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溶けるほどあつい
九話 卒業式とピアス
眩い陽射しが雪を溶かし、あたたかな風が吹き荒ぶ。最近めっきり春めいてきた、三月──気温はどんどん上昇しているが、桜はまだ咲きそうにない。
午後の小休止に入った現場の片隅で、哲は今朝から皆が組み上げた足場を見上げて自作のチェックリストに線を引いていた。この強風で少し心配だったが、問題はなさそうだ。
「この分だと明日の午後には上がりそうで良かったですね」
ヘルメットを脱ぎ、首に巻いたタオルで濡れた髪を拭く宮川は人一倍汗っかきで。もうそんな時期かと改めて春を実感する。
「助かるよ」
「それにしても学ちゃんももう高校生かあ、早いもんですねえ」
そうだな、と返し、また足場に視線を戻す。
明日は学の卒業式だ。そのために有給を取ったが、現場が少し心配ではあった。最近では調査の多くは社長、図面は哲、現場の仕切りは半々で回しているが、この有給のために本来哲の仕切りの現場を社長に渡すこととなり、多少無理をさせてしまう自覚はあった。引き続き繁忙期の今、一日二日の単発現場が多くを占めるこの会社を二人で回すにはやはり無理が出てきていることを実感する。
実を言えば藤野建設で事務所番として燻っている三森を調査や図面の担当として引き取るという話も出てはいたそうなのだが、三森のヒアリング前にイレギュラーで真柴を入れてしまったおかげで一時停滞しているそう。
ミゲルも含めて二人増えたといってもまだどちらも半人前にも満たない。社員の他にフリーも雇い二班に分けて現場を増やす手もあるが、そうなると現状ギリギリで回している資材のレンタルが発生する。何より職長が二人しかいない今、闇雲に現場を増やせばいいという問題でもない。
正直哲と社長のオーバーワークは否めないがこれが限界ラインで、そのために哲は休みを取りづらくなっている。社長は何も気にせず権利なんだから休めと言うが、やはり今回のように卒業式や入学式などの特別な日でなければ難しい。
早く後継を育てるべきなのだが、宮川をどうその気にさせるか。向こう五年このまま我慢したとして、育った真柴にそこまでの熱意があるのか。作業が止まるたびに哲は考え込んでいる。
会社の未来や現状を真剣に考えている中、ミゲルと社長がかわるがわる哲に近付き、首筋をちらっと覗き込んでは走り去る。その様はまるで度胸試しだ。一体何をしているのか、考えるより先に舌打ちが漏れていた。
「おいお前らこっちこい」
哲の乱暴な物言いにわざとらしい悲鳴をあげて逃げてゆく背中にまた舌打ちを投げる。そんな哲を宮川が呆れた顔で見上げた。
「おたくの嫁は獣なんですか?」
「うるさい。嫁じゃねえんだよ」
昨晩つけられた首筋の噛み痕を咄嗟に手で押さえながら、哲はため息を吐いた。
誕生日のあの日から、おおむね順調に日々を過ごしている。毎日夕食を食べさせて家に帰し、たまには押し負けて身体を許す。特に何が変わったわけでもないが、そんな日々にも真柴は幸せそうだ。あの生意気な猛獣が随分と懐いたものだ。そして何故そんな猛獣に絆されたのか、いまだに自分でも分からない。
また無意識に息を吐くと、宮川が思い出したように手を叩く。
「そういえば哲さんが覚悟決めたって。真央様から聞きました」
「いいんだよ共有しなくて」
真央と宮川の間で哲のことはなんでも共有されてしまう。大方真柴のことも逐一宮川から流れているのだろう。もう隠す気力もなくなってしまった。
「嬉しそうでした。やっと哲が冬眠から目覚めたって。あんないい女いないですよ全く」
「忘れたのか。フラれたの俺だぞ」
そうでした、ととぼける顔に軽い平手をかます。楽しそうに笑いながら、宮川はふと首を傾げる。
「でもなんで真柴なんですか?」
それを一番知りたいのは哲だ。
「わかんねえ。土足でズカズカ踏み込んできて、目がまわるくらい振り回されて、気付いたら自分の生活にあいつがいた」
「そんなもんですかね。まあ、仲良くやってください。現場で喧嘩はダメですよ」
偉そうに指を立て、宮川がわざとらしく眉を寄せる。
