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1巻
1-2
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そうしてしまったのはフェリシアなので、これについては自業自得である。
「待って。ねえ待って、これってかなりまずいんじゃないかしら!?」
「なにが?」
「伯爵様が結婚を申し込んでくれたのって、その暗……大人しい時のわたしでしょう? なのに今のわたしはこんなじゃない! 離婚って言われる可能性も……」
「ないわ」
「ありません」
「グレン様はそんなこと仰いません!!」
ミッシェル、マリア、ポリーと三段階で否定が飛んでくる。
三人の伯爵への信頼度が高い。それくらい人格的に優れている人なのだと察する事ができる。
それに安心するが、そうなると余計にそんな優れた相手と結婚している自分が信じられない。
「あ、なるほど分かった!」
ポン、と脳裏に閃く一つの答え。
途端、ミッシェルとマリアが微妙な表情を浮かべる。
口にこそ出さないが「絶対に違うと思う」とフェリシアを見つめる視線が物語る。一瞬迷うが、謎の負けん気でフェリシアは己の考えを披露する。
「契約結婚でしょ、これって!!」
「小説の読み過ぎよ、フェリシア」
「違います、フェリシア様」
呆れきった顔での突っ込みは容赦なく心に刺さる。うええええ、と泣きそうになるフェリシアを見つめつつ、一人意味の分からないポリーは首を傾げていた。
◆◆◆
自信満々の答えは大間違いだと否定され、ちょっぴりしょんぼりとしてしまったフェリシアであるが、ポリーが淹れてくれたお茶はとても美味しかった。
一緒に出されたお菓子も、フェリシアが好きな幾重にも生地の重なったパイ。サクサクとした食感と果物たっぷりのクリームを食べ終えた頃には、すっかり気分は持ち直していた。
「なんだか目的が逸れちゃった。よし、話を戻しましょう」
ポリーとマリアが片付ける横で、フェリシアとミッシェルは当初の目的である「誰を覚えていて、誰を忘れているのか」の確認を始める。
まずミッシェルが人名を挙げ、その人物について覚えているかどうかをフェリシアが答える。
それを真ん中に線を引いて分けた便箋に書き、振り分け作業を続ける事しばし。
「できた!」
「元気に言うようなものではないと思うけど」
「これって結局どうなのかしら? ミッシェル分かる?」
すっかり打ち解けてしまったフェリシアとミッシェルは、肩を寄せ合って書き写した便箋を見る。
「そうね……覚えていないのは、やっぱりこの三年間で知り合った方がほとんどだとは思うんだけど……でも……」
右側が覚えている、左側が覚えていない、と振り分けた人名。
この三年の間で知り合った人名は全て左側にある。
しかし、何故かその一覧の中に三年以上前から知っているはずの人名まであるのだ。
「ミッシェルとは子供の頃からの友人でしょう? マリアさんとは……いつから?」
「私はフェリシア様がまだお小さい時にご実家でお世話になっていたんです」
フェリシアが生まれた直後に雇われ、十四歳になるまでメイドとして働いていた。その後、一旦故郷に帰っていたが、フェリシアがグレンの元へ嫁ぐ事になり再度メイドとして戻ってきたそうだ。
「一度退職したのに、わたしの結婚のせいでわざわざ呼び戻して来てもらったの!?」
なのに、そんな相手を完全に忘れてしまっている。
「とんだ恩知らずじゃないわたし!!」
「不慮の事故ですから」
「でもよかったの? って今さらだけど、無理矢理来てもらったりしていない? ご家族とか、大切な方がいたんじゃないの?」
