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第5章 触手
第19話~リトライ~
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「はぁっ、はぁっ、はぁっ。……んぐっ、――はぁっーーー!」
電車から一番に飛び降りて、そのままオフィスまでの道のりを慌てて走る。半乾きの髪を振り乱し、左手にした腕時計を見ては走るスピードを上げていった。
二十代の時ならまだしも三十代後半になってからの全力疾走は思っていた以上に辛く、そして思ってた以上に遅い。あっという間に上がり切った顎、口から吸っては吐く呼吸のせいで喉がヒリヒリしている。
(こ、これじゃあ、早歩きと変わんない!)
そうは思っても、腕時計を見ると走らずにはいられなかった。
酸欠状態に陥りながらも、ブランドンの「体を動かさないとすぐになまる」と言った言葉が、叶子を戒めるように頭の中で連呼する。
(そうは言っても毎日残業で帰りが遅いし、朝は低血圧だから早く起きるのは苦手だし)
そこに居るわけも無い相手に向かって、何故か言い訳を始めていた。
「お、おはようございますっ!」
飛び込むように入ったオフィスにはまだ何人か席に座っていて、どうやら会議はまだ始まっていないのだと確信する。ホッと一息つくと、それを見た同僚たちにからかわれてしまった。
「お? カナちゃんセーフ!」
「くー! カナちゃん間に合ったかー!」
「よし、健人はアウトだな」
「はぁ、はぁっ……へっ?」
息を整える間もなく残っていた者も席を立つと、一緒に会議室へと向かった。大勢が会議室に入っていく流れに乗り、叶子も室内に入ろうとしたその時、
「おはようーっす」
背後から、と言うか頭上から低い声が聞こえた。
「お、おはよう」
「あっ、くそ! 何だよ、健人もセーフか!」
「へへ、毎度ありー」
「チッ」と言う舌打ちが聞こえると同時に、手にしていた千円札を周りの同僚たちが奪っていった。
「残念ながら喫煙室に行ってただけっすよ。いい加減そんな賭け事やってると、ボスに怒鳴られますよ?」
一斉に人が入ろうとしてるもんだから、否応無しに会議室の入り口で団子状態になる。肩の辺りに時折健人の胸板が当たり、健人が声を出す度にかすかに響いてタバコの匂いがふわっと香った。
昨日の晩から今朝まで色んな事があったせいで今の今まで忘れていたが、昨日、道端で健人にキスされた事を思い出す。不意に健人の香りが強くなったなと思った途端、身体を折るようにして叶子の顔をのぞきこんだ。
「あれ? 服、昨日と違うじゃん。てっきり同じ服着てくると思ったのに。あ、もしかしてフラれた?」
「いちいちうるさい」
誰にも聞かれないようにと、叶子の耳元でそっと囁く。相手にするのも馬鹿らしいと言った口調で健人を退けるが当の本人は違った意味で受け止めたのか、しつこく食らいついてきた。
「え? ……ちょっ! まじで!?」
本当のところはどうなのかを詳しく聞きたいのか、ボスの横の席に座ろうとしている叶子の後ろをいつまでもついてくる。そんな健人に気付いた同僚が、バンバンと自分の隣の椅子を叩いて大声で健人を呼んだ。
「おい、健人! お前どこ行く気だよ。お前はここ! そっちに座るには、あと何十年先かねぇ?」
「……」
言ってやったとばかりにガハハと笑う同僚の横に健人が立つと、パンっと軽く頭を叩き不満気に椅子に腰を沈めた。
テーブルに肘を付き手の上に顎を置いて叶子の方をじっと見つめている。その視線は、そっちを向かなくてもわかるほど真っ直ぐ叶子に注がれていた。
◇◆◇
「ふわぁー……、っふぅ」
箸を持つ手で自然と出てしまうあくびを隠しても、こうも次から次へと出てきてはキリが無い。朝イチの会議になんとか間に合ったものの睡眠不足で頭がボーっとしていて、何を話し合っていたのか今一思い出せなかった。
「……後で議事録見よ」
ボソッと呟き、温かい味噌汁をすすった。
昨日定時に退社したせいで、デスクの上は書類の山になっている。それらを捌くだけで午前中があっという間に終わりを告げ、少し遅めのランチとなってしまった。
煮物が絶品の昔ながらのこの定食屋さんは今日みたいにランチが遅くなった時のお決まりの店で、隅にある小さなテレビが時折画像が乱れるのも味がある。店主の好みなのか普段は見ることはないお昼のワイドショーが映し出されていて、連続であくびをしながらその画面をボーっと見つめていた。
(――?)
見覚えのある名前が画面の右上に表示されているのに気付く。
(JASON、って)
ジャックの担当しているアーティストだ。バックに流れている曲を耳を澄まして聴いてみると、彼と良く似た澄んだ歌声が聴こえて確信した。画面に映っているレポーターらしき人が何故か慌てている様に見えたので、何事かと箸を止め身を乗り出すようにして画面に食い入った。
「昨年からワールドツアーを行っている人気アーティストのJASONさんですが、先ほど東京にある宿泊先のホテルをチェックアウトする際、突然倒れたといった情報が舞い込んできました。依然、詳しいことは不明ですが、今日、日本を経つ予定だったのが急遽延期する事になりそうです。詳しいことがわかり次第、―― ―― ――」
(え?)
