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後章
昔の社交界も大変です!
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ナディル先生が額を抑えて、逡巡の色を浮かべた空色の瞳を静かに閉じる。沈黙を暫く続けると、ゆっくりと瞳を開けて諦めたように口を開く。
「『成り代わり』を疑うなら、きっとこの件は誰かから聞き及ぶ事もあるでしょう。ならば、私からお話しておく方が良いのかもしれません」
「聞き及ぶ? 何か関係する事があるのですか?」
身を乗り出すと、片手を上げて窘められる。
「落ち着きなさい。順を追って話します。まず、久しぶりに歴史の復習をして頂きましょう。カミッラ正妃が輿入れされる前の、旧国バルダートとセラフィン王国の関係を覚えていますか?」
ナディル先生からの久しぶりの歴史の問いかけに、背筋を伸ばして記憶の中の教書を紐とく。
「バルダートは、旧国の中でも最大の国で、油断のならない存在とされていました。いつ袂を分けてもおかしくない状況が続いていたと記憶しています」
従えた幾つもの旧国の力と『奇跡』があっても、バルダートとは簡単に勝敗が付かなかった。その為に、膝を屈したのも最も遅い。
旧国の一つになっても、王都からも距離が離れてたし、荒れているとはいえ隣接するグリージャ皇国とも縁があって難しい存在だった。
「結構です。よく覚えていましたね。国と国の結びつきを強めるのに、王族の婚姻は古くから利用されてきました。セラフィン王家も、当然ですがバルダートの元王族との婚儀を求めました。しかし、バルダートは、それを常に袖にした」
元々のセラフィン王国は、決して大国ではない。勝ったセラフィン王国の方が、尚もバルダートに対して怯えていたのだと思う。
だからこそ、袖にされても婚姻を求め続け、断られる度にバルダートに課される要求は高くなっていった。
当時の税収の記録は、他国に比べてバルダートは飛びぬけて高い。一般の旧国の税率でも、自国の税とセラフィン王国の税、そして教会への喜捨が重なれば苦しかった。
あれだけの数字を課されたバルダートの辛酸は、どれ程のものだったのだろうか。
長い髪を指で巻き取って遠い過去の出来事に思いを馳せると、ナディル先生が指先で机を叩いて私を呼び戻す。
「考察は後でゆっくりになさい、リーリア。髪を弄る癖は相変わらずですから、考え事をしているとすぐに分かりますね」
苦笑したナディル先生の言葉に、気付かないうちに癖を繰り返した自分の指先を見る。
全然、弄っている意識はなかった。デュリオ王子に止めてほしいといわれたけれど、直すのはとても難しそうだ。
指から髪を解いて向き直ると、ナディル先生が懐かしそうに瞳を細めたまま再び口を開く。
「現国王陛下の正妃として、幼いカミッラ様にも婚約の申し出が当然ありました。バルダートは、一度断っております。いつもの事ですからね。セラフィン王国の者は、カミッラ様の輿入れはないと判断したんです」
「あっ。だから、シルヴィア二妃は……」
当時の状況を理解して小さく声を上げると、ナディル先生が答えるより先に頷く。
旧国を認める宣言を出したのは、この時期に国王だった先々代の国王陛下だ。
カミッラ様との婚約が成り立たなかったのが、宣言の前か後かは分からない。だけど、間違いなく旧国を認める道筋は、この時期にはもう用意されていた筈だ。
「リーリアも気づいている通り、シルヴィア様には現国王陛下に輿入れする予定はなかったんです。アベッリ公爵が裏で打診しても、断られたでしょう」
アベッリ公爵家は、旧来の貴族の筆頭であり、教会派の最高権力者である。旧国を認めようとしている時期に、反する教会派のアベッリ公爵の力を強める婚姻は絶対に当時の国王陛下は避けただろう。
「シルヴィア二妃にとって一番ありえない婚姻先が、王家だったんですね?」
「そうです。だから、シルヴィア様は同じ教会派でも、有望と評価の高かったピエトロ・ストラーダ伯爵子息と静かに関係を育んでいたようです」
儚げで消えてしまいそうなシルヴィア二妃と、冷静で落ち着いた美男子のストラーダ枢機卿。部屋に送ると言って寄り添った姿は、一枚の絵のように自然に見えた。
お母様の「一番大切な人と恋をして結ばれる」と言った言葉が頭を過ぎると、胸がチクリと痛む。
