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1巻
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プロローグ
遠くで人の声が聞こえる。
何故だかとても泣きそうな、いやもうすでに泣いているのかもしれない。必死に自分の名前を呼ぶ少女の声につられるように、フェリシアはゆっくりと目を覚ました。
大丈夫? そう声を掛けようとしたのに喉が張り付いて上手く喋る事ができない。
しかし微かな呻き声に、ベッドサイドにいた少女は気付いてくれたようだ。二つに結んだ栗毛の髪を揺らして振り返ると、若草色の瞳を大きく見開きボロボロと大粒の涙を零す。
「……よかった……! ご気分は? どこか具合が悪かったりしませんか!?」
「だい、じょうぶ、です」
何故か分からないが喉がとにかく乾いている。話辛さを感じて眉間に皺が寄れば、少女は急いでベッドサイドに置かれた水差しから水をグラスに注ぐ。
「どうぞ」
起き上がろうとするフェリシアの背を支え、もたれやすいように枕を当ててくれる。
手渡されたグラスの水は冷たすぎず、かといって生温いわけでもない。
寝起きの身体に負担のないように気遣われている。なんたる至れり尽くせり、とフェリシアは感謝の念を抱きながら中身を飲み干した。
「足りますか? もう一度お注ぎしましょうか?」
「……ありがとうございます。お願いします」
年の頃は十二、十三くらいだろうか。随分としっかりしている。
メイド服を着ているのでこの屋敷で働いているのだろう。自分がこの少女の頃はどうしていただろうかと考えるが、途端にこめかみのあたりがツキンと痛む。
「ああ! やっぱりまだ起き上がらない方が!」
「大丈夫、大丈夫です。多分これ寝すぎたからです! わたしは元気ですよ!」
またしても少女が泣き出しそうな表情をするのでフェリシアは慌てる。
「そうだお医者様……あの、わたし、カーティスさんとマリアさんを呼んできますね! ちょっとだけお待ちください!」
「いやほんと、大丈夫なのでお気遣いなく!」
「カーティスさん! マリアさん!!」
少女は部屋の扉を開けて大きな声を出した。
呼んでくるってそこから、と思わず突っ込みそうになる。
今フェリシアがいる部屋は、彼女が知る中でもとても広い。置いてある家具、それこそ今寝かせてもらっているベッドだって明らかに高級そうな代物だ。
つまりはこの屋敷はかなり格上の家であるというわけであり、そんな屋敷で働いているメイドが扉を開け放って大声で呼ぶとはこれ如何に。
これが許されるくらい大らかな家なのか、それともこの少女が規格外なのか。ぼんやりとそう思いながら、そもそもどうして自分はこんな見ず知らずの屋敷で横になっているのかと考える。
「――あれ?」
考えるが、どうやっても思い出せない。
こめかみはまたしても痛むが、ついでと言わんばかりに後頭部も痛い。
なんで、と頭に手をやると、そこで初めて包帯が巻かれている事に気が付いた。
「え!?」
「フェリシア様!」
「よかった、お目覚めになったんですね」
少女の声で駆けつけたのは美しい一組の男女だった。どちらもフェリシアより年上に見える。
フェリシアの名を呼んだのは、赤毛混じりの茶色の髪の女性だ。
メイド服を着ているので少女の先輩なのだろう。おそらく彼女が「マリアさん」で、執事服を着た金髪の男性がおそらく「カーティスさん」。
美形の執事とメイド、そして随分と可愛らしい小さなメイドという、なんというか美形の圧がすごいなと、フェリシアは素直にそう思った。
「すぐにヘンドリック先生をお呼びしますね」
扉の外にもう一人メイドの姿が見える。彼女に向かい指示を出す執事に、フェリシアは「大丈夫です」と声をかけようとするが、それより先にマリアと呼ばれたメイドに抱き付かれた。
「よかった……本当によかった……!」
「あの……?」
「二日間ずっと眠っていて……もう起きないんじゃないかと」
「え! 二日!? わたしそんなに寝てたんですか!?」
寝起きにしては異様に喉が渇いていたが、なるほどそれが原因……と一瞬納得する。
しかし、それどころではないとフェリシアは狼狽える。
「なんでそんなに寝て……? しかも人様のお屋敷で!?」
その声にビクリとマリアの身体が震えた。ゆっくりと身を起こし、フェリシアを正面から見つめる。
「……フェリシア様?」
「あの、ええと……わたしの名前をご存知ということは、どこかでお会いしているんですよね? 二日間もお世話になっている身でなんて恩知らずって話なんですけど……お名前をお聞きしてもよろしいですか?」
マリアの顔がどんどんと険しくなる。それどころか、こちらの様子を見守っていた執事と少女までもが顔を青くして固まってしまう。
まずい、これはとってもまずい、とフェリシアも釣られるように青くなる。
――そりゃあこれだけお世話になってる上に、相手はわたしの名前知ってるのにこっちは知らないって失礼すぎるものね!!