「あと現場でイチャつくのも禁止」
「する訳ねえだろ」
「軽の荷台でちゅっちゅするのも禁止ね」
その言葉に哲は思わず咽せた。
「ちがっ、あれは……!」
弁解を聞かずに、宮川は楽しそうに去って行った。
数日前に作業を終え荷台に荷物を積んでいたとき、真柴が突然発情したことがあった。抵抗はしたが当然勝てず、ほんの少しだけ付き合ってやっただけだ。数十秒もない。まあそうは言ってもしてしまったことは事実なのだしと肩を落とし、哲はまた深いため息を吐いた。
今回の現場は元々暴風を予想していたから、途中で作業を一時中断してもいいように余裕を持たせていたのだが、思ったよりも順調に進んだ。哲は安堵と共に肩の力を抜き、片付けを進める社長の元へ歩み寄った。
「ノリさん明日はよろしくお願いします。すみません」
自分の不在で負担を被る社長に頭を下げる哲に、社長はいいのいいのと手を振って瞳を細めた。
「頑張ったね、哲。校門前でちゃんと写真撮って送ってね」
頷く哲に微笑み返し、社長は唐突に傍で帰宅準備を進める真柴を呼んだ。
「シバも哲のスーツ姿見たいでしょ。写真欲しいよね?」
「え、めちゃくちゃ欲しいです」
いらないだろ、と思わず胸の内で呟く哲を置いて、社長から聞き捨てならない言葉が飛び出した。
「誕生日プレゼントに貰ったら?」
「いいすね」
誕生日──そういえばいつか聞くのを忘れていた。
「誕生日いつなの?」
「三月十四日ですよ」
その答えに思わず声が漏れる。それは一昨日だ。とっくに過ぎている。
「何だよそれ、言えよ」
「気にしなくていいですよ別に」
照れ臭そうに笑い離れて行く背中を哲は呆然と見送る。確かに自分からは言わないものか。聞いてやればよかった。十四日は普通に現場に出て普通に飯を食わせて普通に帰してしまった。真柴からのアピールも全くなかったから。
いや、遅いことはない。もらってばかりなのだから遅れてもちゃんと祝ってやらないと。そう意気込む哲の肩を抱き、下品な笑みで社長が顔を覗き込む。
「哲は何もらったの」
「ピアス」
「ええ、やっぱやらしいなあシバは。つけてきてよお」
そのニヤケ面に若干の苛立ちを覚えながらも、ブランド名を告げ、仕事中に着けられるものではないと言い捨てた瞬間、社長の顔が引き攣った。
「え、すご」
「あそこの小物、ピアスひとつでも何万とかしますよ?」
驚きながらも興味津々といった様子で近付いてきた宮川の言葉に哲もまた驚いていた。確かに高いものだとは分かっていたが、まさかそんなに高価なものだとは思わなかった。
「よくそんな金ありましたね」
「シバって宵越しの金は持たないタイプなのにね」
「いや、きっと貯めてたんでしょう。哲さんのために」
「俺の誕生日知ったの一週間前だぞ」
突然訪れた不穏に三人の間には短い沈黙が流れる。
「あ、いや、大丈夫だって、いまさらママ活なんかするわけないじゃん!」
その社長の言葉に微塵もなかったはずの可能性がよぎる。金のない真柴が稼げるとしたら、確かにそれしかない。いつも通りだったはずだが、哲の家から帰った後にそんなことをしていたのかと思うと沸々と苛立ちが湧き上がる。
「あいつ」
哲の低い声に、小さく声を上げながら社長が慌てて肩を抱いてくるがもう遅い。
「哲、決まったわけじゃないから」
「そうそう、貯金あったんじゃないですかね」
宵越しの金は持たないんじゃなかったのか。珍しく宮川が慌てているところを見ると、可能性が跳ね上がるばかり。
腕を組み考え込む哲の後ろで二人が何やら必死でフォローしているが、耳にも入らなかった。
自分の中の真柴への好意をきちんと育てることに決めてから、哲はもう一つの覚悟を決めていた。いつか真柴が目を覚まして本来の道に戻るのなら、追い縋らずに潔く身を引こうと。
正直いってこの関係は事故だ。事故じゃなければ哲が再び人を好きになることはなかったのだが、真柴はそうではないだろう。社会に出て出会う年上の先輩がかっこよく見えることはよくあるし、哲も入社した当初は藤野や千田に強い憧れを抱いた。休みの日も二人の後をくっついて歩いたほど。だが哲は健全な若者の憧れで終えることができた。