「悲しいですね……。好きなのに、思うままにならない。一番大事な人が分かっているのに……」
レナート王子から婚約を申し込まれた時の自分を思わず重ねる。
私もどうしていいか分からなかった。頭ではレナート王子を選ぶ事が派閥に利になると理解していたし、レナート王子の事は好きだったのに、頷く事が苦しいと思った。
一方的な片思いの初恋が断ち切る事ができなかった所為だ。
愛し合う二人なら、別の人を選ぶ苦しみは私が感じた以上のものだっただろう。
ほろ苦い記憶と重なって胸元を握りしめると、ナディル先生がそっと目を伏せる。
「運が悪かったのです。本来なら王太子の婚約は、社交デビュー前には道筋ができている。でも、あの時は現国王陛下はそれをしなかった。新しい時代の政に情熱を傾けていましたし、先々代は浮名の多い方で反発する気持ちもあったのでしょう。婚姻は切り札と言って、恋愛事は遠ざけておりました」
事態が変わったのは、カミッラ正妃の社交デビューの直前。
堂々とした態度でシルヴィア二妃より落ち着いて見えるけれど、カミッラ正妃の方が年は三つ下になる。
バルダートからカミッラ正妃の輿入れの打診があった時には、既にシルヴィア二妃は社交界に出て二年を経ていた。シルヴィア二妃とストラーダ枢機卿の関係が深まるには十分な時間だ。
「カミッラ正妃の輿入れは、教会派にとって大きな衝撃だったのでしょうね……」
呟いて目を閉じると、悲喜こもごもの社交界の様子が目に浮かぶ気がした。
セラフィン王国が長年求めた、最大の旧国との婚儀。国王陛下を始めとした新しい施策を進めた者は喜んだだろう。これ以上の相手はいない。
旧国の多くも新たな旗印を歓迎した。嫁いでくる旧国の姫君は、国母となると堂々の宣言している。
そんな中、教会派だけ状況が違う。優秀な旧国の人材を目の当たりにするようになり、急速な台頭の影に強い危機感を覚えた筈だ。
ナディル先生の声が事の顛末をつげる。
「カミッラ正妃に対抗すべく、教会派筆頭の令嬢であるシルヴィア二妃の輿入れが決まりました。次期王は教会派からという思いがあったからでしょう。結婚の儀よりも先に王宮入りをさせる様な忙しない婚姻でした」
突然訪れたシルヴィア二妃とストラーダ枢機卿の蜜月の終わり。一つの記憶が蘇って、弾かれたように瞳を開ける。
あの時、レナート王子であった私を玉座に座らせたストラーダ枢機卿は何て言った?
「第一王子の役を一七年間担った使命」だと強い眼差しでレナート王子に言い聞かせた。
十七年間? 第一皇子の役? この言葉の意味って……。
ストラーダ枢機卿のレナート王子への態度。アベッリ公爵のレナート王子への態度。その違いが、過ぎる疑惑を確かなものにする。
曖昧なものが一つの形になると、暗い予感と共に胸が脈打つ音が耳の奥で響きだす。
「ナディル先生! あってはいけない事ですが、聞かせてください。シルヴィア二妃とストラーダ枢機卿の関係は、本当に終わっていたのですか?」
怖いぐらいの熱を帯びた金色の眼差しの裏には、シルヴィア二妃の名があった。
取り乱した青紫の瞳は、ストラーダ枢機卿のファーストネームを呼んで、昔も今もと呟いた。
ストラーダ枢機卿は、地位も名誉も権力も持っているのに未だに独身でいる。出世の道の早い文官の道があるのに、王族と場を同じくする事の多い枢機卿の地位を優先してきた。
離れているし、決して触れられない。でも、二人の間には特別な思いが残っているのは明らかだった。
ナディル先生の空色の瞳が、私の紺青の瞳をしっかりと見つめる。
「『成り代わり』という言葉がでるなら、その考えに辿り着くと思っていました。しかしね、リーリア。それは、絶対にないんです」
はっきりと断言した言葉に、一瞬胸を撫で下ろしたけれど、形を成した疑いは簡単に解けて消える事はなかった。答えを求めるように見つめる私に、ナディル先生が続けて口を開く。
「本来、年頃のご令嬢に聞かせる話ではありません。それを承知の上でお聞きください。輿入れされても、シルヴィア二妃にはストラーダ枢機卿の噂が影で囁かれ続けました。当時の現国王陛下は、政に夢中の上に、二人の女性を一度に娶る事を歓迎していませんでした」
婚姻を結んだけれども、夫婦としての関係が気薄だったことを、淡々とした口調でナディル先生が語る。
義務のように一月に一度、片方の部屋を訪れるだけの繋がり。夫婦としての訪れの少なさは、社交界では格好の餌食になる。