「家族は元気に暮らしています。特に親密な関係のある相手もいません。むしろ、私を覚えていて、もう一度お傍に呼んでいただけて嬉しかったんです。無理矢理なんて、そんなことは決してありえませんよ」
「だったら嬉しいわ……マリアさんが来てくれて、絶対に嬉しかったと思う。今でもそうだもの、こうして近くにいてくれるととても安心する」
ミッシェルにしてもマリアにしても、二人との記憶は今のフェリシアにはない。
けれど、こうして近くにいてくれるだけでとても安心するのだ。それだけ付き合いも長く、心を許す存在だったのだろう。
しかしそうなると謎は深まる。
どうしてそんなにも大切であったろう存在を忘れてしまっているのか。
「単に結婚してからの記憶がないんだとばかり思ってたけど……違うのかなあ?」
「それは確かね。私とマリアさん以外にも、結婚する前から仲の良かった友達や知り合いの名前もあるもの。それに……」
フェリシアの生家と同じ姓を持つ男女二人の名。それが記されているのは左側だ。フェリシアにとっては叔父夫婦であり、かなり深く交流もしていたらしい。
「どうしよう……欠片も思い出せないわ」
身内のことまで忘れているなんて。
一体どういう基準で振り分けられているのか、自分の事であるのにどれだけ考えても分からない。
「ご両親のことは、なにか思い出した?」
「うーん……名前だけかなあ……顔はぼんやり? くらい」
あげく、両親についての記憶もこの程度だ。思い出そうとすると、どうにももやもやとした気持ちになってしまう。
忘れてしまったから、というだけではないような、そんな気がして落ち着かない。
「そういえば、わたしがこんな状態だってこと、父と母は知っているの?」
娘が嫁ぎ先で倒れたあげく、丸二日目を覚まさずにいたのだから連絡くらいはいっているだろう。
フェリシアが寝ている間に来たのか、それともこれからなのか。
「お伝えはしています。明日グレン様がご帰宅されるので、ご実家の方もそれ以降にお見舞いにいらっしゃるかと」
ん? とフェリシアは首を傾げる。マリアの説明がなんだか妙だ。
「両親」ではなく「実家」という言い方をどうしてするのか。
グレンが不在であるから見舞いを見合わせているのもどうなのだろう。せめて様子を尋ねる手紙の一つもあっていいのではないか。しかしそれすらもフェリシアの元には届いていない。
ゾワリとした不快感が急激に腹の底から湧き上がる。この瞬間、初めてフェリシアは記憶を思い出したくないと思った。
「フェリシア、大丈夫? なんだか顔色が悪いわ」
「平気平気。それより一つマリアさんに聞きたいんですけど……わたしって裏庭で倒れていて、その原因はまだわかっていないんですよね?」
「はい。二日前の昼過ぎ、お茶の時間になってもどこにもいらっしゃらなくてお捜ししていたんです……そうしたら、裏庭に生えている木の下で倒れているのをエルネス……庭師が気付いて、それからすぐにお医者様をお呼びして」
「今こうなっているのよね……」
「なにか思い出したの?」
「これまたさっぱり」
ミッシェルの問いにフェリシアは首を横に振る。
「すでに屋敷と周辺の調査を行っています。警備の数も増やしていますから、どうか安心してくださいね」
「カーティスさん? もそう言ってましたもんね、うん、そこは心配してないです。ありがとう」
伯爵家の夫人がその敷地内で倒れていた。何者かによる犯行を疑うのは当然だとフェリシアも思うが、どうにも誰かに襲われたとは考えづらい。
なにしろここ百年近く、周辺諸国含めて平和な時代が続いている。
ハンフリーズ伯爵家も誰かに恨みを買うような家ではないはずだ。
かろうじて覚えているフェリシアの記憶でしかないが、かの伯爵様はそういう立派な、誰からも尊敬と信頼の念を向けられる存在であった。