ひええええ、と内心おののきつつフェリシアは素直に自分の状態を伝える事にした。
取り繕おうとしたところで無駄である。なにしろ繕えるものがない。
「すみません、本当に失礼にも程があるんですけど、わたし、どうしてこんな状況なっているのかさっぱりで!」
「……二日前に裏庭で倒れていらしたんです」
いち早く動揺から抜け出した様子の執事が口を開く。
「どうして!?」
「目下調査中ですがご安心ください。今は屋敷の警備を強化していますし、これ以上危険な目には遭わせません。旦那様にもすでに連絡済みです。明日中にはご帰宅されますので、それまでもう少しご辛抱ください」
危険とは、となったところで賊や不審者の可能性かと思い至る。
いやまさかそんなわたし如きが、と思うもむしろそれは……
「わたしなのでは!?」
見ず知らずの屋敷の裏庭で倒れていただなんて、フェリシアこそが不審者に他ならない。
「え、でも待って、どうしてこちらのお屋敷に入り込んでたのか分からない! えええええ……え、ほんとに分かんない。なんで?」
どれだけ考えてもなにも浮かばない。
そもそもからして、こんな立派な屋敷に入ろうと思った動機はなんなのか。
「……まさかこちらのご子息に一目惚れ……!? ってそんなことあるわけないわよね。だってその相手がさっぱりこれっぽっちも浮かばないんだもの!」
「奥様!」
「ああああ、そうだ! そうですよ、こちらのお屋敷の奥様は!? こんな不審者の塊でしかないわたしがいて不安で胸を痛めてらっしゃるんじゃ!? って違う逆よ、むしろこんなわたしを二日間も介抱してくださるだなんて、こちらの奥様は聖人かなにかですかね!? 旦那様がご不在の中お詫びとお礼のしようもない……!」
うわわああ、とフェリシアは文字通り頭を抱える。
屋敷の規模もさることながら、こんな自分にも気遣いを見せてくれる使用人がいる時点でこの家の主と夫人の人柄がよく分かる。人徳がすごい、と感動と同時に、いつまでもこうして世話になっているのが心苦しくて仕方がない。
「せめて、奥様にお礼の言葉だけでもお伝えしたいんですが」
「ご自分の事はお分かりですか?」
肩こそ掴まれていないが、そうしてきそうな程に執事の顔が険しさを増している。
分かりません、と反射的に口走りたくなるくらい恐ろしいが、そんな嘘を吐こうものなら一体どうなるか。事態の悪化しか目に見えず、フェリシアは大きく何度も首を縦に動かした。
「フェリシア・リンスベルクと申します。父はクレイグ・リンスベルク伯爵で……」
「ポリー、父を呼んできてくれ」
執事はフェリシアの言葉を遮って背後で震えている少女にそう声をかける。
しかし、ポリーと呼ばれた少女はボロボロと涙を零したままピクリともしない。
「ポリー」
執事――カーティスはもう一度名を呼び、ポリーの目線に合わせるようにその長身を折り曲げた。
「ポリー、私は今から急いでヘンドリック先生を連れてくる。ポリーは父に奥様の様子を伝えて、その後は私が戻るまで父とマリアと三人で奥様を守っていてくれ。できるな?」
「……っ、はい!」
ポリーはぐしゃぐしゃの顔を両の袖口で拭うと、フェリシアに向けてピョコンと一礼して部屋を飛び出した。
「あの……奥様に……お礼と、ご挨拶を……」
「奥様は貴女です、フェリシア様……ねえフェリシア、私のことは分かる?」
「マリアさん、と仰るのは……」
会話からそう察する事はできるが、それだけだ。
彼女と一体どういう関係なのかまでは分からない。ただ、彼女が呼びかける声も表情も、ただのメイドと伯爵家の娘というだけではないのだと訴えてくる。
それでもやはり、フェリシアの記憶に彼女は存在しないのだ。
マリアもまた大粒の涙を零す。その自覚すらないのかもしれない。ただただ、フェリシアの顔を見つめたまま泣き続ける。
まずい、を通り越している。
およそフェリシアでは到底考えつかないような事態に陥っているらしい。
ドクドクと心臓の音が耳に響く。背中はすでに汗で濡れているし、潤ったはずの喉もすっかり乾いてしまった。
「色々とご心配ではあるでしょうが、とにかく今は横になってください。すぐに父……家令のハンスが参りますのでなんでも申しつけください。私はこれから急ぎ医者を呼んで参ります」
ただ涙を零し続けるマリアを置いて、カーティスが冷静に話しかけてくる。
「……一つ、お尋ねしてもいいですか……?」
「はい、なんでしょう奥様」
ひい、と堪らず声が漏れた。彼はフェリシアを見据えて呼んだのだ、奥様と。
「わたしが……奥さま、なんです、か?」
「そうです」
フェリシアが怯えきった状態で尋ねたのは誰の目からでも明らかだ。
当然彼も気付いているだろうに、なのに一刀両断である。うっわこの人容赦ない! と頭の片隅でそう突っ込む自分がいるが、今はそこよりさらに突っ込むべき点がある。
「……どなた、の……?」
「――グレン・ハンフリーズ伯爵の奥様です、フェリシア様」
チ、チ、チ、と時を刻む音が室内に満ちる。
それが十を超えた辺りでフェリシアは叫んだ。
「社交界きっての美形って大騒ぎされてる伯爵様とわたしが結婚してるなんて嘘でしょー! ありえませんって!」
フェリシア・リンスベルク伯爵令嬢、もとい、フェリシア・ハンフリーズ伯爵夫人。
それが今のフェリシアの社会的な立場であるが、寝ている間にその記憶は綺麗さっぱり消え失せていた。
一章 奥様は記憶を失くす
グレン・ハンフリーズ伯爵といえば、さして社交界に興味のなかったフェリシアですら、その名を知っているほどの有名人だ。
夜の闇を溶かしたような黒い髪、それとは真逆に雲一つない青空のように澄んだ瞳。