旧国のカミッラ様の事は、過去を誰も知らないから罵りにも限界があった。対して、シルヴィア二妃は、多くの人が婚姻前の恋愛を知るから話題に欠くことはなかったという。
「政略結婚と言えど、時間が積み重なれば雪解けが訪れることがあります」
雪解けの言葉に、首をひねる。
ナディル先生の言葉と言えども、これだけは頷く事は出来ない。シルヴィア二妃は基本的に自分の居住区に籠り勝ちの印象だし、カミッラ正妃は式典でも国王陛下と目を合わせる事もしない。
今の国王陛下と二人の妃の間には、親密さがあるとは思えない。
「溶けてますか? 納得いきません」
思わず口走ると、ナディル先生が困った様な顔で苦笑いを浮かべる。
「多少。少なくとも国王陛下には、それぞれに対する思いがあります。最も二人の妃が受け容れたり、理解したりするかは別ですけれどね。少しずつ向き合う気配が見え始めた二年目に、二人の妃が相次いで懐妊なさいました」
カミッラ正妃が懐妊を発表して、その一月後にシルヴィア二妃が懐妊を発表したのは知っている。今までは、ただお目出たいばかりの話だと思っていた。
詳細を聞いた今だと、全く別の社交界の影での受け止め方の思い至る。
「やっぱり、社交界は嫌いです。また噂が流れるんですね……。多分、カミッラ正妃の懐妊に焦って、シルヴィア二妃が――」
「待ちなさい、リーリア。令嬢が口に出す内容ではありませんよ」
にっこりと微笑んだナディル先生の笑顔に、言いかけた言葉を飲みこんで冷たいお茶でお腹の底へと流し込む。
カミッラ正妃の取り巻きや口がさない人は、訪れの少ない国王ではなく、シルヴィア二妃の後に恋人を作らないストラーダ枢機卿の子供だときっと囁いたと私は思う。
誰かが政略結婚で涙を流すたびに、必ずそういう噂が立つのだ。
嫌な噂だとは思うけれど、私もナディル先生に否定されるまで、その可能性を思っていた。
シルヴィア二妃と国王陛下の子ではなく、ストラーダ枢機卿との子であれば幾つかの事には合点がいくからだ。
アベッリ公爵の言葉はやや過ぎるけれども、国王の子の立場と比較すれば怒りもあって『卑しい贋物』になる事はあり得ると思う。
シルヴィア二妃の愛情も、ストラーダ枢機卿が越権ともいえる言える態度をとる事も二人の間の子供なら納まる気がする。
でも、私のこの考えをナディル先生は最初に違うと明言した。
問いかける眼差しを向けると、受けたナディル先生が気が滅入ると言った風情でため息交じりに口を開く。
「事実だけをお話します。立て続けに懐妊が発表されて、社交界には喜びと同時にシルヴィア二妃の懐妊を疑う噂が流れました。カミッラ正妃の取り巻きが重ねて嫌がらせもするので、当時のシルヴィア二妃は酷く塞いでおりました」
カミッラ正妃の激しい嫌がらせは、今でも語り草になっている。そして、今のシルヴィア二妃のカミッラ正妃に対する激しい拒絶の元になる事件が起きる。
「カミッラ正妃が、シルヴィア二妃に毒を盛ったというのは本当なんでしょうか?」
デュリオ王子とレナート王子が一緒にいる姿を見る度に、真っ青になってシルヴィア二妃は必死の形相で遠ざけようとした。あの姿には真実と思わせる危機感が確かにある。
こめかみを軽く叩いてからナディル先生が小さく小首を傾げる。
「嘘か本当かは存じません。公式にはなかった事です。ただ、カミッラ様からの砂糖菓子を口に含んで身体がおかしくなったと、シルヴィア様は仰ってますね」
流石に正妃様が関わる事だからなのか、毒を盛った話は公式の事件としては扱われていない。この件についてカミッラ正妃様からの反論は一切なく、事実と信じる声の方が大きい。
『毒婦』という影のあだ名がついたのはこの頃だ。
「毒が引き金になって、シルヴィア二妃様は予定より早く出産の兆候を感じたのですよね? 大丈夫だったのでしょうか?」
レナート王子が生まれた話を聞くのは、これが初めてだった。カミッラ正妃の毒の話が絡むから、デュリオ王子の手前聞く事が憚れてきた。
「ええ。治療は出産を予定していたモーント大修道院で行ったので、両方にすぐ対応は出来たようです。毒の影響という事で、三日ほど母子ともに厳戒態勢の中で水薬の治療を行ったと聞きました」
毒の事とか、『成り代わり』の可能性とか、色々な事があるけれど、無事の一言を聞けば昔の事なのに安堵の気持ちが込み上げてくる。
