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銀龍の苛立ち
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ルシアン・ヴォルフリートには、理解できないことがあった。
自分自身のことだ。
入学から一週間が経った。授業は滞りなく進み、四龍としての日常に変わりはない。取り巻きが群がり、教師が機嫌を窺い、生徒たちが道を空ける。いつも通りだ。
いつも通りのはずなのに、苛立ちが消えない。
原因は分かっている。
教室の一番前、端っこの席。あの白龍の娘だ。
リーゼロッテ・フォン・ヴァイス。
別に気にしているわけではない。ただ、目に入るのだ。教室の最後列から見下ろすと、あの質素な制服の背中が嫌でも視界に入る。
授業中、誰よりも真剣にノートを取っている。借りた参考書を食い入るように読んでいる。昼休みになれば図書室に消え、放課後は演習場の隅で一人、龍化の鍛錬をしている。
あの小さな、笑われるほど小さな白龍で。
何度失敗しても、何度鱗が途中で消えても、あの娘は演習場に立ち続けていた。
誰に見せるためでもなく。ただ自分のために。
――くだらない。
そう切り捨てたはずだった。なのに、気がつくと目で追っている。
今朝もそうだった。
× × ×
朝の教室。ルシアンが入ると、いつものようにリーゼは一番前の席で参考書を読んでいた。
すれ違いざま、ちらりと見た。
本の背表紙が目に入った。『龍化理論・応用編』。あれは上級生向けの参考書だ。一年生が読むにはかなり難しい。
それを、あの娘は付箋だらけにして読み込んでいた。
ルシアンは何も言わず最後列に向かった。
「おはよう、ルシアン。今日も不機嫌そうだね」
隣に座ったカイルが、にやにやしながら言った。
「別に不機嫌じゃない」
「えー? ここ一週間ずっと眉間にシワ寄ってるけど。ね、アレク」
カイルが前の席のアレクシスに振る。アレクシスは振り返り、困ったように微笑んだ。
「カイル、朝からからかうのはやめなよ」
「からかってないよー。心配してるの。ルシアンが不機嫌だと学園全体が凍るからさ」
「黙れカイル」
「はーい」
カイルが肩をすくめて黙る。だが、その目は面白がっている。
何がおかしい。ルシアンは頬杖をついて窓の外を見た。
窓の外には中庭の薔薇園が見えた。あの一番前の席からも見える薔薇園。
――ち。
舌打ちしそうになって、飲み込んだ。なぜ薔薇園を見て白龍の娘を思い出す。意味がわからない。
× × ×
昼休み、ルシアンは中庭を歩いていた。
一人でいたかった。カイルの軽口にもアレクシスの気遣いにもうんざりしていた。レオンハルトは最近やけに黙り込んでいるし、周りの人間全員がどこか噛み合わない。
薔薇園の小道を抜けた先に、東棟の図書室がある。
足が自然とそちらに向かっていることに気づいて、ルシアンは立ち止まった。
図書室。
あの日、白龍の娘とアレクシスがいた場所。
――行く必要はない。
そう思った足が、なぜか動いた。
図書室の扉を少しだけ開けると、奥から竪琴の音が聞こえた。
またか。
書架の陰から覗くと、予想通りの光景がそこにあった。
窓辺でアレクシスが竪琴を弾いている。その足元に、リーゼが座って本を読んでいる。
一週間前と同じ構図だった。いや、違う。距離が近くなっている。
リーゼが本から顔を上げて何か言った。遠くて聞こえない。アレクシスが弾く手を止めて、穏やかに笑って答えた。リーゼも少しだけ笑った。
初めて見る笑顔だった。
教室では見たことがない。いじめに耐えている時も、龍化で笑われた時も、あの娘は笑わなかった。怒るか、黙るか、真っ直ぐ前を見るかのどれかだった。
それが今、アレクシスの前で笑っている。控えめで、でも確かに緩んだ表情。
ルシアンの中で、何かが軋んだ。