キリッとした眉に切れ長の瞳はともすれば威圧感を与えてしまいそうだが、目、鼻、口、とそれぞれの絶妙なバランスがその圧を打ち消している。
まるで絵画から出てきたかのよう、とは陳腐ではあるけれど、彼の美しさを端的に表すには一番だろう。
長身で、一見すると細身にも見える。しかし彼は、このカゼルタ国の第二王子であるフレドリックの専属護衛であるからして、黒を基調とした騎士服の下には鍛え上げられた身体が隠れている。
性格は真面目で、権力におもねる事なく、それが民衆にとって悪であるならば王族相手でも否を唱える。強者に強く、弱者には優しい。
となれば、当然その人気は絶大だ。彼の妻の座を狙う女性は星の数程いる。
だからだろうか、唯一彼が冷たいというか、若干の塩対応になるのが妙齢の女性に対してだった。
しかしながら、これがまた恋する乙女達には好感度を上げる事にしかならない。
その冷たさがいい、と大騒ぎ。
こういった面も含めて、「氷の騎士」と呼ばれている。
「……そんな伯爵様と、わたしが……嘘でしょう?」
フェリシアはもう何度目になるか分からないが、それでもなお同じ言葉を繰り返してしまう。
淡い茶色の栗毛の髪は陽の光を浴びれば時折金色に見えなくもないが、結局のところ淡褐色の瞳が地味さを主張する。
顔立ちは「可愛らしい」と褒めてもらえる事もあるが、そう言ってくれるのは総じて年上のご夫人達であるので、娘や孫を褒めるのと同義だろう。
他人を不快にさせるとまではいわないが、かといってその美しさで虜にできるわけでもない、至って普通の顔だ。背だって、低くもなければ高くもない。
あまりにも平凡、それがフェリシアだ。どうしたって信じられる話ではない。
「嘘じゃないわ」
現状を受け入れられず呆然とするフェリシアに、否定の言葉がかけられる。
声の主は緩やかに波打つ金色の髪を持つ令嬢だ。普段であれば猫を思わせるような若草色をした瞳だが、今は微かに潤んで色を変えている。
ミッシェル・ベリング。
フェリシアと同じ伯爵家の令嬢であり、幼い頃から交流のあった友人だという。
彼女はフェリシアが裏庭で倒れたと聞いた日から連日見舞いに来てくれていて、眠り続けるフェリシアをとても心配していたそうだ。
今日も彼女は、執事のカーティスが医者を連れて来たのと同じ時刻に偶然屋敷を訪ねていた。
医者の診察が終わり、フェリシアの記憶が失われているという事が確定した。
ならば、昔からの付き合いであるミッシェルに会えばなにか思い出すのではないかと、そんな期待と共に彼女はフェリシアの前に姿を見せた。
「どちら様ですか?」
まさかそんな繋がりのある相手だとは思ってもいないフェリシアの言葉に、ミッシェルはその場で泣き出してしまった。
今はどうにか落ち着きを取り戻したが、目元が赤く潤んでいるのはその名残である。
「でも……でも何度教えてもらっても、やっぱりピンとこないわ! だって接点がなさすぎじゃない!?」
フェリシアの怪我は後頭部にたんこぶができていたのと、軽い擦り傷があった程度。それでも頭部の擦り傷は出血が目立つ。
包帯を巻いていたのは、あまりにも心配しすぎて倒れそうになっていたマリアとポリーを安心させるための意味合いが深い。包帯で処置をしているから安心していい、というものだ。
怪我は軽傷。三日経った今はもう傷も塞がっており、怪我の痕が残る事もないだろうというのが医師の診察結果である。
この点についてはフェリシア自身もほっと胸を撫で下ろした。
だが、問題は記憶の方である。
「全く思い出せない?」
「これっぽっちも思い出せない。そもそも伯爵様の顔すら浮かばないの」
フェリシアが失った記憶は直近の三年分。
それはフェリシアが顔も知らない伯爵様と結婚してからの年数と同じだ。
「覚えていることもあるのよね?」
「そうね、まず自分のことは覚えているし、両親のことも……」
覚えている。目覚めてすぐに自分の名前を名乗った時に父の名も告げた。
けれど、猛烈な違和感が今はフェリシアを襲う。
ツキン、と鋭い痛みがこめかみに走り顔を顰めれば、ミッシェルが椅子を鳴らして立ち上がった。
「大丈夫! 大丈夫よ心配しないで、ほんの一瞬だけだから!」
「お医者様は無理をしちゃだめって言っていたわ。休んで、フェリシア」
「でも二日も寝続けてたんでしょう? すっかり目が冴えちゃったし、眠気なんて遥か遠くよ」
そうだ、とフェリシアの脳裏に一つの案が浮かぶ。
「とりあえず、覚えていること……人とか、そういうのを書き出してみたらいいんじゃないかしら! そうしたら、なにを覚えていてなにを忘れているかはっきりするし、その途中で思い出すこともあるかもしれない!」
覚えていること、忘れていること、そのどちらかに規則性があれば、そこから新たな事実が分かるかもしれない。
そしてなによりも、フェリシア自身が何をどこまで覚えているのかを確認したかった。
フェリシアに無理はさせたくないとミッシェルは渋っていたが、最終的にその案に乗ることにした。思考の整理は確かにした方がいいだろうと彼女も思ったのだ。
「でも、少しでも具合が悪くなったらそこで一旦終わりだから! 絶対に無理をしちゃだめよ、フェリシア!」
「ありがとうミッシェル。無理、って思ったらすぐに手を挙げて知らせるわ」
彼女については微塵も思い出せないけれど、一緒にいてくれることにとても安心する。
記憶は失っても、心は覚えているのだろう。
フェリシアはそれがとても嬉しいと思った。
◆◆◆
なにか書くものが欲しい。
そう言ってマリアに頼んで用意してもらったのは、四隅に小花が描かれた可愛らしい便箋だった。
なんでもフェリシア自身の持ち物であるらしい。
「わたし、こんな便箋を持っていたんですか?」