「良かった……。レナート王子が無事で……」
椅子の背に背中を預けて少しお行儀の悪い姿なのに、ナディル先生が柔らかい眼差しで微笑む。
「本当ですね。一つ間違えれば、何もかもが変わってしまう」
「はい。この出産の順番の入れ替わりは、影響の大きな大事件になったのではないですか?」
改革の流れを望んだ者は、正妃であるカミッラ様が先に産み月を迎える事に安堵していた筈だ。でも、実際には一月後に生まれるレナート王子が先に生まれて、その一週間後に予定通りにデュリオ王子が生まれる事になった。
セラフィン王国は王位継承の諍いを避けるために、代々長子を次の国王に指名する不文律がある。たった一週間の逆転が、王位に関する複雑な立場と環境を生む。
ふと気づいて指を折る。微妙な時間差は出産を知らない私には答えが出ない。
「あの……デュリオ王子は予定通り生まれたのですよね? 一月よりもレナート王子が早いなんて、大丈夫なんでしょうか?」
小首を傾げて尋ねると、ナディル先生が困ったように笑い返す。
「流石に私も出産の事は、詳しく分かりません。時期的には微妙だったと聞いています。ただ、成長には違いも多少はあるのでしょう? 無事だったのですから問題ないのでは? あぁ、でも、シルヴィア様の懐妊はカミッラ様よりも本当は早かったという噂もありましたね。先に発表すれば、身の危険があると伏せていたらしいと」
「そうなんですね……」
『結ばれなかった恋人』、『懐妊』、『毒薬』、『出産』。やっぱりどっかが歪に感じる。
一見、綺麗に見えるのに納まり切れていないような気持ち悪さが残る気がする。
それに、レナート王子の出生までの一連の動きは、ナディル先生の話で分かったけれど、ストラーダ枢機卿とシルヴィア二妃の関係を否定する材料は何処にもない。
改めて問い質そうとする私を制して、ナディル先生が口を開く。
「レナート王子の努力を、側に居る者は皆知っています。国王陛下も厭わないレナート王子を愛しております。シルヴィア様については言うまでもないでしょう。デュリオ王子も兄として敬っている。リーリアも、今も大事に思っていらっしゃいますか?」
「勿論です!」
「レナート王子の出生については不快な噂も少なくありません。今は逆風の時期ですから、社交界には悪意のある情報が溢れます。色々な事があった後で、貴方の心も揺れるでしょう。でも、貴方が信じるレナート王子を、最後まで信じて差し上げて下さい」
何度も何度も頷く私を満足そうに見たナディル先生が、部屋の端に置かれた姿身に視線を移す。
「『成り代わり』について、貴方はアルトゥリアの出身で、見落としている事が一つあります」
「見落としている事ですか?」
ナディル先生が自分の綺麗な金色の髪を指先で軽く二度叩く。それを見て、小さく声を上げる。
故郷のアルトゥリアでは、皆が同じ紺青の髪と瞳だから失念していた。異なる色彩の夫婦から生まれる子は、両親の色彩の影響を強く受ける。
デュリオ王子の色彩がとても分かりやすい。
金の髪は国王陛下の髪の色が基調になって、僅かにカミッラ様がの鮮やかな茜色が混じっている。瞳の深い深碧は、カミッラ様の緑が基調で奥の方には国王の鮮やかな碧が見える。
「分かりましたか、リーリア? レナート王子が生まれて、姿を見せた時点で多くの噂が払しょくされました。レナート王子の色彩には、ストラーダ枢機卿の影は何一つありませんね?」
ストラーダ枢機卿の髪と瞳の色を思い出して頷く。
若草色の髪に金色の瞳をストラーダ枢機卿はしていて、シルヴィア二妃は薄い水色の髪に青紫の瞳。国王陛下は、金色の髪に碧眼。
レナート王子のもつ色彩がどちらに近いかと言うのは一目瞭然だった。
「間違いないですね……。合っている気がします」
「金は王家の貴色です。何故か分かりますか? 王家の王子は父の基調を引き継いで、金の髪となる事が非常に多いんです。当然、私のように王家以外の者でも金の髪はおりますが、全体として数が少ない。レナート王子の髪は、国王の髪色を宿していますね?」
「はい。冬の月みたいな髪をしています」
淡く白に近い金色の髪を思い浮かべると、少しだけ胸の中に漂っていた暗い不安が少しだけ薄れる。
少なくともレナート王子の色彩には、ストラーダ枢機卿の影は何処にもない。これで可能性が一つ消える。レナート王子が、ストラーダ枢機卿の子供である可能性はない。