前にも感じた、あの感覚。胸の奥が絞られるような、名前のつかない苛立ち。
嫉妬だと気づくほど、ルシアンは自分の感情に慣れていなかった。
ヴォルフリート公爵家の嫡男として生まれ、幼少の頃から完璧であることを求められてきた。剣も魔力も龍化も学問も、全てにおいて一番でなければならなかった。
感情は不要だと教えられた。動揺は弱さだと叩き込まれた。
だから、胸の中でざわめくこの感覚が何なのか、ルシアンにはわからなかった。わからないから、苛立つ。苛立ちだけは唯一、許された感情だったから。
扉を閉めた。音を立てないように。
廊下を歩き出す。早足で。
「あれ、ルシアン?」
角を曲がったところで、カイルと鉢合わせた。カイルは購買の紙袋を手に、菓子パンを頬張っていた。
「図書室にいたの? 珍しいね、本の虫ってタイプじゃないのに」
「いない」
「え、でも今そっちから」
「いなかった」
ルシアンは足を止めず通り過ぎた。カイルが背後で「こわ」と呟いたのが聞こえたが、無視した。
× × ×
放課後。
ルシアンは演習場の二階テラスにいた。
ここは教官用の観覧席で、普段は使われない。一人になりたい時、ルシアンはよくここに来た。
テラスから演習場を見下ろすと、そこにいた。
白龍の娘が、一人で龍化の鍛錬をしていた。
リーゼが目を閉じ、集中する。白い光が体を包み、小さな白龍が現れる。体長一メートルに満たない龍。翼を広げ、飛ぼうとする。だが二メートルほど浮いたところで力尽き、地面に落ちる。
起き上がる。人の姿に戻る。息を整えて、もう一度。
龍化。浮上。落下。
龍化。浮上。落下。
何度も。何度も。
日が傾き始めても、その繰り返しは止まらなかった。
膝に砂がついている。手のひらが擦りむけている。息が上がって、肩が揺れている。それでも立ち上がって、また龍化する。
ルシアンはテラスの手すりに肘をついて、それを見ていた。
見るつもりはなかった。一人になりに来ただけだ。なのに、目が離せなかった。
なぜ、あそこまでやるのか。
白龍だ。どんなに鍛えたところで、銀龍や紅龍にはなれない。鱗の色は血で決まる。努力で変わるものではない。
この世界で、龍の色は絶対だ。血の濃さという、生まれた時点で決定される、覆しようのない格差。
ルシアン自身、その恩恵を受けて生きてきた。銀龍公爵家に生まれたから最強と呼ばれ、四龍の筆頭に立ち、全てが用意されてきた。
だが同時に、その恩恵の裏側も知っている。
銀龍だから完璧でなければならない。銀龍だから弱さを見せてはいけない。銀龍だから、誰にも頼れない。
龍の色に縛られているのは、上位も下位も同じだ。
それを、あの白龍の娘はどう思っているのだろう。
白龍に生まれたことを。笑われることを。小さな龍しか出せないことを。
――恨んでいるだろうか。
ルシアンがそう考えた時、演習場で変化が起きた。
リーゼが龍化した。何度目かの挑戦。いつもと同じ小さな白龍。
だが今度は、翼の動きが違った。がむしゃらに羽ばたくのではなく、風を読むように、小さな翼を丁寧に使っている。
白龍が浮いた。二メートル、三メートル――五メートル。
今までで一番高い。
風が吹いた。小さな体が煽られ、バランスを崩す。
落ちる、と思った。
ルシアンが無意識に手すりを掴んだ。
だが白龍は落ちなかった。体勢を立て直し、小さな翼を必死に動かして、もう一度風を掴んだ。
六メートル。七メートル。
夕陽の中を、小さな白龍が飛んでいた。
不格好だった。翼は震え、高度は安定せず、銀龍のルシアンから見れば鼻で笑うほどの低空飛行だ。
なのに。
なのに、なぜだろう。
目が、離せない。
リーゼが人の姿に戻った。着地に失敗して尻もちをつき、砂埃が舞う。
それでもリーゼは、座り込んだまま空を見上げて――笑った。
嬉しそうに。誰に見せるでもなく、ただ自分のために。
飛べた、と唇が動いたのが、テラスからでもわかった。