「フェリシア様はいつも、街に出かけると素敵な便箋と封筒を買われてました! 他にもたくさんありますよ!」
お茶の準備をしながらポリーが元気に教えてくれる。ありがとうと礼を述べるも、フェリシアは不思議でならない。
「なにか?」
戸惑うフェリシアに、マリアが問いかける。
実は、マリアが便箋を持ってきたのはわざとだった。倒れるまでの彼女が使っていたもの。それを見れば少しは記憶が刺激されるのではないかと、そんな密かな思惑があったのだ。
しかし残念ながら、特にフェリシアが思い出すことはなかった。
「どちらかというと筆無精な気がしたので。そんなに手紙のやり取りをする相手がいたんですか?」
私じゃないわね、とミッシェルは首を横に振る。
マリアとポリーもさすがに相手までは知らないようだ。
「グレン様に出していたんじゃないの? 去年はほぼ隣国に行ってらしたから、その時に」
「そうなの?」
「結婚してすぐの時も、グレン様はお忙しくてあまり帰ってこなかったって言っていたし」
どうぞ、とフェリシアとミッシェルに茶が出される。もう起きても大丈夫だというのに、安静にしてくださいと言われたためフェリシアはベッドの中だ。
クッションを重ねて背もたれにし、上半身だけはなんとか起きている。
「デュガ・セロは分かる? お隣の国なんだけどそこにフレドリック様……この国の第二王子が視察に行かれて、グレン様もその護衛として一緒だったの」
第二王子の視察は長期にわたるものであったので、当然その計画は前々から立てられていたものだ。結婚二年目だから、などという理由で護衛の騎士がその任務を放棄できるものではない。
「でもその前の年にわたしと伯爵様は結婚したのよね? その時にはすでに視察の話は出ていたんじゃないの?」
隣国への長期視察という仕事が待ち構えているのが分かっている状態で、一体どうして自分達は結婚をしたのだろうか。
そんなに急がなくても、婚約期間を設けるなどしてもよかったのではないだろうか。
「視察へ行くために? どうしても結婚しておく必要があったとか?」
例えば、妻帯者でなければ同行できないだとか、そんな理由でもあったのだろうか。
けれどもしっくりこない。
そうだったとしても、何故フェリシアが妻に選ばれたのか。
「グレン様の一目惚れだってお聞きしました!」
とんだ暴投である。
投げつけたのはニコニコと満面の笑みを浮かべたポリーだ。
その笑顔はとても可愛らしいが、暴投も暴投である。フェリシアは受け損なって危うく飲んでいたお茶を噴き出しかけた。
「ひ……一目惚れ!?」
「はい! 参加された夜会で一目惚れをして、その場で結婚を申し込みされたって!!」
うっそでしょ、と叫びそうになるのをフェリシアは根性で耐える。
そんなことを口にすれば、この可愛らしい少女を嘘つき呼ばわりにしてしまう。それは避けたい、が、それでも到底信じられない。
そうなの? と無言でミッシェルに問う。
すると彼女は仰々しく頷いた。
「王妃様の誕生祝いの夜会でね……突然跪いて……うん……すごかったわ……」
フェリシアはもちろん、その場に共にいたミッシェルだって驚愕した。
噂では知っていても、直接どころか遠目でだって見かけた事があるかどうか。
そんな雲の上の存在と思っていた相手が、突然友人に声をかけてきたというだけでも悲鳴が出そうなのに、まさかの求婚である。
「私とフェリシアはバルコニーにいたんだけど、そうしたらグレン様がいらしたの。どなたかと会われるのかと思って、急いで場所を移そうとしたらあなたの前に立って」
――リンスベルク嬢……いや、フェリシア。どうか私と結婚してください。
「そう言って跪いて……手の甲に口付けまでなさって……もうね、大変だった」
これまで一切浮いた話のなかった伯爵からの求婚。
相手は八つ年下で、そして没落寸前とまでいわれていた貧乏伯爵家の令嬢だ。
「え!? 待ってうちの家って没落しかけてたの!?」
しまったとミッシェルが顔を顰めるが、フェリシアはその表情には気が付かなかった。没落寸前という言葉の方に意識が引っ張られてしまっている。
「没落寸前の貧乏伯爵家で、あげくに本人はこれなんでしょう? なのに社交界で一番人気っていう伯爵様が一目惚れって……ないわぁ……ありえないでしょ……」
「これって、自分のことでしょう、フェリシア」
「自分のことだからよ! こんな平々凡々の、どこにでもいる小娘相手に一目惚れだなんて……嘘じゃないなら、なにか裏があるんじゃない?」
「平々凡々……では、ないと思うわフェリシア」
そんなことないわ、とフェリシアは口を開きかけたが、ミッシェルの後ろでマリアも深く頷いている。自分を幼い頃から知っている二人の意見が同じという事だ。
チラリと視線を動かせば可愛いメイドもこちらをじっと見つめている。
「平凡よね、わたし?」
「フェリシア様はとてもかわいらしいと思います!!」
無邪気な褒め言葉が嬉しいけれども微妙に刺さる。まるっと善意で言ってくれているのは間違いないので、フェリシアは「ありがとう」と笑みを浮かべた。
だが、ポリーは直後にこれまた豪速球を投げ付ける。
「でも、わたしが知っているフェリシア様と今のフェリシア様は、なんだか違う方みたいです」
「……え」
「どちらのフェリシア様も大好きですよ! お優しいのは変わりませんし! ただ、わたしが知ってる……お屋敷に来られてから昨日までのフェリシア様とは……」
「違うの!?」
ミッシェルとマリアの二人を交互に見れば、ややあってこれまた同時に肯定される。
「ちょっと聞くのも怖いんだけど、記憶を失う前のわたしってどんな感じだったの?」
