤だよ? ん? 欲しいんだろ? おねだりしてみろよ』って言われるんですね! 私は本当にポーチを返して欲しいだけなのですが、袴田君はくだんの『はぁ? お前男が一人で暮らしてる家』男子なのでしょうか! もしそうだとしても、私は男の人に性欲があるのは当たり前だと思いますし、男の人が性欲ないと人間が絶滅してしまうので、性欲があるのはいいことだと思います! なのでその場合、私は袴田君の性欲がおさまるまで、ここで大人しくポーチ待っていてもよろしいでしょうか!!」

 めっちゃ早口で言ったら、袴田君は口開けながら聞いてたけど、後半は笑っていた。

「ふふふ、いいよ。尾台さん素直でいいですね、何回性欲って言うの。大丈夫です。下心は理性総動員で抑えるので、お茶でも飲みませんか」
「飲みません! 私の読むTL漫画ではそのような時のお茶には大体媚薬びやくが含まれています! 飲んで数分すると眩暈めまいがして『あれれ~? どうしたの? ああ……お薬効いてきちゃった?』って押し倒されます!」
「尾台さん急にへきが出すぎだから。普段どんな漫画読んでるんですか、純愛系にしましょうよ」

 ね? 行きましょう? って袴田君は手を握ってきた。「ほらこれアカンやつやないの!? 男は狼なんやで!」と心の中で謎の大阪おおさかのおかんが言ってくる(東京都とうきょうと出身)。
 でも大きな手でガッチリ握られて、迷いのない袴田君の真っ直ぐな足取りに、そのまま連れていかれてしまった。

「何もしないって約束してくださいね」
「しますします」
「絶対ですよ!」
「ですです」

 一つ目のセキュリティーを抜けると、大理石のエントランスにはあざやかで見事な花が置かれてた。こんな時間でもコンシェルジュいて、その横を通過するにはまたセキュリティーカードが必要で……
 これ軽い要塞ようさいじゃないですか! 一度入ったら逃げられないぞ絵夢!! やっぱすっごい緊張してきた!
 不安で手引っ張ったら、袴田君顔かたむけてきて笑顔。あれこの人こんなイケメンだったっけ。ってべつにお金持ってそう! とか思ってないですよ!!
 家の中に案内された。お靴ちゃんとそろえる。

「あれ、綺麗」

 あの朝はカーテンが閉まってて電気もついてなくて、散らかってるってイメージだったんだけど、通された部屋は片づいていた。リビングだから?

「寝室も綺麗ですよ、ほら」

 袴田君は隣の部屋のドア開けた。うっひょ!! そこ、こないだ起きたベッド!! あ、でも綺麗。

「片づけたんですか」

 聞いてみたら、袴田君はちょっとムッとした顔になった。

「そうですよ、っていうか、あの日荒らされたんですよ」
「え」
「尾台さんが家に着くなり『総務ってこんないいとこ住んでんのぉお!! キィェェエエーー!!』」
「ひぃい……!!」
「嘘です、いろいろあってって感じです。まあ気にしないでください、何も壊されてませんから」
「いや、そういうわけには」

 でも怖くてその日のこと聞けない、死にたい。

「ささ、座ってください」
「土下座でいいですか」
「それじゃお茶飲めないでしょう」

 肩押されて腰下ろす。袴田君はキッチンに向かった。
 グルッとお部屋見てみる。おしゃれな間接照明あるし可愛い形のディフューザーあるし、植物あるし壁には写真がいっぱい飾ってある。ブラックライトの水槽に……あ、なんか音楽かかり出した!

「何ここ、ラブホみたい!」

 思わず言ったらポットに火かけてた袴田君が眼鏡めがねキラッてさせた。

「褒めてますよね?」
「はい、そのくらい素敵って意味です」
「ラブしてしまうくらいムードがあって素敵?」
「ラブ? ムード……? ああムード…………」

 ヤッベ! なんでラブホとか言ってしもたんやろか! 混乱してたら袴田君たたみかけてくる。

「尾台さんはラブホにはよく行かれるんですか」
「え? あ、はい! ふ、ふふふ二日に一回は」
「じゃあ明日行くんですか? へぇ昨日は誰と行ったんですか? え、もしかして今日今から」
「嘘です行ったことないです」
「お疲れ様です」
「お疲れ様です」