ルシアンは手すりを握る自分の手を見下ろした。
白くなるほど、強く握っていた。
「……何をやっている、俺は」
呟いて、手を離した。
背を向けて、テラスを去ろうとした。
だが三歩歩いたところで足が止まった。
振り返った。
演習場では、リーゼが立ち上がって砂を払っていた。膝の擦り傷を気にする様子もなく、鞄を拾い上げて、寮の方に歩き出す。
夕陽がその背中を照らしていた。古びた鞄。安い生地の制服。砂だらけの手。
それなのに、あの背中は、どの上位貴族の令嬢よりも真っ直ぐだった。
ルシアンは長い間、その背中を目で追っていた。
胸の奥のざわめきが、またひとつ大きくなった。
× × ×
翌朝。
リーゼが教室に入ると、自分の机の上に何かが置いてあった。
紙袋だった。白い、何の飾りもない紙袋。
中を覗くと、教科書が入っていた。
龍騎学。龍化理論。魔力学概論。紋章術。全て新品の、正規の教科書だった。
「え……?」
リーゼは周囲を見回した。まだ教室には数人しかいない。誰も気にしていないようだった。
紙袋の底に、小さなメモが一枚入っていた。
無地の紙に、一言だけ。
『教科書もなしに授業を受けるな。目障りだ。』
署名はなかった。
だが、その筆跡は不思議と力強く、一文字一文字がまるで刃物で刻んだように鋭かった。
リーゼには心当たりがなかった。けれど、「目障りだ」という突き放した言葉の裏に、かすかな温度を感じたのは気のせいだろうか。
教室の扉が開き、四龍が入ってきた。ルシアンが先頭を歩き、最後列に向かう。
すれ違う時、蒼い瞳がちらりとリーゼの机を見た。新しい教科書が並んでいるのを確認するように。
そして何事もなかったかのように、視線を前に戻した。
リーゼは紙袋の中のメモをもう一度見た。
……まさか、ね。
ありえない。あの冷たい銀龍が、なぜ。
でも胸の中で、小さな疑問が芽を出した。
一番前の席から振り返ると、最後列の窓際で、ルシアンがいつものように頬杖をついて窓の外を見ていた。
表情は、相変わらず冷たかった。
自分自身のことだ。
入学から一週間が経った。授業は滞りなく進み、四龍としての日常に変わりはない。取り巻きが群がり、教師が機嫌を窺い、生徒たちが道を空ける。いつも通りだ。
いつも通りのはずなのに、苛立ちが消えない。
原因は分かっている。
教室の一番前、端っこの席。あの白龍の娘だ。
リーゼロッテ・フォン・ヴァイス。
別に気にしているわけではない。ただ、目に入るのだ。教室の最後列から見下ろすと、あの質素な制服の背中が嫌でも視界に入る。
授業中、誰よりも真剣にノートを取っている。借りた参考書を食い入るように読んでいる。昼休みになれば図書室に消え、放課後は演習場の隅で一人、龍化の鍛錬をしている。
あの小さな、笑われるほど小さな白龍で。
何度失敗しても、何度鱗が途中で消えても、あの娘は演習場に立ち続けていた。
誰に見せるためでもなく。ただ自分のために。
――くだらない。
そう切り捨てたはずだった。なのに、気がつくと目で追っている。
今朝もそうだった。
× × ×
朝の教室。ルシアンが入ると、いつものようにリーゼは一番前の席で参考書を読んでいた。
すれ違いざま、ちらりと見た。
本の背表紙が目に入った。『龍化理論・応用編』。あれは上級生向けの参考書だ。一年生が読むにはかなり難しい。
それを、あの娘は付箋だらけにして読み込んでいた。
ルシアンは何も言わず最後列に向かった。
「おはよう、ルシアン。今日も不機嫌そうだね」
隣に座ったカイルが、にやにやしながら言った。
「別に不機嫌じゃない」
「えー? ここ一週間ずっと眉間にシワ寄ってるけど。ね、アレク」
カイルが前の席のアレクシスに振る。アレクシスは振り返り、困ったように微笑んだ。
「カイル、朝からからかうのはやめなよ」
「からかってないよー。心配してるの。ルシアンが不機嫌だと学園全体が凍るからさ」