もしかすると、そういった人気を疎ましく思う人間からの逆恨み的なものはあったかもしれないが、伯爵家ともなれば不審者の侵入を防ぐ程度の警備は敷いていることだろう。
なので、フェリシアが誰かに襲われて、その結果記憶を失ったとはどうしても考えられないのだ。
「自分で言うのもなんだけど、それこそ木から落ちたとか石に躓いたとか、そんなくっだらない原因だと思うの」
「そうね……とっても残念だけど私もその可能性が高いと思う」
ミッシェルは否定するどころか深く頷いている。
「フェリシア様、木登りできるんですか?」
「……小さい頃はよく登ってましたね……そういえば」
その会話を拾ってポリーが質問すれば、懐かしむような、それでいて当時の心労を思い出しているのか、どこか遠い目をしてマリアが答える。
言い出したのは自分だが、誰からも否定されないのはなんだかちょっと複雑な心境になってしまう。はあ、と思わず溜め息を零せばまたしてもミッシェルとマリアが顔色を変える。
「やっぱり顔色が悪いわ。私が来た時はもっと元気そうだったもの」
「平気だってば、心配しないで今のは」
「心配するに決まっているでしょう! ずっと眠り続けて、やっと目覚めたと思ったら記憶がないって言い出したのよ!」
「横になってください」
マリアは慌ててフェリシアをベッドへ寝かせる。本当に大丈夫なのに、と口を開こうとするが急激に疲労がフェリシアを襲った。
自分で思っているよりも疲れているのかもしれない。
「目覚めてすぐなのにたくさんお喋りしたからかしら……ごめんなさい」
「ううん、色々聞けてよかった。ありがとう、ミッシェル」
「またお見舞いに来るわね。なにか持ってきて欲しいものとか、ある?」
「遊びに来てくれるだけで充分よ。ああでも……よかったら、明日も来てもらえたら嬉しいんだけど」
ミッシェルは一瞬驚いたように目を丸くするが、すぐにフェリシアの意図を把握してニコリと笑う。
「伯爵様とお会いするのが恥ずかしいんでしょ」
「だってえええええええ……」
「お噂はかねがね、の美貌の騎士様だものねー! 期待していいわよ、想像している以上に本物はもっとすごいから」
「追いうちをかけるのはやめてくれる!? 今でさえ緊張して大変なのに!」
「はいはい分かりました。すっかり子供の頃のあなたに逆戻りだものね、そのままお会いしたら伯爵様も驚くと思うし。あなたの迂闊な発言は、しっかり補ってあげる」
「迂闊……かしら?」
「迂闊よ」
「そうですね」
「わたしもお手伝いします!」
幼馴染みとメイド二人のあたたかい言葉。それだけならば大事にされていると思えるはずなのに、何故か盛大に突っ込みをいれられている気分になる。
「子供の頃みたい……?」
あげく子供扱いだ。それは不服だと主張するが、これまた容赦なく返される。
「子供の頃のあなたが、そのまま大きくなったのが今のあなたみたい」
うんうんとマリアも頷いている。しかし、そうなると新たな疑問が浮かぶ。
「……どうしてわたしは、子供の頃と違う性格になってしまったのかしら?」
「その辺りはまた明日お話しましょう。どんどん顔色が悪くなっています。お休みください」
マリアの手がフェリシアの両目を優しく塞ぐ。少し冷たく感じるが、その冷たさがとても心地よい。そう思うということは、微熱でも出ているのかもしれない。
「こんな状態でごめんなさい。本当に今日はありがとうミッシェル」
「さっきも言ったけど無理はしないで。明日また会いに来るから、それまでゆっくり休んでね」
別れの挨拶を聞いた所までは覚えているが、その後はまるで気絶でもしたかのようにフェリシアの意識は途絶えた。
二章 奥様は旦那様の心を抉る
次にフェリシアが目覚めた時はすでに翌日だった。
ミッシェルをベッドの中から見送って眠ってしまったあと、そのままずっと寝ていたようだ。