真柴はその憧れのまま哲と身体を重ねたから、たまたま身体の相性が良かったから、それが恋なのだと錯覚しているのではないか。その疑いは捨てられずにいる。
何より真柴はまだ若くてチャンスはこれから幾らでもある。子供が欲しいのか確認はまだだが、付き合う覚悟を真柴が決めたときにきちんと話し合おうとは思っている。だから真柴が哲のためにママ活をしていようが、そのことについて責める気はない。それよりももっと別のことで哲は苛立っていた。
無理をするくらいなら何もしなくていい。おめでとうと一言言ってくれるだけでそれで十分だ。そう真っ直ぐに伝えることは残酷だろうか。けれどこの先真柴が背伸びをして哲のために何かを犠牲にするのなら、それは止めてやらないといけない。それではどちらも幸せになれない。
真柴を乗せて車を走らせながら、いつ話を切り出すか哲はタイミングを見計らっていた。真柴はなんだか今日は機嫌がいい。窓の外を見ていたと思えば哲を振り返りにこにこしたり、手に触れてきたり。そんな真柴の機嫌を損ねる必要があるのだろうか。
何より一瞬苛立ったものの、その瞬間的な怒りが落ち着いてしまえばせっかく真柴が哲を思って取った行動を咎めることにやはり気が引けた。もちろん本当にママ活でプレゼント代を捻出したのなら止めるべきなのだが、それが真実かはそもそも分からないのだ。
哲がどうするべきか悶々としていると、国道の渋滞に呑まれたところで真柴が口を開いた。
「そういえば今日実家泊まるんでしたっけ」
「ああ、そうそう。明日は学も友達とどっか行くだろうし、今日は四人で前祝いに飯行くんだよ」
だから今日は夕食を食わせてやれないと真柴には昨日伝えていた。
「へえ、お母さんも一緒に行くんですね」
「別れてても学にとっては親だから。その辺は俺が無理言ってる」
母も普段の面会には積極的ではないが、行事や節目は喜んで参加してくれる。その線引きは哲には分からないが、学が嬉しそうだから大目に見ている。
「真柴んとこは三人で会うことなかった?」
真柴の家は生まれてすぐに母子家庭になったと軽くだが聞いていた。この時代珍しいことでもない。
「うちは縁切ってたっぽいんで」
軽く笑いながら、真柴の瞳がすうっと細くなる。
「俺が生まれてすぐ女作ったらしいです。養育費も払わなかったんじゃないですかね。お袋が苦労してる姿ガキの頃からずっと見てたから、会いたいとも思わなかったです。普通はそんなもんですよ」
そういうものか、と思いながら、哲は学のことを思った。
学はどう感じているのだろう。哲は学にも母の愛情をと考えてなるべく関わらせてきた。親の離婚は子供には関係ないからだ。けれど真柴のように、自分を捨てたのだから会いたくもないと考えることはなかっただろうか。
どうして学のママはいないの、と聞かれたことも当然あった。一緒に住んでいないだけ、ママはずっと学のママだと説明したが、それで良かったのかはいまだに分からない。
なんとなく黙り込んだまま、間もなく真柴の家に着く頃になり、哲は意を決してずっとモヤモヤしていたものを吐き出した。
「そういえば誕生日、何が欲しい」
「本当にいらないですって」
「そういうわけにいかないだろ。あんないいもん貰って」
「好きでやってるんで」
そう言って小さく笑いながら、真柴の長い指が耳たぶに触れる。
「何でつけてくれないんですか」
塞がらないようにつけている仕事用の質素なピアスを爪の先で弄られ、カリッと硬い音が鼓膜に響く。それだけで腹の底がなんだか疼いて仕方がない。
「なくしたら嫌だからだよ」
慌てて手を払いのけながら、哲は気恥ずかしさに眉を寄せた。
「明日は、つけてく」
その言葉に嬉しそうに微笑んで、真柴は前に向き直る。やはり今日は機嫌がいいようだ。
「あのさ、真柴」
その機嫌を損ねたくはないが、このままもやもやとして別れたくはない。その一心で心を決める。
「俺はあんま物欲もないし、そんな洒落てもないしさ。だからプレゼントとか無理しなくていいから。おめでとうって言ってくれたらそれでいい」
「迷惑でした?」
「そうじゃなくて」
きちんと言葉にしたいのだが、なかなか上手くはいかない。