「黙れカイル」
「はーい」
カイルが肩をすくめて黙る。だが、その目は面白がっている。
何がおかしい。ルシアンは頬杖をついて窓の外を見た。
窓の外には中庭の薔薇園が見えた。あの一番前の席からも見える薔薇園。
――ち。
舌打ちしそうになって、飲み込んだ。なぜ薔薇園を見て白龍の娘を思い出す。意味がわからない。
× × ×
昼休み、ルシアンは中庭を歩いていた。
一人でいたかった。カイルの軽口にもアレクシスの気遣いにもうんざりしていた。レオンハルトは最近やけに黙り込んでいるし、周りの人間全員がどこか噛み合わない。
薔薇園の小道を抜けた先に、東棟の図書室がある。
足が自然とそちらに向かっていることに気づいて、ルシアンは立ち止まった。
図書室。
あの日、白龍の娘とアレクシスがいた場所。
――行く必要はない。
そう思った足が、なぜか動いた。
図書室の扉を少しだけ開けると、奥から竪琴の音が聞こえた。
またか。
書架の陰から覗くと、予想通りの光景がそこにあった。
窓辺でアレクシスが竪琴を弾いている。その足元に、リーゼが座って本を読んでいる。
一週間前と同じ構図だった。いや、違う。距離が近くなっている。
リーゼが本から顔を上げて何か言った。遠くて聞こえない。アレクシスが弾く手を止めて、穏やかに笑って答えた。リーゼも少しだけ笑った。
初めて見る笑顔だった。
教室では見たことがない。いじめに耐えている時も、龍化で笑われた時も、あの娘は笑わなかった。怒るか、黙るか、真っ直ぐ前を見るかのどれかだった。
それが今、アレクシスの前で笑っている。控えめで、でも確かに緩んだ表情。
ルシアンの中で、何かが軋んだ。
前にも感じた、あの感覚。胸の奥が絞られるような、名前のつかない苛立ち。
嫉妬だと気づくほど、ルシアンは自分の感情に慣れていなかった。
ヴォルフリート公爵家の嫡男として生まれ、幼少の頃から完璧であることを求められてきた。剣も魔力も龍化も学問も、全てにおいて一番でなければならなかった。
感情は不要だと教えられた。動揺は弱さだと叩き込まれた。
だから、胸の中でざわめくこの感覚が何なのか、ルシアンにはわからなかった。わからないから、苛立つ。苛立ちだけは唯一、許された感情だったから。
扉を閉めた。音を立てないように。
廊下を歩き出す。早足で。
「あれ、ルシアン?」
角を曲がったところで、カイルと鉢合わせた。カイルは購買の紙袋を手に、菓子パンを頬張っていた。
「図書室にいたの? 珍しいね、本の虫ってタイプじゃないのに」
「いない」
「え、でも今そっちから」
「いなかった」
ルシアンは足を止めず通り過ぎた。カイルが背後で「こわ」と呟いたのが聞こえたが、無視した。
× × ×
放課後。
ルシアンは演習場の二階テラスにいた。
ここは教官用の観覧席で、普段は使われない。一人になりたい時、ルシアンはよくここに来た。
テラスから演習場を見下ろすと、そこにいた。
白龍の娘が、一人で龍化の鍛錬をしていた。
リーゼが目を閉じ、集中する。白い光が体を包み、小さな白龍が現れる。体長一メートルに満たない龍。翼を広げ、飛ぼうとする。だが二メートルほど浮いたところで力尽き、地面に落ちる。
起き上がる。人の姿に戻る。息を整えて、もう一度。
龍化。浮上。落下。
龍化。浮上。落下。
何度も。何度も。
日が傾き始めても、その繰り返しは止まらなかった。
膝に砂がついている。手のひらが擦りむけている。息が上がって、肩が揺れている。それでも立ち上がって、また龍化する。
ルシアンはテラスの手すりに肘をついて、それを見ていた。
見るつもりはなかった。一人になりに来ただけだ。なのに、目が離せなかった。
なぜ、あそこまでやるのか。
白龍だ。どんなに鍛えたところで、銀龍や紅龍にはなれない。鱗の色は血で決まる。努力で変わるものではない。