でも、それなら『贋物』とは何だったのだろう。
一つ可能性が消えたのに次が見えなくて、行き先の見えない霧の中にいるような気分になった。
「『成り代わり』を疑うなら、きっとこの件は誰かから聞き及ぶ事もあるでしょう。ならば、私からお話しておく方が良いのかもしれません」
「聞き及ぶ? 何か関係する事があるのですか?」
身を乗り出すと、片手を上げて窘められる。
「落ち着きなさい。順を追って話します。まず、久しぶりに歴史の復習をして頂きましょう。カミッラ正妃が輿入れされる前の、旧国バルダートとセラフィン王国の関係を覚えていますか?」
ナディル先生からの久しぶりの歴史の問いかけに、背筋を伸ばして記憶の中の教書を紐とく。
「バルダートは、旧国の中でも最大の国で、油断のならない存在とされていました。いつ袂を分けてもおかしくない状況が続いていたと記憶しています」
従えた幾つもの旧国の力と『奇跡』があっても、バルダートとは簡単に勝敗が付かなかった。その為に、膝を屈したのも最も遅い。
旧国の一つになっても、王都からも距離が離れてたし、荒れているとはいえ隣接するグリージャ皇国とも縁があって難しい存在だった。
「結構です。よく覚えていましたね。国と国の結びつきを強めるのに、王族の婚姻は古くから利用されてきました。セラフィン王家も、当然ですがバルダートの元王族との婚儀を求めました。しかし、バルダートは、それを常に袖にした」
元々のセラフィン王国は、決して大国ではない。勝ったセラフィン王国の方が、尚もバルダートに対して怯えていたのだと思う。
だからこそ、袖にされても婚姻を求め続け、断られる度にバルダートに課される要求は高くなっていった。
当時の税収の記録は、他国に比べてバルダートは飛びぬけて高い。一般の旧国の税率でも、自国の税とセラフィン王国の税、そして教会への喜捨が重なれば苦しかった。
あれだけの数字を課されたバルダートの辛酸は、どれ程のものだったのだろうか。
長い髪を指で巻き取って遠い過去の出来事に思いを馳せると、ナディル先生が指先で机を叩いて私を呼び戻す。
「考察は後でゆっくりになさい、リーリア。髪を弄る癖は相変わらずですから、考え事をしているとすぐに分かりますね」
苦笑したナディル先生の言葉に、気付かないうちに癖を繰り返した自分の指先を見る。
全然、弄っている意識はなかった。デュリオ王子に止めてほしいといわれたけれど、直すのはとても難しそうだ。
指から髪を解いて向き直ると、ナディル先生が懐かしそうに瞳を細めたまま再び口を開く。
「現国王陛下の正妃として、幼いカミッラ様にも婚約の申し出が当然ありました。バルダートは、一度断っております。いつもの事ですからね。セラフィン王国の者は、カミッラ様の輿入れはないと判断したんです」
「あっ。だから、シルヴィア二妃は……」
当時の状況を理解して小さく声を上げると、ナディル先生が答えるより先に頷く。
旧国を認める宣言を出したのは、この時期に国王だった先々代の国王陛下だ。
カミッラ様との婚約が成り立たなかったのが、宣言の前か後かは分からない。だけど、間違いなく旧国を認める道筋は、この時期にはもう用意されていた筈だ。
「リーリアも気づいている通り、シルヴィア様には現国王陛下に輿入れする予定はなかったんです。アベッリ公爵が裏で打診しても、断られたでしょう」
アベッリ公爵家は、旧来の貴族の筆頭であり、教会派の最高権力者である。旧国を認めようとしている時期に、反する教会派のアベッリ公爵の力を強める婚姻は絶対に当時の国王陛下は避けただろう。
「シルヴィア二妃にとって一番ありえない婚姻先が、王家だったんですね?」
「そうです。だから、シルヴィア様は同じ教会派でも、有望と評価の高かったピエトロ・ストラーダ伯爵子息と静かに関係を育んでいたようです」
儚げで消えてしまいそうなシルヴィア二妃と、冷静で落ち着いた美男子のストラーダ枢機卿。部屋に送ると言って寄り添った姿は、一枚の絵のように自然に見えた。
お母様の「一番大切な人と恋をして結ばれる」と言った言葉が頭を過ぎると、胸がチクリと痛む。
「悲しいですね……。好きなのに、思うままにならない。一番大事な人が分かっているのに……」
レナート王子から婚約を申し込まれた時の自分を思わず重ねる。
私もどうしていいか分からなかった。頭ではレナート王子を選ぶ事が派閥に利になると理解していたし、レナート王子の事は好きだったのに、頷く事が苦しいと思った。