「俺のためにママ活とかするなら、それは嬉しくないっていうか」
そのもどかしさごと吐き捨てると、何故か真柴は身を乗り出して口元を綻ばせた。
「妬いてくれたってこと?」
「ちげえよ。ママ活ってあれだろ。好きでもない相手となんかこう、デートとかするんだろ」
「お金もらえたら寝たりもしますよ」
思いもよらぬ言葉に哲は驚いて振り返る。そしていつも通り、息を詰めた。
「嫌ですか?」
あれだけ機嫌が良かった愛くるしい瞳が、また獰猛な暗さを宿して揺れている。慌てて視線を逸らし、哲はハンドルをきつく握り締めた。
「そうやって試すのやめろ。嫌いなんだよ」
「安心してください。ママ活はしてないです」
ママ活は、とはなんだ。そう口を開こうとした瞬間、耳元に吐息が触れて哲は喉を詰まらせる。
「哲さん、誕生日プレゼントですが」
低い声が耳たぶを舐めるように囁く。
「次は哲さんから動いてください。騎乗位でいいです」
思わず声が出そうになって、慌ててブレーキを踏む。気付けば真柴を降ろす場所の近くに辿り着いていた。
「じゃ、おつかれさまでした」
そう言って颯爽と立ち去る真柴を呆然と見送りながら、哲は思わず呟いた。
「キレてんじゃねえか」
せっかく機嫌が良かったのに、やはり上手くいかなかった。
深くシートに沈み、思わず息を吐き出す。いまだに心臓が高鳴って仕方がない。いつまで経っても、互いに好きだと認識し合っても、やはりあの瞳には動揺してしまう。呑み込まれて、身体が熱くなる。ひどく厄介だ。
怠惰感に再び大きく息を吐き、哲は切り替えて自宅へとハンドルを切った。
次の日──哲は自分の準備を早々に終え、バタバタと走り回る学を見守っていた。そんなに慌てて準備をするなら車で送って行くか聞いたが、別の高校に行く友達とは最後の登校だからと断られてしまった。
大人しくぼんやりと見詰めながら、大きくなったなと実感する。それにしても卒業式だというのに随分と攻めた髪色だ。それはなんだと聞いたら、フォックステールという染め方だそう。厳格な親なら卒倒するだろう。
そんなに若い頃から髪を痛めて、女の子は羨ましいものだと考えているうちに、ようやく学は準備を終えたらしい。ベランダで洗濯を干す父親に挨拶をした後こちらに駆け寄ってきた。
「学、ちゃんとティッシュ持ってけよ。お前泣くと鼻水垂れるから」
「ねえ最悪。もう垂れないし」
不機嫌そうに眉を寄せながら、ふと学は哲の耳元に視線を向けた。
「ピアス可愛い、どうしたの?」
「もらった」
「へえ」
興味があるのかないのか、あるのはピアスだけのようだ。しげしげと眺めていると思ったら、突然思い出したように駆け出した。
「行ってきます!」
「行ってらっしゃい。車に気を付けろよ」
はあい、と元気な声で返し、スカートを翻し学は駆け出していった。
それからすぐに哲も父と共に母を迎えに行って、いつも通りくだらないことで罵り合う元夫婦を後部座席に乗せ学校へ向かう。
少し離れた駐車場に停め学校へ歩き始めても喧嘩は続いているのだから、本当に人生は分からない。こんな二人の間にも二人子供ができたのだから。そう考えればお互いストレートで生きてきたのに好き合ってしまった奇妙な現実も、なんだか不思議にも思えなくなってきた。
中身のない会話を聞きながら、ぼんやりと考える。真柴の機嫌を損ねた理由は正直分かっていない。プライドを傷付けないように努めたし、感謝は伝えたつもりだ。嬉しくなかったわけじゃない。妬かないからなのか、信用してやらなかったからなのか。正直些細なことで機嫌を損ねられて面倒くさいとは思う。
真央が決別の電話で言っていた全てをひっくるめて愛する覚悟とはそういうことなのかと、実感として感じ始めている。そういう意味でも自分がどれだけ真央に甘やかされていたのかをこの短期間でも思い知らされた。今度はそれを自分がやるべきなのだろう。
思わずため息を漏らしながらも、学校が見えてきてから気持ちは自然と切り替わった。
在校生と保護者が広い体育館に詰め込まれ、卒業式が始まる。卒業生の入場と共に、自然と周囲から拍手が起こる。哲もまた周りに倣い手を叩きながら、気恥ずかしそうに入場する生徒一人一人の顔を見詰めた。