手首の時計を見ると、彼のフライトの時間が迫ってきている。
不謹慎ではあるがJASONが倒れたのならもしかしてジャックもまだ日本にいるのかもしれないと、急いでバッグの中から携帯電話を取り出し食べていた定食をそのままにして暖簾をくぐって外に出た。
今朝の別れ方に到底納得出来ない叶子は倒れた歌手を不憫に思いつつも、もう一度与えられたチャンスを逃したくないと藁にも縋る思いで彼の番号を探した。
電車から一番に飛び降りて、そのままオフィスまでの道のりを慌てて走る。半乾きの髪を振り乱し、左手にした腕時計を見ては走るスピードを上げていった。
二十代の時ならまだしも三十代後半になってからの全力疾走は思っていた以上に辛く、そして思ってた以上に遅い。あっという間に上がり切った顎、口から吸っては吐く呼吸のせいで喉がヒリヒリしている。
(こ、これじゃあ、早歩きと変わんない!)
そうは思っても、腕時計を見ると走らずにはいられなかった。
酸欠状態に陥りながらも、ブランドンの「体を動かさないとすぐになまる」と言った言葉が、叶子を戒めるように頭の中で連呼する。
(そうは言っても毎日残業で帰りが遅いし、朝は低血圧だから早く起きるのは苦手だし)
そこに居るわけも無い相手に向かって、何故か言い訳を始めていた。
「お、おはようございますっ!」
飛び込むように入ったオフィスにはまだ何人か席に座っていて、どうやら会議はまだ始まっていないのだと確信する。ホッと一息つくと、それを見た同僚たちにからかわれてしまった。
「お? カナちゃんセーフ!」
「くー! カナちゃん間に合ったかー!」
「よし、健人はアウトだな」
「はぁ、はぁっ……へっ?」
息を整える間もなく残っていた者も席を立つと、一緒に会議室へと向かった。大勢が会議室に入っていく流れに乗り、叶子も室内に入ろうとしたその時、
「おはようーっす」
背後から、と言うか頭上から低い声が聞こえた。
「お、おはよう」
「あっ、くそ! 何だよ、健人もセーフか!」
「へへ、毎度ありー」
「チッ」と言う舌打ちが聞こえると同時に、手にしていた千円札を周りの同僚たちが奪っていった。
「残念ながら喫煙室に行ってただけっすよ。いい加減そんな賭け事やってると、ボスに怒鳴られますよ?」
一斉に人が入ろうとしてるもんだから、否応無しに会議室の入り口で団子状態になる。肩の辺りに時折健人の胸板が当たり、健人が声を出す度にかすかに響いてタバコの匂いがふわっと香った。
昨日の晩から今朝まで色んな事があったせいで今の今まで忘れていたが、昨日、道端で健人にキスされた事を思い出す。不意に健人の香りが強くなったなと思った途端、身体を折るようにして叶子の顔をのぞきこんだ。
「あれ? 服、昨日と違うじゃん。てっきり同じ服着てくると思ったのに。あ、もしかしてフラれた?」
「いちいちうるさい」
誰にも聞かれないようにと、叶子の耳元でそっと囁く。相手にするのも馬鹿らしいと言った口調で健人を退けるが当の本人は違った意味で受け止めたのか、しつこく食らいついてきた。
「え? ……ちょっ! まじで!?」
本当のところはどうなのかを詳しく聞きたいのか、ボスの横の席に座ろうとしている叶子の後ろをいつまでもついてくる。そんな健人に気付いた同僚が、バンバンと自分の隣の椅子を叩いて大声で健人を呼んだ。
「おい、健人! お前どこ行く気だよ。お前はここ! そっちに座るには、あと何十年先かねぇ?」
「……」
言ってやったとばかりにガハハと笑う同僚の横に健人が立つと、パンっと軽く頭を叩き不満気に椅子に腰を沈めた。
テーブルに肘を付き手の上に顎を置いて叶子の方をじっと見つめている。その視線は、そっちを向かなくてもわかるほど真っ直ぐ叶子に注がれていた。
◇◆◇
「ふわぁー……、っふぅ」
箸を持つ手で自然と出てしまうあくびを隠しても、こうも次から次へと出てきてはキリが無い。朝イチの会議になんとか間に合ったものの睡眠不足で頭がボーっとしていて、何を話し合っていたのか今一思い出せなかった。
「……後で議事録見よ」
ボソッと呟き、温かい味噌汁をすすった。
昨日定時に退社したせいで、デスクの上は書類の山になっている。それらを捌くだけで午前中があっという間に終わりを告げ、少し遅めのランチとなってしまった。
煮物が絶品の昔ながらのこの定食屋さんは今日みたいにランチが遅くなった時のお決まりの店で、隅にある小さなテレビが時折画像が乱れるのも味がある。店主の好みなのか普段は見ることはないお昼のワイドショーが映し出されていて、連続であくびをしながらその画面をボーっと見つめていた。
(――?)
見覚えのある名前が画面の右上に表示されているのに気付く。
(JASON、って)
ジャックの担当しているアーティストだ。バックに流れている曲を耳を澄まして聴いてみると、彼と良く似た澄んだ歌声が聴こえて確信した。画面に映っているレポーターらしき人が何故か慌てている様に見えたので、何事かと箸を止め身を乗り出すようにして画面に食い入った。
「昨年からワールドツアーを行っている人気アーティストのJASONさんですが、先ほど東京にある宿泊先のホテルをチェックアウトする際、突然倒れたといった情報が舞い込んできました。依然、詳しいことは不明ですが、今日、日本を経つ予定だったのが急遽延期する事になりそうです。詳しいことがわかり次第、―― ―― ――」
(え?)
手首の時計を見ると、彼のフライトの時間が迫ってきている。
不謹慎ではあるがJASONが倒れたのならもしかしてジャックもまだ日本にいるのかもしれないと、急いでバッグの中から携帯電話を取り出し食べていた定食をそのままにして暖簾をくぐって外に出た。
今朝の別れ方に到底納得出来ない叶子は倒れた歌手を不憫に思いつつも、もう一度与えられたチャンスを逃したくないと藁にも縋る思いで彼の番号を探した。
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