一方的な片思いの初恋が断ち切る事ができなかった所為だ。
愛し合う二人なら、別の人を選ぶ苦しみは私が感じた以上のものだっただろう。
ほろ苦い記憶と重なって胸元を握りしめると、ナディル先生がそっと目を伏せる。
「運が悪かったのです。本来なら王太子の婚約は、社交デビュー前には道筋ができている。でも、あの時は現国王陛下はそれをしなかった。新しい時代の政に情熱を傾けていましたし、先々代は浮名の多い方で反発する気持ちもあったのでしょう。婚姻は切り札と言って、恋愛事は遠ざけておりました」
事態が変わったのは、カミッラ正妃の社交デビューの直前。
堂々とした態度でシルヴィア二妃より落ち着いて見えるけれど、カミッラ正妃の方が年は三つ下になる。
バルダートからカミッラ正妃の輿入れの打診があった時には、既にシルヴィア二妃は社交界に出て二年を経ていた。シルヴィア二妃とストラーダ枢機卿の関係が深まるには十分な時間だ。
「カミッラ正妃の輿入れは、教会派にとって大きな衝撃だったのでしょうね……」
呟いて目を閉じると、悲喜こもごもの社交界の様子が目に浮かぶ気がした。
セラフィン王国が長年求めた、最大の旧国との婚儀。国王陛下を始めとした新しい施策を進めた者は喜んだだろう。これ以上の相手はいない。
旧国の多くも新たな旗印を歓迎した。嫁いでくる旧国の姫君は、国母となると堂々の宣言している。
そんな中、教会派だけ状況が違う。優秀な旧国の人材を目の当たりにするようになり、急速な台頭の影に強い危機感を覚えた筈だ。
ナディル先生の声が事の顛末をつげる。
「カミッラ正妃に対抗すべく、教会派筆頭の令嬢であるシルヴィア二妃の輿入れが決まりました。次期王は教会派からという思いがあったからでしょう。結婚の儀よりも先に王宮入りをさせる様な忙しない婚姻でした」
突然訪れたシルヴィア二妃とストラーダ枢機卿の蜜月の終わり。一つの記憶が蘇って、弾かれたように瞳を開ける。
あの時、レナート王子であった私を玉座に座らせたストラーダ枢機卿は何て言った?
「第一王子の役を一七年間担った使命」だと強い眼差しでレナート王子に言い聞かせた。
十七年間? 第一皇子の役? この言葉の意味って……。
ストラーダ枢機卿のレナート王子への態度。アベッリ公爵のレナート王子への態度。その違いが、過ぎる疑惑を確かなものにする。
曖昧なものが一つの形になると、暗い予感と共に胸が脈打つ音が耳の奥で響きだす。
「ナディル先生! あってはいけない事ですが、聞かせてください。シルヴィア二妃とストラーダ枢機卿の関係は、本当に終わっていたのですか?」
怖いぐらいの熱を帯びた金色の眼差しの裏には、シルヴィア二妃の名があった。
取り乱した青紫の瞳は、ストラーダ枢機卿のファーストネームを呼んで、昔も今もと呟いた。
ストラーダ枢機卿は、地位も名誉も権力も持っているのに未だに独身でいる。出世の道の早い文官の道があるのに、王族と場を同じくする事の多い枢機卿の地位を優先してきた。
離れているし、決して触れられない。でも、二人の間には特別な思いが残っているのは明らかだった。
ナディル先生の空色の瞳が、私の紺青の瞳をしっかりと見つめる。
「『成り代わり』という言葉がでるなら、その考えに辿り着くと思っていました。しかしね、リーリア。それは、絶対にないんです」
はっきりと断言した言葉に、一瞬胸を撫で下ろしたけれど、形を成した疑いは簡単に解けて消える事はなかった。答えを求めるように見つめる私に、ナディル先生が続けて口を開く。
「本来、年頃のご令嬢に聞かせる話ではありません。それを承知の上でお聞きください。輿入れされても、シルヴィア二妃にはストラーダ枢機卿の噂が影で囁かれ続けました。当時の現国王陛下は、政に夢中の上に、二人の女性を一度に娶る事を歓迎していませんでした」
婚姻を結んだけれども、夫婦としての関係が気薄だったことを、淡々とした口調でナディル先生が語る。
義務のように一月に一度、片方の部屋を訪れるだけの繋がり。夫婦としての訪れの少なさは、社交界では格好の餌食になる。
旧国のカミッラ様の事は、過去を誰も知らないから罵りにも限界があった。対して、シルヴィア二妃は、多くの人が婚姻前の恋愛を知るから話題に欠くことはなかったという。