夕食を食べ損ねてしまい、寝起きから空腹に苛まれる。
だが、それ以上にやるべきことがあった。
今日は、まだ見ぬどころかすっかり忘れてしまった夫、グレンが帰宅する日である。
国事に携わる彼だ、昼に戻るのかそれとも夜になるのか今のフェリシアには分からない。万が一、でそれが朝になる可能性だってある。となると、いつまでも寝起きのままではいられない。
約二日、いや昨日も途中で寝てしまったので丸三日も身体を清めていないのだ、なんとしても湯浴みをして綺麗な状態で夫を出迎えたい。
これっぽっちも自覚は持てないが、なんにせよこんな薄汚れた状態で会うのは妻だとかそんな理由以前の問題だ。
フェリシアはベッドの横に置かれた呼び鈴を鳴らす。
するとすぐにポリーが来てくれた。
「おはようございます、フェリシア様。ご気分はどうですか? すぐに朝食をお持ちしますね!」
「おはようポリー。お腹が空いてるから是非、って言いたい所なんだけど、それより前に一つお願いがあるの」
「なんでしょう?」
「朝早くからで申し訳ないんだけど、お湯の用意をしてもらえないかしら?」
ポリーはすぐにピンときたようだ。急いで準備しますね、と跳ねるように部屋を後にする。
なんだか張り切って夫を迎えるために頼んだ、と勘違いされたような気がする。猛烈な気恥ずかしさに襲われつつ、フェリシアは大人しく待つしかなかった。
そうやって羞恥に耐える事しばし、準備ができたとポリーが戻ってくる。浴室に案内してもらうとそこにはマリアが控えており、二人がかかりでピカピカに磨き上げられた。
その後遅めの朝食を摂り、空腹もこれで解消された。
あとは部屋でグレンの帰宅を待つだけだが、寝起きで風呂を済ませたからか若干のふらつきを覚えてしまう。三日も寝ていたのだから、体力の低下が著しいのかもしれない。
ちょうどヘンドリック医師が往診に来てくれたのもあり、フェリシアは再び寝間着に着替えてベッドの中へと逆戻りになってしまった。
「怪我はもうほぼ大丈夫のようですね。ですが、無理は禁物です。焦らずゆっくり回復に努めましょう」
フェリシアとしてはもう大丈夫だと思うのだが、医師の言葉は絶対だ。
倒れていた原因も今の所まだ不明なので、フェリシアが気付いていないだけでなにかしらの不調があるかもしれない。それによりまた倒れてしまっては大事になってしまう。
今回は運よく平たい地面の上であったが、これが階段付近で倒れていたとしたら。そのまま下まで転がり落ちでもしていたら、頭のこぶと擦り傷程度では済まなかっただろう。
ベッドにいたくないのは単に飽きたからだ。
そんな理由で医者の言葉を無視するなど言語道断なので、フェリシアは退屈しのぎに本を読んで時間を潰す。昼を過ぎればきっとミッシェルも来てくれる。それまでの辛抱だ。
自室の本棚にあったという恋愛小説の本。
あまりこういった内容の本を好んで読んでいた記憶はないが、いつの間にか趣味が変わったらしい。結婚したくらいなので、恋愛話に興味を持ったのは分かるが、今のフェリシアにはあまりその楽しさが分からない。文字を目で追うばかりで文章が頭に入ってこない。
パラパラと頁を捲っては戻る、を繰り返しているとふと外が騒がしいのに気が付いた。
ミッシェルが来てくれたのかもしれない。
でも、それにしては人の声が多いような気がする。すでに昨日来ているのだから、そんなに騒ぐ事もないはずだ。なんだろう、とフェリシアは読んでいた本をサイドテーブルへと置き、ポリーが用意してくれていた肩掛けを羽織る。
その直後、扉がノックされた。
「はい、どうぞ」
フェリシアはミッシェルが入ってくるのだとばかり思っていた。
だが、扉を開けて入ってきたのは驚く程に美しい男性だった。
黒地を基調とした騎士服に身を包んだ長身の美形。