 袴田君はカップにお湯をそそぐと、茶葉の入った筒と一緒にトレイに載せてこっちに運んできた。それでその筒を渡してくれる。

「高そうですね、釘が打てそうな缶!」
「王室御用達ごようたしの紅茶みたいですよ。いただきものですけどね。尾台さん、コーヒーより紅茶派ですよね? デスクにティーバッグ置いてあるし」
「はい紅茶派です。コーヒーってあと引くじゃないですか。スッキリするけど、どんどん飲みたくなるストレスが半端なくて、やめました」
「へえ。ストレスを緩和するコーヒーにストレスを感じるんですね」

 高そうな茶筒を眺めてたら、袴田君は「もしよかったら持って帰ってください」って言ってくる。
 マジで? ほしーけど、私そんな物欲しげな目で見てたかな!
 カップを手に取ると、銭湯みたいな富士山のタイル絵が描かれていた。袴田君の趣味? 高級な紅茶にミスマッチなカップだけど、可愛いからいいか。
 カップを口まで持ってくると、湯気から高級そうな香りしてる!! あ! でもそうだ。

「忘れてた。袴田君一口飲んで」
「毒見ですか? いいですけど間接キスになるし、もし媚薬びやくが入っていたとしたら、俺とんでもないことになりますよ」
「ひょわ!」
「ふふふ毒なんて入ってないですから、普通に飲んで? 俺も同じの飲みますし、ほら」

 ってカップをカツンってされたあと、袴田君は先に紅茶に口をつける。のど動くところまで確認して聞いてみた。

「美味しいですか?」
「うぉぉぉおおおおおお!!」
「えええええええ!!」

 突然、胸掴んでうめき出した。ななななな何!?
 と思ったら、真顔に戻って眼鏡めがね直してる。

「嘘です」
「もう帰っていいですか」
「ダメです。はい尾台さん、まずこれポーチです。どうぞ」

 いつの間にか袴田君の手には私のポーチ。どっから出したんだ。

「ああ……はい、ありがとうございます」

 なんなんだよ袴田君、どういう性格なんだよ袴田君。でも悔しいことにそんなので緊張が解けて、紅茶を一口飲んだ。
 ふぁぁ……いい香り。やっぱり美味しくてほっとしてたら、袴田君は私見て安心したように口端を緩ませた。

「それで……」

 袴田君は紅茶を飲みながら言う。

「はい?」
「それでラブホ云々は、〝私ビッチなのよ作戦〟ですか」
「してませんけど」
「なんだ、てっきり俺からのプロポーズ断りたくて、ビッチを演じてるのかと思いました。『あんなふうに男と寝るのなんて、鼻毛抜くくらい私には日常にちじょう茶飯事さはんじなのよ』みたいな」
「鼻毛はる派です」
「俺ワックス派です」
「痛くないんですか」
「最初はビビリましたけど、慣れると快感です」
「へぇやろうかな」
「ネットで買えますよ。へぇ尾台さん話らすの上手ですね」
「え? らしてましたか、鼻毛の話振ってきたの袴田君でしょ」
「そっか、じゃあ本題に戻しますね」
「戻さなくていいですけどね」

 紅茶飲みながらカップ越しにちょっとにらんでみたら、袴田君はまさかの真剣な顔で。

「尾台さん、好きです」

 まったく、一切の動きを許されずに私の体は固まってしまって。

「あ、ちょっと尾台さん紅茶ブクブクしちゃってますよ、カップ下げて」
「すみません」

 カップを取られてテーブルに置かれてしまったので、手持ち無沙汰で髪結わく。そしたら袴田君がじっと見てきた。

「あれ、お仕事モードですか」

 確かに、仕事する時はいつも髪結んでる。よく知ってんな……

「そういうわけじゃないんですが。のこのこやって来た手前言いにくいんですけど、袴田君と話すこともないし、気まずいなと思ってます」
「そうですか、じゃあそんな気合いの入ったお仕事モードの尾台さんに、一発ポンと」

