咲く君のそばで、もう一度

詩門

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第一章

8.一人の居場所

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 隊員達と別れた扉の前に立つ。中からは物音せず静かである。それにほっとした。一応確認をっとそっと扉を開ける。
 中には誰もいない。窓から漏れる月明かりが部屋の中を照らすだけ。年季の入った机の上も片付いており、椅子だって綺麗に並べられている。

 ちゃんとやってくれたんだな。

 信じきれなかった事に少し罪悪感が湧く。俺はそのまま帰路に着く。

 城壁近くまで歩くと、くすんだ赤のレンガで造られた建物が見えた。ガラス窓の付いた入り口の扉をそっと開け、三階まで階段を登る。隅の部屋、白く塗られた自分の部屋の扉を開け、中に入る。
 月夜だけが頼りの暗い部屋。部屋で寛ごうかという気分にもなれず、とにかく寝る支度を済ませ久しぶりに自分の寝床で横になる。すぐに睡魔がやってくる。微睡む意識で目を開けると、視線の先にはもうしばらく開かれていない本達が、なんだか恨めしそうに本棚に並んでいるのが見えた。最近忙しくて読める時間がない。そもそも家に帰る事が減ってしまった。昔は三人でよく読んでいたなと懐かしんでいると、意識がだんだんと薄れ瞼を閉じる。

 急に意識がはっきりした。ゆっくり瞼を開くと、視界に鮮やかな色が付いた。広がる景色はさっきまでいた俺の部屋ではない。ここは外、で俺は……橋の上にいると見てもいないのにそう思った。どう言う事だ、っと上を見上げる。空は青く、柔らか白い雲が流れ、鳥が風に乗り気持ちよさそうに飛んでいる。今度は下を向いた。橋の下には澄んだ水が流れる。陽の光を反射させキラキラと輝き、流れに逆らい泳ぐ魚たちの体も時折同じように輝く。
 とても穏やかな、美しい世界。
 だけど、音のない世界。
 風の音も草を鳴らす音も川のせせらぎも魚が跳ねた音も何も、聞こえない。まるで絵画を眺めているよう。その異質さに自分の存在を不安定に感じた。

 そうか……これは、夢か。
 
 橋の欄干に手を乗せた。見えたその手は今の俺よりもだいぶ小さく、無垢であった。
 ふと横を見る。そこには人がいた。俺は思わず息を飲む。そいつの体は至って普通の人間なのだが顔だけがまるで、子供が落書きをしたように黒く塗りつぶされている。顔が分からない……でも、直感でこの人は俺の父親だと思った。いつか、どこかで見たこの風景。これは無理やり忘れ、消し去った記憶のどれかなのだろうとそう、感じた。
 父さんは釣りをしているのか糸を川へ垂らし、じっとそこを見ている気がする。複雑な感情湧く。思い出したくない、っとずっとそう思っていたのに、いざ目の前に立たれると心のどこで喜び、というかこそばゆさというか何とも言えない気持ちになる。父さんの顔を見る。少し黒が薄れた気がした。
 視線を俺も同じように糸先を見つめる。糸がクンクンっと引いた。もう少し近くにと横に一歩を踏み出すと、何か蹴った感覚があった。足元を見る。体を跳ねさせ、大きく叫んだ。だが、無音の世界には何も響かない。俺と父さんの間にも人がいた。釣った魚を入れたバケツの中をしゃがんで覗いている。そいつも顔だけ黒く塗りつぶされている。泥だらけのローブを着たこいつは、男なのか女なのかすら分からない。歳も分からないが、何となくこの夢の中の自分に近いと感じていた。
 視界が急に切り替わる。
 俺は走っていた。勝手に体が動いていた。でも、これは夢。俺は俺の記憶に身を委ねる。俺は川の斜面まで走り、そこに数本咲いている淡いピンク色の花を一輪根本近くでへし折る。その花を手に持ち、顔をぐちゃぐちゃに塗られたそいつに差し出した。自分のした事に驚いた。今の俺からは想像できない。そいつはしばらく動かなかったが、俺の手からそっと花を受け取る。勝手に俺の口が開いて、何かを言った。何を言ったのかは覚えていない。ふとそいつが何かを大事そうに胸に抱えているのが分かった。それは本であった。その瞬間思い出した。

 そうだ。俺はこいつに大切なものを取られたんだ。

 じっとその本を見る。これは多分俺の物だ。こいつに盗られたんだと、怒りの感情を思い出す。取り返したいが、夢の中では思うように動かない。だが、俺はその本を指差せた。するとそいつの口元の黒だけが晴れた。程よく色づく唇を微笑むような形にさせている。

 そう、この笑み。

 たまに記憶の底から蘇るこの笑みはこいつであったか。その口が開いた。急に耳に音が入る。驚きからなのか、大きく鼓動が跳ね出した。

「じゃあ……あなたが道に迷う時は私が、その希望になる」

 何故こいつにこんな事をと不服に思いながらも、鼓動は更に早くなる。
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