ただ忘れているだけでも恥ずかしいのに、完全に覚えていない自分の話だ。聞こうとする時点で動悸が速くなる。
だが、問いかけた二人は互いに視線を交わすだけで口を開こうとはしない。
「そんなに!? そんなにあれなの!?」
「だからあれって言わないの! そうじゃなくて、なんていうか」
「今のフェリシア様みたいに元気ではな……」
ポリーの言葉が止まる。マリアがポケットから取り出した飴玉を彼女の口に放り込んだからだ。
強制的に黙らせた。そうまでしなければならない程、記憶を失う前の自分はひどかったのだろうかと、フェリシアの背中を一気に汗が流れ落ちる。
「物静かな方だったんです」
「つまり、暗い性格をしていたということですね?」
「マリアさんがせっかく気を遣ってくれたのに、どうして自分で傷を抉るのフェリシア」
暗かったですよ、と笑顔で暴投しそうだったからこそポリーを飴玉で黙らせてくれたのに、マリアの苦労が水の泡だ。
遠くで人の声が聞こえる。
何故だかとても泣きそうな、いやもうすでに泣いているのかもしれない。必死に自分の名前を呼ぶ少女の声につられるように、フェリシアはゆっくりと目を覚ました。
大丈夫? そう声を掛けようとしたのに喉が張り付いて上手く喋る事ができない。
しかし微かな呻き声に、ベッドサイドにいた少女は気付いてくれたようだ。二つに結んだ栗毛の髪を揺らして振り返ると、若草色の瞳を大きく見開きボロボロと大粒の涙を零す。
「……よかった……! ご気分は? どこか具合が悪かったりしませんか!?」
「だい、じょうぶ、です」
何故か分からないが喉がとにかく乾いている。話辛さを感じて眉間に皺が寄れば、少女は急いでベッドサイドに置かれた水差しから水をグラスに注ぐ。
「どうぞ」
起き上がろうとするフェリシアの背を支え、もたれやすいように枕を当ててくれる。
手渡されたグラスの水は冷たすぎず、かといって生温いわけでもない。
寝起きの身体に負担のないように気遣われている。なんたる至れり尽くせり、とフェリシアは感謝の念を抱きながら中身を飲み干した。
「足りますか? もう一度お注ぎしましょうか?」
「……ありがとうございます。お願いします」
年の頃は十二、十三くらいだろうか。随分としっかりしている。
メイド服を着ているのでこの屋敷で働いているのだろう。自分がこの少女の頃はどうしていただろうかと考えるが、途端にこめかみのあたりがツキンと痛む。
「ああ! やっぱりまだ起き上がらない方が!」
「大丈夫、大丈夫です。多分これ寝すぎたからです! わたしは元気ですよ!」
またしても少女が泣き出しそうな表情をするのでフェリシアは慌てる。
「そうだお医者様……あの、わたし、カーティスさんとマリアさんを呼んできますね! ちょっとだけお待ちください!」
「いやほんと、大丈夫なのでお気遣いなく!」
「カーティスさん! マリアさん!!」
少女は部屋の扉を開けて大きな声を出した。
呼んでくるってそこから、と思わず突っ込みそうになる。
今フェリシアがいる部屋は、彼女が知る中でもとても広い。置いてある家具、それこそ今寝かせてもらっているベッドだって明らかに高級そうな代物だ。
つまりはこの屋敷はかなり格上の家であるというわけであり、そんな屋敷で働いているメイドが扉を開け放って大声で呼ぶとはこれ如何に。
これが許されるくらい大らかな家なのか、それともこの少女が規格外なのか。ぼんやりとそう思いながら、そもそもどうして自分はこんな見ず知らずの屋敷で横になっているのかと考える。
「――あれ?」
考えるが、どうやっても思い出せない。
こめかみはまたしても痛むが、ついでと言わんばかりに後頭部も痛い。
なんで、と頭に手をやると、そこで初めて包帯が巻かれている事に気が付いた。
「え!?」
「フェリシア様!」
「よかった、お目覚めになったんですね」
少女の声で駆けつけたのは美しい一組の男女だった。どちらもフェリシアより年上に見える。
フェリシアの名を呼んだのは、赤毛混じりの茶色の髪の女性だ。
メイド服を着ているので少女の先輩なのだろう。おそらく彼女が「マリアさん」で、執事服を着た金髪の男性がおそらく「カーティスさん」。
美形の執事とメイド、そして随分と可愛らしい小さなメイドという、なんというか美形の圧がすごいなと、フェリシアは素直にそう思った。
「すぐにヘンドリック先生をお呼びしますね」
扉の外にもう一人メイドの姿が見える。彼女に向かい指示を出す執事に、フェリシアは「大丈夫です」と声をかけようとするが、それより先にマリアと呼ばれたメイドに抱き付かれた。
「よかった……本当によかった……!」
「あの……?」
「二日間ずっと眠っていて……もう起きないんじゃないかと」
「え! 二日!? わたしそんなに寝てたんですか!?」
寝起きにしては異様に喉が渇いていたが、なるほどそれが原因……と一瞬納得する。
しかし、それどころではないとフェリシアは狼狽える。
「なんでそんなに寝て……? しかも人様のお屋敷で!?」
その声にビクリとマリアの身体が震えた。ゆっくりと身を起こし、フェリシアを正面から見つめる。
「……フェリシア様?」
「あの、ええと……わたしの名前をご存知ということは、どこかでお会いしているんですよね? 二日間もお世話になっている身でなんて恩知らずって話なんですけど……お名前をお聞きしてもよろしいですか?」
マリアの顔がどんどんと険しくなる。それどころか、こちらの様子を見守っていた執事と少女までもが顔を青くして固まってしまう。
まずい、これはとってもまずい、とフェリシアも釣られるように青くなる。
――そりゃあこれだけお世話になってる上に、相手はわたしの名前知ってるのにこっちは知らないって失礼すぎるものね!!