仮にフェリシアが記憶を失っていなかったとしても、絶対に知人ではないと断言できる。
それ程までに、縁遠い容姿の相手の出現にフェリシアはしばし固まってしまうが、そんな相手の口から「フェリシア」と確かに自分の名が呼ばれ、我に返る。
信じられないがどうやら知り合いであったらしい。なのでフェリシアも慌てて口を開いた。
「どちら様ですか!?」
つい大きな声になってしまった。声の大きさに驚いたのか、はたまたフェリシアの発した言葉に傷付いたのか、騎士は目に見えて狼狽えた。
彼の背後にはカーティスとマリア、そして金髪のこれまた見知らぬ青年が一人。
遠目からでも分かる仕立てのよい服に品のある風貌。本当にこんな格上の人達と交流があったのだろうかと、フェリシアの思考はグルグルと空回りする。
沈黙と、そして落胆の空気が室内に満ちるのがとても辛い。
ああしまった、とフェリシアは慌てて言葉を続けるが、それはさらなる事態の悪化を招いた。
「すみません、わざわざ来てくださったということは、わたしの知り合いなんですよね? ええと、すでにご存知だと思うんですけど、今ちょっと、色々と忘れてしまっておりまして」
できるだけ明るい声でそう告げる。少しでも場を和ませようと、えへへと笑ってさえ見せるが空気は重さを増すばかりだ。
黒髪の騎士からは完全に表情が消えている。周囲の人間は気の毒そうな視線を彼に向けており、その様子からフェリシアはここでようやく気が付いた。
「もしかして、伯爵様ですか!?」
そういえばミッシェルが言っていたではないか、想像している以上に本物は物凄いと。
確かにフェリシアの貧相な想像力では思い浮かびもしなかった美貌だ。というか、こんなにも美しい相手と人生で関わり合いを持つなど思いも寄らない。
一体どうして、本当にどうして、とフェリシアの混乱は増すばかりだ。
そんなフェリシアの元へ美形の騎士こと――夫であるグレン・ハンフリーズ伯爵が近付いてくる。ベッドの横に立ち、もう一度フェリシアの名を呼ぶ。
「君が大変な目に遭っている時に傍にいなくてすまない。私は貴女の夫であるグレンだ。これからはもう片時も離れない。常に貴女と共にいる」
フェリシアの手を持ち上げると、祈るように額を重ねる。
その姿はまるで絵画のようで、フェリシアは思わずポカンと口を開けて見つめてしまう。
我が身に起きるにしては、とてもじゃないが信じられない状況だ。信じるもなにも、今まさに目の前で起きている光景であるからしてフェリシアの混乱具合は限界を突破している。
それ故に、とんでもない暴言が飛び出してしまったのだ。
「社交界きっての美形って大騒ぎされてる伯爵様が夫だなんて、やっぱり嘘でしょー!? ありえませんって! まだ契約結婚ですって言われた方がしっくりくるわ!!」
重苦しかった部屋の空気は、この発言により完全に凍り付いてしまった。
◆◆◆
やらかしてしまった。それも盛大に。
誰一人として言葉も出なければ、指先一つ動かせやしない。
フェリシアの背中は冷や汗でびっしょりだ。今程記憶を失いたいと思った事はない。
「ひとまず、元気そうでよかったじゃないか」
永遠にも感じられた沈黙を破ったのは金髪の青年だった。
固まったままのグレンの肩を叩き、フェリシアには柔らかい笑みを向ける。紫がかった瞳が印象的で、それがフェリシアの記憶を微かに刺激した。
友人知人、そういった繋がりではなく、もっとこう、あえて言うなら国民なら誰しもが知っているというくらいの知識。
「記憶を失っていると事前に聞いてはいたが、それ以外は元気そうでなによりだ。ああでも、起きているのが辛くなった時は遠慮なく言ってくれ」
「はい……ありがとうございます。それと、わたしこそ驚かせてしまってすみません」