 袴田君、紙出してきて言う。

「署名捺印なついんお願いします」
「これ婚姻届なんですけど」
「ええぇえ!? これ婚姻届なんですか知らなかった! 初めて見た!!」

 言いながらすっごいのぞき込んでるけど、夫になる人の欄記入済みだし。何この茶番。

「袴田君って周りからの評価を聞くとすごく信頼されてるし、仕事もできる人だし、その上草食男子みたいになってるんですけど、実は変な人なんですか。これはあおってるのではなく、本気で心配してるんです。突然女性に婚姻届突きつけるって、されてるほうは恐怖ですよ」
「恋の病にかかってしまったもので」
眼鏡めがねキラッてさせてますけど、ますますおかしい人です。どうしてこんなの持ってるんですか、しかも袴田君の名前書いてあるんですけど」
「はい、今すぐにでも俺は籍を入れたいので」

 両手に持って見せてくるんだけど、え? なんで? っていう疑問しか浮かばないんですが。
 ずいっと迫られる。これはその、押し倒されてはいないけど、違った危険を……!!

「ちょっとあの、袴田君はなんで私と結婚したいんですか」
「尾台さんが好きだからです」
「でも私たちって接点なかったじゃないですか」
「何言ってるんですか。俺たちはもう接点どころじゃないでしょう?」

 ワンナイトラブかと思いきや、袴田君思ったより本気なんだけど……でもこのまま結婚っておかしいもんな。
 ちょうどいい! 髪も結わいてるし自分の酒癖の悪さもわかったし、ここはひと思いに土下座しよう!
 そうだよね、むしろはじめからそうするべきだったのに、逃げていたんだ。ありがとう袴田君、目をらしていた現実に向き合うことができました!!

「尾台さん?」

 袴田君心配そうにこっち見てくる。
 私は今から袴田君に三つ指ついて頭を下げるのです。深呼吸して頷いた。

「まずは、ありがとうございます。飲み会で、袴田君が私を助けてくれて、ずっと傍にいてくれてたって今日聞きました。そして一緒に寝てたってことは、そのあとも袴田君は私に付き添って介抱してくれたってことですよね。それなのに何も言わずに帰ってごめんなさい。言い訳はしません、みっともない限りです。本当にご迷惑をおかけしました」
「はい」

 静かな返事に私は顔を上げる。眼鏡めがねの下で灰色の瞳が真剣に私を見ていた。ちょっとひるんだけれど、気を引き締めて続ける。

「嘘をついても仕方ないのでハッキリ言います。私たちは男女の関係にあるのかもしれませんが、私にはあの日の記憶がありません」
「はい」
「だから」
「はい」
「だから……あの日をきっかけに袴田君が私を好きになって結婚したいと言っているなら、私はそれに誠実な気持ちでお答えすることができません。すごく身勝手だし、女として最悪なんですけど、でもそんな気持ちで結こ……んんんん……っ」

 上手に言えたと思ったのに、待って! なんだ!!
 袴田君が私の口をふさいでいる、よりにもよって口で!!!!

「キスした記憶もありませんか?」
「あ、なっ……に、ないですよぉ」
「じゃあこれが尾台さんのファーストキスですか?」

 ちょっと離れて聞いてきて、また唇重ねてくる。

「んん!」
「じゃあ今日は俺のキス、覚えて帰ってください」
「あッ、や」

 体抱き寄せられて骨キシキシいってる怖い! 近い!! 婚姻届グシャってなってる!
 でもなんでか落ち着く匂いする。香水? 柔軟剤? 嗅ぎ慣れた匂い。
 思わずくんくんしてたら、袴田君耳元でささやいてくる。

「どんな答えでも俺は尾台さんが好きなんですけど、その答えはさらに好感度大です」
「え? え? 何? 私お断りしてるんですけど!?」
「はい。『今のままじゃ私は真剣になれないから、もっと本気でぶつかってこいよ袴田!』ってことですよね?」
「は?」
「酔ってても記憶に残る男になれよ袴田! お前の気持ちはその程度か袴田! 私の初めての男にな……」
「言ってないよ袴田!!!」

 袴田君ぎゅってしてちゅっちゅしてきて、ヤダヤダヤーダヤダ!!!