ひええええ、と内心おののきつつフェリシアは素直に自分の状態を伝える事にした。
取り繕おうとしたところで無駄である。なにしろ繕えるものがない。
「すみません、本当に失礼にも程があるんですけど、わたし、どうしてこんな状況なっているのかさっぱりで!」
「……二日前に裏庭で倒れていらしたんです」
いち早く動揺から抜け出した様子の執事が口を開く。
「どうして!?」
「目下調査中ですがご安心ください。今は屋敷の警備を強化していますし、これ以上危険な目には遭わせません。旦那様にもすでに連絡済みです。明日中にはご帰宅されますので、それまでもう少しご辛抱ください」
危険とは、となったところで賊や不審者の可能性かと思い至る。
いやまさかそんなわたし如きが、と思うもむしろそれは……
「わたしなのでは!?」
見ず知らずの屋敷の裏庭で倒れていただなんて、フェリシアこそが不審者に他ならない。
「え、でも待って、どうしてこちらのお屋敷に入り込んでたのか分からない! えええええ……え、ほんとに分かんない。なんで?」
どれだけ考えてもなにも浮かばない。
そもそもからして、こんな立派な屋敷に入ろうと思った動機はなんなのか。
「……まさかこちらのご子息に一目惚れ……!? ってそんなことあるわけないわよね。だってその相手がさっぱりこれっぽっちも浮かばないんだもの!」
「奥様!」
「ああああ、そうだ! そうですよ、こちらのお屋敷の奥様は!? こんな不審者の塊でしかないわたしがいて不安で胸を痛めてらっしゃるんじゃ!? って違う逆よ、むしろこんなわたしを二日間も介抱してくださるだなんて、こちらの奥様は聖人かなにかですかね!? 旦那様がご不在の中お詫びとお礼のしようもない……!」
うわわああ、とフェリシアは文字通り頭を抱える。
屋敷の規模もさることながら、こんな自分にも気遣いを見せてくれる使用人がいる時点でこの家の主と夫人の人柄がよく分かる。人徳がすごい、と感動と同時に、いつまでもこうして世話になっているのが心苦しくて仕方がない。
「せめて、奥様にお礼の言葉だけでもお伝えしたいんですが」
「ご自分の事はお分かりですか?」
肩こそ掴まれていないが、そうしてきそうな程に執事の顔が険しさを増している。
分かりません、と反射的に口走りたくなるくらい恐ろしいが、そんな嘘を吐こうものなら一体どうなるか。事態の悪化しか目に見えず、フェリシアは大きく何度も首を縦に動かした。
「フェリシア・リンスベルクと申します。父はクレイグ・リンスベルク伯爵で……」
「ポリー、父を呼んできてくれ」
執事はフェリシアの言葉を遮って背後で震えている少女にそう声をかける。
しかし、ポリーと呼ばれた少女はボロボロと涙を零したままピクリともしない。
「ポリー」
執事――カーティスはもう一度名を呼び、ポリーの目線に合わせるようにその長身を折り曲げた。
「ポリー、私は今から急いでヘンドリック先生を連れてくる。ポリーは父に奥様の様子を伝えて、その後は私が戻るまで父とマリアと三人で奥様を守っていてくれ。できるな?」
「……っ、はい!」
ポリーはぐしゃぐしゃの顔を両の袖口で拭うと、フェリシアに向けてピョコンと一礼して部屋を飛び出した。
「あの……奥様に……お礼と、ご挨拶を……」
「奥様は貴女です、フェリシア様……ねえフェリシア、私のことは分かる?」
「マリアさん、と仰るのは……」
会話からそう察する事はできるが、それだけだ。
彼女と一体どういう関係なのかまでは分からない。ただ、彼女が呼びかける声も表情も、ただのメイドと伯爵家の娘というだけではないのだと訴えてくる。
それでもやはり、フェリシアの記憶に彼女は存在しないのだ。
マリアもまた大粒の涙を零す。その自覚すらないのかもしれない。ただただ、フェリシアの顔を見つめたまま泣き続ける。
まずい、を通り越している。
およそフェリシアでは到底考えつかないような事態に陥っているらしい。
ドクドクと心臓の音が耳に響く。背中はすでに汗で濡れているし、潤ったはずの喉もすっかり乾いてしまった。
「色々とご心配ではあるでしょうが、とにかく今は横になってください。すぐに父……家令のハンスが参りますのでなんでも申しつけください。私はこれから急ぎ医者を呼んで参ります」
ただ涙を零し続けるマリアを置いて、カーティスが冷静に話しかけてくる。
「……一つ、お尋ねしてもいいですか……?」
「はい、なんでしょう奥様」
ひい、と堪らず声が漏れた。彼はフェリシアを見据えて呼んだのだ、奥様と。
「わたしが……奥さま、なんです、か?」
「そうです」
フェリシアが怯えきった状態で尋ねたのは誰の目からでも明らかだ。
当然彼も気付いているだろうに、なのに一刀両断である。うっわこの人容赦ない! と頭の片隅でそう突っ込む自分がいるが、今はそこよりさらに突っ込むべき点がある。
「……どなた、の……?」
「――グレン・ハンフリーズ伯爵の奥様です、フェリシア様」
チ、チ、チ、と時を刻む音が室内に満ちる。
それが十を超えた辺りでフェリシアは叫んだ。
「社交界きっての美形って大騒ぎされてる伯爵様とわたしが結婚してるなんて嘘でしょー! ありえませんって!」
フェリシア・リンスベルク伯爵令嬢、もとい、フェリシア・ハンフリーズ伯爵夫人。
それが今のフェリシアの社会的な立場であるが、寝ている間にその記憶は綺麗さっぱり消え失せていた。
一章 奥様は記憶を失くす
グレン・ハンフリーズ伯爵といえば、さして社交界に興味のなかったフェリシアですら、その名を知っているほどの有名人だ。
夜の闇を溶かしたような黒い髪、それとは真逆に雲一つない青空のように澄んだ瞳。
キリッとした眉に切れ長の瞳はともすれば威圧感を与えてしまいそうだが、目、鼻、口、とそれぞれの絶妙なバランスがその圧を打ち消している。
まるで絵画から出てきたかのよう、とは陳腐ではあるけれど、彼の美しさを端的に表すには一番だろう。
長身で、一見すると細身にも見える。しかし彼は、このカゼルタ国の第二王子であるフレドリックの専属護衛であるからして、黒を基調とした騎士服の下には鍛え上げられた身体が隠れている。