あれは一年の頃学と仲が良かった子だ。あの子は同じバスケ部で、自主練をよく一緒にしていた。あの子はバスケ部のキャプテンだった。あの子はいつも哲に写真を撮っていいか律儀に聞いてきた子で、学が変質者に付きまとわれた時はいつも側にいてくれた。
あの男の子はいじめられたからやり返したと学が言っていた子だった。本当は学のことが好きで、けれど学は人の嫌がることをする奴のことは好きになれないと言い切って泣かせてしまった。それっきり浮いた話はないが、学の判断は兄として誇らしかった。
知っている顔を見つけるたび、そうやって学の軌跡をついなぞってしまう。中学生活は楽しかっただろうか。充実していただろうか。たくさんの友人に支えられ、幸せだっただろうか。
一際目立つ頭髪のくせに胸を張って入場した学の姿を見付けた瞬間、耐える間もなく涙が溢れた。拭っている間も惜しくてそのまま真っ直ぐに学を見詰めたままでいたが、さっきまで泣くつもりなんてなかったのに、と自分でも驚いていた。目頭が熱くなることはあっても、涙なんて流したのは何年ぶりか。
ここまで無事に成長してくれた深い安堵と、胸を張って歩ける学校生活を送ってくれた誇らしさ。そして、少しの寂しさが胸を締め上げる。
自分の手柄への感動などでは決してない。ただただ純粋に学の成長を実感した瞬間に耐えていた全てが零れ落ちた。この光景は、きっと一生胸に焼き付いて離れないだろう。そして二度と味わうこともないという、そこはかとない絶望感が哲の胸をずっと締め付けていた。
式も終われば、小学校の時はなかった新しい混乱が哲を待ち受けていた。写真撮影の行列である。しかも学とではない、哲とのものだ。これまでは一応控えていた女子中学生たちがこれが最後だと一斉に押し掛けたらしい。
「一人撮り直しは五回までね」
圧倒される哲を置いて、あまりの人数に学がテキパキと行列を仕切っている。
ツーショットや、単独。好みはそれぞれのようだが、頰を染めた中学生の隣でどうしていいのかも分からないままスマホを向けられ、控えめに腰の辺りでピースを作ると、腕組みをした学が眉を寄せてため息を吐いた。
「おにい、それは古いって。皆の真似してよ」
「うるせえな、できるか」
中学生の間で流行っているポーズなどこの歳で恥ずかしくてできるわけもない。真柴は簡単にやりそうだが──無意識にそんなことを考えている自分に驚きながらも、哲は口では拒否しつつ自我を殺して必死に求められるままのポーズで写真を撮られ続けた。こんな機会ももう二度とないだろうから。何より学のためでもある。
「これだけ綺麗な顔面に産んだのにいつまでも過去の女引きずって結婚もしないし、あんたどんな育て方したのよ。私は若いばあばになりたかったのに」
「哲育てたのはお前だろ。俺だって早く孫抱きたいんだよ」
必死で求めに応じる哲の背後で空気の読めない両親が繰り広げる軽口に、鈍い痛みが胸を叩き続けていた。
そんな長い写真撮影の行列をこなし、卒業式の立て看板の前で家族写真を撮る頃にはくたくたで。けれど笑顔で訳の分からないポーズを取る学を見ていたらまた泣けてしまってどうしようもなかった。
きっと親に孫は見せてやれない。子育ての幸せも学で最後だ。自分の覚悟は決まっている。貞操観念が強すぎて、愛情も重すぎて、何より学を育てることに夢中で、真央くらい達観していなければ付き合うことのできないような人間だという自認の中で半ば諦めていた。妥協するくらいなら、一人で生きていこうと。
そんな時に突然現れたのが真柴だった。どんな手を使っても哲を振り向かせたいと暴れ回り、人の迷惑も人の気持ちも考えず、好き放題するわりにどこか甘くて。翻弄されながら、次第に凝り固まった心を溶かされていた。この先の人生、真柴と歩んで行こうと決めてしまうほどに。
けれどこの幸福を知るチャンスをまだ若い真柴から奪っていいのだろうか。やはり、早めにきちんと話し合うべきなのではないか。学の健やかな成長という幸福の裏側で、ちくちくとした不安と罪悪感が哲の胸を焼いていた。
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