「記憶を失ったのは君の非ではないんだ、詫びる必要はない」
「それもなんですけど、ええと……先ほどの発言や……それに性格が、違うんですよね? 前のわたしは暗……大人しかったと聞きました。なのに今はこんな感じで……すみません」
「言われてみれば確かにそうだが……でも元気があるのが悪いなんてことないからな。むしろ君の新たな一面を知ることができていいじゃないか」
なあグレン、と朗らかに笑う青年のおかげで室内の空気が軽くなる。一種のカリスマ性とでもいうのだろうか。すぐに場を掌中に収める事のできる存在。
フェリシアは彼が誰なのかと懸命に考える。もう少しで思い出せそうなのに、最後の一押しが足りない。
「グレン、お前もいつまでそうしているんだ。せめて椅子に座れ」
どうやらグレンとは親しい間柄らしい。
言われるままにグレンは彼が引き寄せた椅子に腰を下ろす。そんな彼自身も、いつの間にかカーティスが用意した椅子に腰かけて、フェリシアとグレンを交互に見つめる。
「今の貴女とははじめまして、になるな。私の名前はフレドリックだ、よろしく頼む」
「こちらこそはじめまし……て……」
金髪に紫の瞳、そしてフレドリックというその名前。
ぶわっ、とフェリシアの全身から汗が吹き出す。グレンが第二王子の護衛の騎士だということは、記憶を失ってなお覚えていた数少ない情報だったではないか。それなのに。
「フレドリック……殿下……?」
「ああ、すまない、驚かせたかったわけじゃないんだ。フェリシア、君とはグレンを介して友人だったんだ、気にしなくていい。大丈夫」
フレドリックはそうフェリシアに声をかけつつ、グレンの脇を軽く突いた。いつまで呆けているんだと、そんな突っ込みを受けてグレンもようやく口を開く。
「紹介が遅くなって申し訳ない。こちらは第二王子のフレドリック様だ。殿下が仰ったように貴女と殿下は友人でもある……エッセルブルクは分かるだろうか? 東の辺境なんだが、殿下の視察に私も同行していたんだ」
「エッセルブルクってかなり遠い土地ですよね? 往復でもかなりの日数がかかる……って、え、大丈夫なんですか!? お二人とも、今日戻って来られたばかりなんですよね? こんな所にいないで早く王宮に帰らなきゃいけないのでは!?」
またしても沈黙が流れる。
そしてこれまたフェリシアはやらかしてしまった。
「フェリシア」
「はい……」
「本来の帰還の予定は四日後だから大丈夫だ。そして何より、倒れた妻よりも優先すべきことは他にない」
「……はい」
こんなにも気まずい思いをしたことがあっただろうか。
誰か助けて、とフェリシアは心の中で神に祈る。そんなフェリシアを憐れんだ神がいたのか、それとも真に憐れなグレンに対する慈悲なのか、すぐに救いの主が姿を見せた。
「お茶の用意ができました!!」
元気に入ってきたのはポリーだ。大好きな主人と、そんな主人の仕える第二王子の来訪にポリーは張り切っている。おかげで気まずい空気は吹き飛び、フェリシアは安堵の息をつく。
そうやってしばし休憩を挟むと気持ちも落ち着いてくる。
グレンの表情も少しばかり和らいだようだ。
グレン達は辺境の視察を予定通り終え、一日空けて王都へ戻る予定であった。
そこへ速達で手紙が届いた。中身は当然、フェリシアについてだった。
「それで、予定を切り上げてすぐに戻ってきたんだが……それでも随分と遅くなってしまった」
「わたしが倒れてから今日で四日目ですよ? エッセルブルクからだと五日か六日はかかる距離ですよね? 充分早い、っていうか早すぎですよ! かなり無茶してませんか!?」
「無茶はする」
「早馬に乗って夜通し駆け抜けてきたからな」
即答するグレンにフレドリックが便乗する。フェリシアは「ひえっ」と堪らず悲鳴を上げた。