性格は真面目で、権力におもねる事なく、それが民衆にとって悪であるならば王族相手でも否を唱える。強者に強く、弱者には優しい。
となれば、当然その人気は絶大だ。彼の妻の座を狙う女性は星の数程いる。
だからだろうか、唯一彼が冷たいというか、若干の塩対応になるのが妙齢の女性に対してだった。
しかしながら、これがまた恋する乙女達には好感度を上げる事にしかならない。
その冷たさがいい、と大騒ぎ。
こういった面も含めて、「氷の騎士」と呼ばれている。
「……そんな伯爵様と、わたしが……嘘でしょう?」
フェリシアはもう何度目になるか分からないが、それでもなお同じ言葉を繰り返してしまう。
淡い茶色の栗毛の髪は陽の光を浴びれば時折金色に見えなくもないが、結局のところ淡褐色の瞳が地味さを主張する。
顔立ちは「可愛らしい」と褒めてもらえる事もあるが、そう言ってくれるのは総じて年上のご夫人達であるので、娘や孫を褒めるのと同義だろう。
他人を不快にさせるとまではいわないが、かといってその美しさで虜にできるわけでもない、至って普通の顔だ。背だって、低くもなければ高くもない。
あまりにも平凡、それがフェリシアだ。どうしたって信じられる話ではない。
「嘘じゃないわ」
現状を受け入れられず呆然とするフェリシアに、否定の言葉がかけられる。
声の主は緩やかに波打つ金色の髪を持つ令嬢だ。普段であれば猫を思わせるような若草色をした瞳だが、今は微かに潤んで色を変えている。
ミッシェル・ベリング。
フェリシアと同じ伯爵家の令嬢であり、幼い頃から交流のあった友人だという。
彼女はフェリシアが裏庭で倒れたと聞いた日から連日見舞いに来てくれていて、眠り続けるフェリシアをとても心配していたそうだ。
今日も彼女は、執事のカーティスが医者を連れて来たのと同じ時刻に偶然屋敷を訪ねていた。
医者の診察が終わり、フェリシアの記憶が失われているという事が確定した。
ならば、昔からの付き合いであるミッシェルに会えばなにか思い出すのではないかと、そんな期待と共に彼女はフェリシアの前に姿を見せた。
「どちら様ですか?」
まさかそんな繋がりのある相手だとは思ってもいないフェリシアの言葉に、ミッシェルはその場で泣き出してしまった。
今はどうにか落ち着きを取り戻したが、目元が赤く潤んでいるのはその名残である。
「でも……でも何度教えてもらっても、やっぱりピンとこないわ! だって接点がなさすぎじゃない!?」
フェリシアの怪我は後頭部にたんこぶができていたのと、軽い擦り傷があった程度。それでも頭部の擦り傷は出血が目立つ。
包帯を巻いていたのは、あまりにも心配しすぎて倒れそうになっていたマリアとポリーを安心させるための意味合いが深い。包帯で処置をしているから安心していい、というものだ。
怪我は軽傷。三日経った今はもう傷も塞がっており、怪我の痕が残る事もないだろうというのが医師の診察結果である。
この点についてはフェリシア自身もほっと胸を撫で下ろした。
だが、問題は記憶の方である。
「全く思い出せない?」
「これっぽっちも思い出せない。そもそも伯爵様の顔すら浮かばないの」
フェリシアが失った記憶は直近の三年分。
それはフェリシアが顔も知らない伯爵様と結婚してからの年数と同じだ。
「覚えていることもあるのよね?」
「そうね、まず自分のことは覚えているし、両親のことも……」
覚えている。目覚めてすぐに自分の名前を名乗った時に父の名も告げた。
けれど、猛烈な違和感が今はフェリシアを襲う。
ツキン、と鋭い痛みがこめかみに走り顔を顰めれば、ミッシェルが椅子を鳴らして立ち上がった。
「大丈夫! 大丈夫よ心配しないで、ほんの一瞬だけだから!」
「お医者様は無理をしちゃだめって言っていたわ。休んで、フェリシア」
「でも二日も寝続けてたんでしょう? すっかり目が冴えちゃったし、眠気なんて遥か遠くよ」
そうだ、とフェリシアの脳裏に一つの案が浮かぶ。
「とりあえず、覚えていること……人とか、そういうのを書き出してみたらいいんじゃないかしら! そうしたら、なにを覚えていてなにを忘れているかはっきりするし、その途中で思い出すこともあるかもしれない!」
覚えていること、忘れていること、そのどちらかに規則性があれば、そこから新たな事実が分かるかもしれない。
そしてなによりも、フェリシア自身が何をどこまで覚えているのかを確認したかった。
フェリシアに無理はさせたくないとミッシェルは渋っていたが、最終的にその案に乗ることにした。思考の整理は確かにした方がいいだろうと彼女も思ったのだ。
「でも、少しでも具合が悪くなったらそこで一旦終わりだから! 絶対に無理をしちゃだめよ、フェリシア!」
「ありがとうミッシェル。無理、って思ったらすぐに手を挙げて知らせるわ」
彼女については微塵も思い出せないけれど、一緒にいてくれることにとても安心する。
記憶は失っても、心は覚えているのだろう。
フェリシアはそれがとても嬉しいと思った。
◆◆◆
なにか書くものが欲しい。
そう言ってマリアに頼んで用意してもらったのは、四隅に小花が描かれた可愛らしい便箋だった。
なんでもフェリシア自身の持ち物であるらしい。
「わたし、こんな便箋を持っていたんですか?」
「フェリシア様はいつも、街に出かけると素敵な便箋と封筒を買われてました! 他にもたくさんありますよ!」
お茶の準備をしながらポリーが元気に教えてくれる。ありがとうと礼を述べるも、フェリシアは不思議でならない。
「なにか?」
戸惑うフェリシアに、マリアが問いかける。
実は、マリアが便箋を持ってきたのはわざとだった。倒れるまでの彼女が使っていたもの。それを見れば少しは記憶が刺激されるのではないかと、そんな密かな思惑があったのだ。
しかし残念ながら、特にフェリシアが思い出すことはなかった。
「どちらかというと筆無精な気がしたので。そんなに手紙のやり取りをする相手がいたんですか?」