この世界で、龍の色は絶対だ。血の濃さという、生まれた時点で決定される、覆しようのない格差。
ルシアン自身、その恩恵を受けて生きてきた。銀龍公爵家に生まれたから最強と呼ばれ、四龍の筆頭に立ち、全てが用意されてきた。
だが同時に、その恩恵の裏側も知っている。
銀龍だから完璧でなければならない。銀龍だから弱さを見せてはいけない。銀龍だから、誰にも頼れない。
龍の色に縛られているのは、上位も下位も同じだ。
それを、あの白龍の娘はどう思っているのだろう。
白龍に生まれたことを。笑われることを。小さな龍しか出せないことを。
――恨んでいるだろうか。
ルシアンがそう考えた時、演習場で変化が起きた。
リーゼが龍化した。何度目かの挑戦。いつもと同じ小さな白龍。
だが今度は、翼の動きが違った。がむしゃらに羽ばたくのではなく、風を読むように、小さな翼を丁寧に使っている。
白龍が浮いた。二メートル、三メートル――五メートル。
今までで一番高い。
風が吹いた。小さな体が煽られ、バランスを崩す。
落ちる、と思った。
ルシアンが無意識に手すりを掴んだ。
だが白龍は落ちなかった。体勢を立て直し、小さな翼を必死に動かして、もう一度風を掴んだ。
六メートル。七メートル。
夕陽の中を、小さな白龍が飛んでいた。
不格好だった。翼は震え、高度は安定せず、銀龍のルシアンから見れば鼻で笑うほどの低空飛行だ。
なのに。
なのに、なぜだろう。
目が、離せない。
リーゼが人の姿に戻った。着地に失敗して尻もちをつき、砂埃が舞う。
それでもリーゼは、座り込んだまま空を見上げて――笑った。
嬉しそうに。誰に見せるでもなく、ただ自分のために。
飛べた、と唇が動いたのが、テラスからでもわかった。
ルシアンは手すりを握る自分の手を見下ろした。
白くなるほど、強く握っていた。
「……何をやっている、俺は」
呟いて、手を離した。
背を向けて、テラスを去ろうとした。
だが三歩歩いたところで足が止まった。
振り返った。
演習場では、リーゼが立ち上がって砂を払っていた。膝の擦り傷を気にする様子もなく、鞄を拾い上げて、寮の方に歩き出す。
夕陽がその背中を照らしていた。古びた鞄。安い生地の制服。砂だらけの手。
それなのに、あの背中は、どの上位貴族の令嬢よりも真っ直ぐだった。
ルシアンは長い間、その背中を目で追っていた。
胸の奥のざわめきが、またひとつ大きくなった。
× × ×
翌朝。
リーゼが教室に入ると、自分の机の上に何かが置いてあった。
紙袋だった。白い、何の飾りもない紙袋。
中を覗くと、教科書が入っていた。
龍騎学。龍化理論。魔力学概論。紋章術。全て新品の、正規の教科書だった。
「え……?」
リーゼは周囲を見回した。まだ教室には数人しかいない。誰も気にしていないようだった。
紙袋の底に、小さなメモが一枚入っていた。
無地の紙に、一言だけ。
『教科書もなしに授業を受けるな。目障りだ。』
署名はなかった。
だが、その筆跡は不思議と力強く、一文字一文字がまるで刃物で刻んだように鋭かった。
リーゼには心当たりがなかった。けれど、「目障りだ」という突き放した言葉の裏に、かすかな温度を感じたのは気のせいだろうか。
教室の扉が開き、四龍が入ってきた。ルシアンが先頭を歩き、最後列に向かう。
すれ違う時、蒼い瞳がちらりとリーゼの机を見た。新しい教科書が並んでいるのを確認するように。
そして何事もなかったかのように、視線を前に戻した。
リーゼは紙袋の中のメモをもう一度見た。
……まさか、ね。
ありえない。あの冷たい銀龍が、なぜ。
でも胸の中で、小さな疑問が芽を出した。
一番前の席から振り返ると、最後列の窓際で、ルシアンがいつものように頬杖をついて窓の外を見ていた。
表情は、相変わらず冷たかった。
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