「袴田君離して!!」
「ああ、そういえば」

 両手取られて引っ張られて、私の手握ったまま、袴田君後ろに倒れちゃった。私が押し倒してるみたいになってるんだけど。

「好きな人に押し倒されるって最高ですね!」
「何がしたいんですか、私がしたんじゃないでしょ」
「言っていいですよ、尾台さんが愛読されてる漫画のヒーローのセリフ」
「え?」
「『ここまで来てそれはねーだろ? こっちはヤりたくて前世からムラムラしてんだよ。ほら言ってみろよ、ご主人様の舌がほしーですって』はい、せーの」
「言わないから! 前世からってムラムラしすぎでしょ、早く起き上がってくださいよ」

 しかも何? 何その漫画ぁ! すっごい気になります!!

「わかりました」

 で、袴田君起き上がって座ったら、向き合ったまま抱っこされちゃってるんですけど、なんだこれ。

「大好きな尾台さんがこんな近くにいる、幸せ」
「そうですか、私はあの……近すぎてもうどうしていいかわからないんですが」
「尾台さんは俺を好きになれませんか」
「袴田君を…………好きに……?」

 至近距離で急に真剣に言われた。腕から袴田君の熱が伝わってくる。

「そうですよ、既成事実さえあればどーにか丸め込めるかなと思ったんですけど、結構抵抗してくるなっていうのが、正直な感想です」
「それ本人に言うんですね。あの……私、恥ずかしながらああいったのが初めての経験だったので、対処が分からず、なかったことにしようと必死なんです。袴田君とも仲良くなかったし、一夜のあやまちにしたかったのに、しつこく迫られて正直引いてます」
「愛してます! 尾台さん」
「だから引いてます。でも袴田君……悪い人ではないみたいだし」
「好きになれそうですか」

 私を支える大きな手に力が入った。灰色の目が少しキラキラしているように見えて、そっかこれが恋する瞳? と他人ひとごとのように思いながら答える。

「やぶさかでない」
「それは、本来の喜んでするって意味ですか。それとも昨今使われてるような、曖昧あいまいで後ろ向きな表現ですか」
「うーん……袴田君は私と結婚したいって言ってくれましたけど、私は結婚ってすんごく好きな人と四六時中一緒にいたいからするのかなって思ってるんですよ。でも現状、袴田君にそんな感情湧いてないですし、過去に男性とお付き合いしたことがないので、私にはそんな気持ちわかりません。未だに結婚に対しての願望もないんですよね。それに、お酒の勢いで男性と寝てしまうような女に好意を寄せる袴田君が心配です。実を言うと袴田君、草食男子って言われてたのに中身全然違うし正体不明すぎて、私をだまそうとしているのではと勘繰かんぐってます。だからこんな私が袴田君と恋愛なんて無理なんじゃないかなぁと思います。そしてそんな曖昧あいまいな気持ちで頷いても袴田君の時間を無駄にするだけだし、失礼にも程があるので、やっぱり断ってもい……って寝てる!!!」
「あ、グダグダしたウザいの終わりましたか」

 めぐちゃん…………この人全然話聞いてくれませんやん…………
 袴田君は私の髪を一つに束ねていた茶色いゴムを外すと、センターで分かれた髪をゆっくりいてくれた。
 あ、頭撫でられてる……温かいナニコレ温かい……。袴田君はそのまま優しい声で話し出す。

「一つ訂正しておくと、一晩寝たから好きになったわけじゃないですよ。言ったでしょう? 既成事実作ればこっちのものだと思ったって。俺はもっと前から、尾台さんを見てましたよ」
「そ、そーなんですか?」

 え、何、袴田君ずっと私が好きだったってこと? よくわかんないけど急に目合わせんの恥ずかしくなってきた。
 ちょっと顔下げたらあご持たれて、袴田君と目を合わさせられる。

「顔赤くしてどうしました?」
「知りません! 赤くありません!」
「少しは俺を意識しようって思いました?」
「意識? 意識って? そういう切り替えがあるんですか?」

 聞いたら袴田君はにこってしながら長い人差し指で私の胸の真ん中をトンっと突いてきた。

「俺を見て、ここがちょっとおかしくなってたら意識してますよ」
「ヒッ!」

 お、お、おかしくなってる! おかしくなってるけど、それは袴田君が触るからなんじゃないの!?
 言い当てられて恐ろしすぎて、指両手で握って離そうとするんだけど、無理! な ん て 力!
 それでいきなりふっと指が離れたと思ったら、胸に抱き寄せられてしまった。
 袴田君、小さく笑って言う。

「いいですね~このピュアな子を育てる感じー」
「育てなくていいんですけど!」
「尾台さん!」
「な、なんですか」
「週明け提出のアクションプランはもう立てましたか」

 アクションプランっていうのは、今期の目標を自分で立てて会社に提出するものなんだけど、なぜ今、それを!?