私じゃないわね、とミッシェルは首を横に振る。
マリアとポリーもさすがに相手までは知らないようだ。
「グレン様に出していたんじゃないの? 去年はほぼ隣国に行ってらしたから、その時に」
「そうなの?」
「結婚してすぐの時も、グレン様はお忙しくてあまり帰ってこなかったって言っていたし」
どうぞ、とフェリシアとミッシェルに茶が出される。もう起きても大丈夫だというのに、安静にしてくださいと言われたためフェリシアはベッドの中だ。
クッションを重ねて背もたれにし、上半身だけはなんとか起きている。
「デュガ・セロは分かる? お隣の国なんだけどそこにフレドリック様……この国の第二王子が視察に行かれて、グレン様もその護衛として一緒だったの」
第二王子の視察は長期にわたるものであったので、当然その計画は前々から立てられていたものだ。結婚二年目だから、などという理由で護衛の騎士がその任務を放棄できるものではない。
「でもその前の年にわたしと伯爵様は結婚したのよね? その時にはすでに視察の話は出ていたんじゃないの?」
隣国への長期視察という仕事が待ち構えているのが分かっている状態で、一体どうして自分達は結婚をしたのだろうか。
そんなに急がなくても、婚約期間を設けるなどしてもよかったのではないだろうか。
「視察へ行くために? どうしても結婚しておく必要があったとか?」
例えば、妻帯者でなければ同行できないだとか、そんな理由でもあったのだろうか。
けれどもしっくりこない。
そうだったとしても、何故フェリシアが妻に選ばれたのか。
「グレン様の一目惚れだってお聞きしました!」
とんだ暴投である。
投げつけたのはニコニコと満面の笑みを浮かべたポリーだ。
その笑顔はとても可愛らしいが、暴投も暴投である。フェリシアは受け損なって危うく飲んでいたお茶を噴き出しかけた。
「ひ……一目惚れ!?」
「はい! 参加された夜会で一目惚れをして、その場で結婚を申し込みされたって!!」
うっそでしょ、と叫びそうになるのをフェリシアは根性で耐える。
そんなことを口にすれば、この可愛らしい少女を嘘つき呼ばわりにしてしまう。それは避けたい、が、それでも到底信じられない。
そうなの? と無言でミッシェルに問う。
すると彼女は仰々しく頷いた。
「王妃様の誕生祝いの夜会でね……突然跪いて……うん……すごかったわ……」
フェリシアはもちろん、その場に共にいたミッシェルだって驚愕した。
噂では知っていても、直接どころか遠目でだって見かけた事があるかどうか。
そんな雲の上の存在と思っていた相手が、突然友人に声をかけてきたというだけでも悲鳴が出そうなのに、まさかの求婚である。
「私とフェリシアはバルコニーにいたんだけど、そうしたらグレン様がいらしたの。どなたかと会われるのかと思って、急いで場所を移そうとしたらあなたの前に立って」
――リンスベルク嬢……いや、フェリシア。どうか私と結婚してください。
「そう言って跪いて……手の甲に口付けまでなさって……もうね、大変だった」
これまで一切浮いた話のなかった伯爵からの求婚。
相手は八つ年下で、そして没落寸前とまでいわれていた貧乏伯爵家の令嬢だ。
「え!? 待ってうちの家って没落しかけてたの!?」
しまったとミッシェルが顔を顰めるが、フェリシアはその表情には気が付かなかった。没落寸前という言葉の方に意識が引っ張られてしまっている。
「没落寸前の貧乏伯爵家で、あげくに本人はこれなんでしょう? なのに社交界で一番人気っていう伯爵様が一目惚れって……ないわぁ……ありえないでしょ……」
「これって、自分のことでしょう、フェリシア」
「自分のことだからよ! こんな平々凡々の、どこにでもいる小娘相手に一目惚れだなんて……嘘じゃないなら、なにか裏があるんじゃない?」
「平々凡々……では、ないと思うわフェリシア」
そんなことないわ、とフェリシアは口を開きかけたが、ミッシェルの後ろでマリアも深く頷いている。自分を幼い頃から知っている二人の意見が同じという事だ。
チラリと視線を動かせば可愛いメイドもこちらをじっと見つめている。
「平凡よね、わたし?」
「フェリシア様はとてもかわいらしいと思います!!」
無邪気な褒め言葉が嬉しいけれども微妙に刺さる。まるっと善意で言ってくれているのは間違いないので、フェリシアは「ありがとう」と笑みを浮かべた。
だが、ポリーは直後にこれまた豪速球を投げ付ける。
「でも、わたしが知っているフェリシア様と今のフェリシア様は、なんだか違う方みたいです」
「……え」
「どちらのフェリシア様も大好きですよ! お優しいのは変わりませんし! ただ、わたしが知ってる……お屋敷に来られてから昨日までのフェリシア様とは……」
「違うの!?」
ミッシェルとマリアの二人を交互に見れば、ややあってこれまた同時に肯定される。
「ちょっと聞くのも怖いんだけど、記憶を失う前のわたしってどんな感じだったの?」
ただ忘れているだけでも恥ずかしいのに、完全に覚えていない自分の話だ。聞こうとする時点で動悸が速くなる。
だが、問いかけた二人は互いに視線を交わすだけで口を開こうとはしない。
「そんなに!? そんなにあれなの!?」
「だからあれって言わないの! そうじゃなくて、なんていうか」
「今のフェリシア様みたいに元気ではな……」
ポリーの言葉が止まる。マリアがポケットから取り出した飴玉を彼女の口に放り込んだからだ。
強制的に黙らせた。そうまでしなければならない程、記憶を失う前の自分はひどかったのだろうかと、フェリシアの背中を一気に汗が流れ落ちる。
「物静かな方だったんです」
「つまり、暗い性格をしていたということですね?」
「マリアさんがせっかく気を遣ってくれたのに、どうして自分で傷を抉るのフェリシア」
暗かったですよ、と笑顔で暴投しそうだったからこそポリーを飴玉で黙らせてくれたのに、マリアの苦労が水の泡だ。
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