「政略結婚と言えど、時間が積み重なれば雪解けが訪れることがあります」
雪解けの言葉に、首をひねる。
ナディル先生の言葉と言えども、これだけは頷く事は出来ない。シルヴィア二妃は基本的に自分の居住区に籠り勝ちの印象だし、カミッラ正妃は式典でも国王陛下と目を合わせる事もしない。
今の国王陛下と二人の妃の間には、親密さがあるとは思えない。
「溶けてますか? 納得いきません」
思わず口走ると、ナディル先生が困った様な顔で苦笑いを浮かべる。
「多少。少なくとも国王陛下には、それぞれに対する思いがあります。最も二人の妃が受け容れたり、理解したりするかは別ですけれどね。少しずつ向き合う気配が見え始めた二年目に、二人の妃が相次いで懐妊なさいました」
カミッラ正妃が懐妊を発表して、その一月後にシルヴィア二妃が懐妊を発表したのは知っている。今までは、ただお目出たいばかりの話だと思っていた。
詳細を聞いた今だと、全く別の社交界の影での受け止め方の思い至る。
「やっぱり、社交界は嫌いです。また噂が流れるんですね……。多分、カミッラ正妃の懐妊に焦って、シルヴィア二妃が――」
「待ちなさい、リーリア。令嬢が口に出す内容ではありませんよ」
にっこりと微笑んだナディル先生の笑顔に、言いかけた言葉を飲みこんで冷たいお茶でお腹の底へと流し込む。
カミッラ正妃の取り巻きや口がさない人は、訪れの少ない国王ではなく、シルヴィア二妃の後に恋人を作らないストラーダ枢機卿の子供だときっと囁いたと私は思う。
誰かが政略結婚で涙を流すたびに、必ずそういう噂が立つのだ。
嫌な噂だとは思うけれど、私もナディル先生に否定されるまで、その可能性を思っていた。
シルヴィア二妃と国王陛下の子ではなく、ストラーダ枢機卿との子であれば幾つかの事には合点がいくからだ。
アベッリ公爵の言葉はやや過ぎるけれども、国王の子の立場と比較すれば怒りもあって『卑しい贋物』になる事はあり得ると思う。
シルヴィア二妃の愛情も、ストラーダ枢機卿が越権ともいえる言える態度をとる事も二人の間の子供なら納まる気がする。
でも、私のこの考えをナディル先生は最初に違うと明言した。
問いかける眼差しを向けると、受けたナディル先生が気が滅入ると言った風情でため息交じりに口を開く。
「事実だけをお話します。立て続けに懐妊が発表されて、社交界には喜びと同時にシルヴィア二妃の懐妊を疑う噂が流れました。カミッラ正妃の取り巻きが重ねて嫌がらせもするので、当時のシルヴィア二妃は酷く塞いでおりました」
カミッラ正妃の激しい嫌がらせは、今でも語り草になっている。そして、今のシルヴィア二妃のカミッラ正妃に対する激しい拒絶の元になる事件が起きる。
「カミッラ正妃が、シルヴィア二妃に毒を盛ったというのは本当なんでしょうか?」
デュリオ王子とレナート王子が一緒にいる姿を見る度に、真っ青になってシルヴィア二妃は必死の形相で遠ざけようとした。あの姿には真実と思わせる危機感が確かにある。
こめかみを軽く叩いてからナディル先生が小さく小首を傾げる。
「嘘か本当かは存じません。公式にはなかった事です。ただ、カミッラ様からの砂糖菓子を口に含んで身体がおかしくなったと、シルヴィア様は仰ってますね」
流石に正妃様が関わる事だからなのか、毒を盛った話は公式の事件としては扱われていない。この件についてカミッラ正妃様からの反論は一切なく、事実と信じる声の方が大きい。
『毒婦』という影のあだ名がついたのはこの頃だ。
「毒が引き金になって、シルヴィア二妃様は予定より早く出産の兆候を感じたのですよね? 大丈夫だったのでしょうか?」
レナート王子が生まれた話を聞くのは、これが初めてだった。カミッラ正妃の毒の話が絡むから、デュリオ王子の手前聞く事が憚れてきた。
「ええ。治療は出産を予定していたモーント大修道院で行ったので、両方にすぐ対応は出来たようです。毒の影響という事で、三日ほど母子ともに厳戒態勢の中で水薬の治療を行ったと聞きました」
毒の事とか、『成り代わり』の可能性とか、色々な事があるけれど、無事の一言を聞けば昔の事なのに安堵の気持ちが込み上げてくる。
「良かった……。レナート王子が無事で……」
椅子の背に背中を預けて少しお行儀の悪い姿なのに、ナディル先生が柔らかい眼差しで微笑む。
「本当ですね。一つ間違えれば、何もかもが変わってしまう」