「い、いえまだ……」
「では来期の目標は、寿退社でいきましょうか!」
「いかないですよ! 貯金はいくらあってもいいんだから働きますよ、退社はしません!」
「じゃあ目指せ産休!!」
「あ、あ、あ、ちょっと袴田君!」

 何一人で決めてんの!? って上向いたら、袴田君がコツンと額をつけてきて言った。

「もう一回キスしてもいいですか? 少し袴田君本気のやつ」
「ほ、本気!? 本気って何!?」

 至近距離で舌なめずりされる。あ、やだやっぱそういう意味!? 舌入っちゃうってこと!?
 胸押し返すけど抱き締められてる男の人の腕の感触に力入らなくて……

「お、お、お……!!」
「ん? なんですか」
「お付き合いしていない人とこういうのは、いけないっておばあちゃんが!」
「あら」

 顔をかたむけられて今にも触れそうだった唇が少し離れた。

「おばあちゃんが言ってたんですか」

 袴田君冷静な顔で見つめてくるから、ちょびっと目伏せる。

「むしろ先祖代々尾台家に伝わるいにしえの壺的な巻物的な」
「それはすごいですね」
「だからここでストップ……」

 ぎゅってスーツ握ったら袴田君の力が抜けて、ちょっと安心する。眼鏡めがねを直してから、袴田君は灰色の目を向けてきた。

「いいですけど、一つ気になってること言いますね。尾台さんって職場でも友人に対しても何か一枚壁を作って接しているように見えます」
「え」
「これ以上は来ないでって壁、今ここにありますよね」

 壁に触るみたいに目の前に手のひら見せられるけど、そんなの知らないし。

「急になんですか」
「尾台さんは笑顔も素敵です、物腰も柔らかいです。仕事とプライベートをキッチリ分けてるのもいいと思います。でもそんな状態で、俺とに限らずこの先恋愛ってできるんですか。素顔の尾台さんがまったく見えてこないんですが」
「そんな……の、知りませんよ。私は私らしく、生きてるだけです。他人と一線くらい引くでしょう、社会人なんだから」
「でもこのままじゃ尾台さん、一人ぼっちですよ」
「あ……っとそれは」

 目らしたら、また体ぎゅってされた。距離近いまんまですごくいやだ。

「ね? 俺はこんなに近くにいるのに、尾台さんの心って別の場所に住んでるおばあちゃんのところにいるんですよね。俺は本心で好きだって言ってますよ。信用できない? 信じられるまで好きだって言いましょうか、いいですよ明日会社休んで言い続けても」
「そんなのはダメです」

 眼鏡めがねの奥の真剣な瞳に射貫いぬかれて、息が止まりそうだった。
 袴田君の言うとおりだ、私は自分で壁を作ってる。
 寂しいと思う時もある。でもそれ以上に私にとって壁は大切。私が傷つかないでいられるのは、その壁のおかげなんだ。

ねちゃうと口とがらせちゃうんですか。尾台さんのそういう顔もすごく好きです」

 下唇をなぞられる。なんかバカにされてるみたいでムッときてワイシャツの胸のとこ掴んだ。私のことなんて何も知らないくせに。
 無性にイライラして……こんなの言ったって意味ないのに、勝手に口が……

「いけないことですか」
「はい?」
防波堤ぼうはていを築くのはいけないことじゃないでしょう? 誰かと仲良くなって、上辺だけじゃないその人の本当の中身を知って、傷つかない保証ってありますか。いいんです、私は忘れられてしまう程度の、〝いい人だった〟くらいの人間でいいんです。相手も〝いい人〟であって欲しいんです。手を繋げるような近い距離感なんて、私にはいらない」


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