「はい。この出産の順番の入れ替わりは、影響の大きな大事件になったのではないですか?」
改革の流れを望んだ者は、正妃であるカミッラ様が先に産み月を迎える事に安堵していた筈だ。でも、実際には一月後に生まれるレナート王子が先に生まれて、その一週間後に予定通りにデュリオ王子が生まれる事になった。
セラフィン王国は王位継承の諍いを避けるために、代々長子を次の国王に指名する不文律がある。たった一週間の逆転が、王位に関する複雑な立場と環境を生む。
ふと気づいて指を折る。微妙な時間差は出産を知らない私には答えが出ない。
「あの……デュリオ王子は予定通り生まれたのですよね? 一月よりもレナート王子が早いなんて、大丈夫なんでしょうか?」
小首を傾げて尋ねると、ナディル先生が困ったように笑い返す。
「流石に私も出産の事は、詳しく分かりません。時期的には微妙だったと聞いています。ただ、成長には違いも多少はあるのでしょう? 無事だったのですから問題ないのでは? あぁ、でも、シルヴィア様の懐妊はカミッラ様よりも本当は早かったという噂もありましたね。先に発表すれば、身の危険があると伏せていたらしいと」
「そうなんですね……」
『結ばれなかった恋人』、『懐妊』、『毒薬』、『出産』。やっぱりどっかが歪に感じる。
一見、綺麗に見えるのに納まり切れていないような気持ち悪さが残る気がする。
それに、レナート王子の出生までの一連の動きは、ナディル先生の話で分かったけれど、ストラーダ枢機卿とシルヴィア二妃の関係を否定する材料は何処にもない。
改めて問い質そうとする私を制して、ナディル先生が口を開く。
「レナート王子の努力を、側に居る者は皆知っています。国王陛下も厭わないレナート王子を愛しております。シルヴィア様については言うまでもないでしょう。デュリオ王子も兄として敬っている。リーリアも、今も大事に思っていらっしゃいますか?」
「勿論です!」
「レナート王子の出生については不快な噂も少なくありません。今は逆風の時期ですから、社交界には悪意のある情報が溢れます。色々な事があった後で、貴方の心も揺れるでしょう。でも、貴方が信じるレナート王子を、最後まで信じて差し上げて下さい」
何度も何度も頷く私を満足そうに見たナディル先生が、部屋の端に置かれた姿身に視線を移す。
「『成り代わり』について、貴方はアルトゥリアの出身で、見落としている事が一つあります」
「見落としている事ですか?」
ナディル先生が自分の綺麗な金色の髪を指先で軽く二度叩く。それを見て、小さく声を上げる。
故郷のアルトゥリアでは、皆が同じ紺青の髪と瞳だから失念していた。異なる色彩の夫婦から生まれる子は、両親の色彩の影響を強く受ける。
デュリオ王子の色彩がとても分かりやすい。
金の髪は国王陛下の髪の色が基調になって、僅かにカミッラ様がの鮮やかな茜色が混じっている。瞳の深い深碧は、カミッラ様の緑が基調で奥の方には国王の鮮やかな碧が見える。
「分かりましたか、リーリア? レナート王子が生まれて、姿を見せた時点で多くの噂が払しょくされました。レナート王子の色彩には、ストラーダ枢機卿の影は何一つありませんね?」
ストラーダ枢機卿の髪と瞳の色を思い出して頷く。
若草色の髪に金色の瞳をストラーダ枢機卿はしていて、シルヴィア二妃は薄い水色の髪に青紫の瞳。国王陛下は、金色の髪に碧眼。
レナート王子のもつ色彩がどちらに近いかと言うのは一目瞭然だった。
「間違いないですね……。合っている気がします」
「金は王家の貴色です。何故か分かりますか? 王家の王子は父の基調を引き継いで、金の髪となる事が非常に多いんです。当然、私のように王家以外の者でも金の髪はおりますが、全体として数が少ない。レナート王子の髪は、国王の髪色を宿していますね?」
「はい。冬の月みたいな髪をしています」
淡く白に近い金色の髪を思い浮かべると、少しだけ胸の中に漂っていた暗い不安が少しだけ薄れる。
少なくともレナート王子の色彩には、ストラーダ枢機卿の影は何処にもない。これで可能性が一つ消える。レナート王子が、ストラーダ枢機卿の子供である可能性はない。
でも、それなら『贋物』とは何だったのだろう。
一つ可能性が消えたのに次が見えなくて、行き先の見えない霧の中にいるような気分になった。
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