「無茶しすぎです!」
グレンもだが、その無茶に付き合ったフレドリックもどうかと思う。
仮にも王族、第二王子だ。無茶な移動で落馬でもしたらどうするのか。
つい咎めるような視線をグレンに向けてしまうが、真っ向から迎え撃たれフェリシアは即座に顔を背けた。美形と真正面から見つめ合うなど、心臓がどうにかなってしまう。
そんなやり取りをしつつ、グレンはフェリシアの現状を一つずつ確認していく。
いつから覚えていないのか。誰を忘れているのか。
問われる中身はフェリシアにとって昨日のミッシェルとの会話と同じだ。なので淀みなくスラスラと答える。
「ここ三年間の記憶がまるっと全部なくなってるみたいです。なので、その間に知り合った方は全く覚えていません。起きたら知らない場所ですし、いつの間にか結婚してるし、その相手が伯爵様だって言われた時は本当に驚きました! 昨日も嘘でしょって叫んじゃいましたよ」
「……そうか」
三度目の気まずい空気が室内に満ちる。
せっかくポリーのおかげで持ち直したというのに、フェリシアが自ら破壊していくのだから誰を責める事もできない。
「待って。ねえ待って、これってかなりまずいんじゃないかしら!?」
「なにが?」
「伯爵様が結婚を申し込んでくれたのって、その暗……大人しい時のわたしでしょう? なのに今のわたしはこんなじゃない! 離婚って言われる可能性も……」
「ないわ」
「ありません」
「グレン様はそんなこと仰いません!!」
ミッシェル、マリア、ポリーと三段階で否定が飛んでくる。
三人の伯爵への信頼度が高い。それくらい人格的に優れている人なのだと察する事ができる。
それに安心するが、そうなると余計にそんな優れた相手と結婚している自分が信じられない。
「あ、なるほど分かった!」
ポン、と脳裏に閃く一つの答え。
途端、ミッシェルとマリアが微妙な表情を浮かべる。
口にこそ出さないが「絶対に違うと思う」とフェリシアを見つめる視線が物語る。一瞬迷うが、謎の負けん気でフェリシアは己の考えを披露する。
「契約結婚でしょ、これって!!」
「小説の読み過ぎよ、フェリシア」
「違います、フェリシア様」
呆れきった顔での突っ込みは容赦なく心に刺さる。うええええ、と泣きそうになるフェリシアを見つめつつ、一人意味の分からないポリーは首を傾げていた。
◆◆◆
自信満々の答えは大間違いだと否定され、ちょっぴりしょんぼりとしてしまったフェリシアであるが、ポリーが淹れてくれたお茶はとても美味しかった。
一緒に出されたお菓子も、フェリシアが好きな幾重にも生地の重なったパイ。サクサクとした食感と果物たっぷりのクリームを食べ終えた頃には、すっかり気分は持ち直していた。
「なんだか目的が逸れちゃった。よし、話を戻しましょう」
ポリーとマリアが片付ける横で、フェリシアとミッシェルは当初の目的である「誰を覚えていて、誰を忘れているのか」の確認を始める。
まずミッシェルが人名を挙げ、その人物について覚えているかどうかをフェリシアが答える。
それを真ん中に線を引いて分けた便箋に書き、振り分け作業を続ける事しばし。
「できた!」
「元気に言うようなものではないと思うけど」
「これって結局どうなのかしら? ミッシェル分かる?」
すっかり打ち解けてしまったフェリシアとミッシェルは、肩を寄せ合って書き写した便箋を見る。
「そうね……覚えていないのは、やっぱりこの三年間で知り合った方がほとんどだとは思うんだけど……でも……」
右側が覚えている、左側が覚えていない、と振り分けた人名。
この三年の間で知り合った人名は全て左側にある。
しかし、何故かその一覧の中に三年以上前から知っているはずの人名まであるのだ。
「ミッシェルとは子供の頃からの友人でしょう? マリアさんとは……いつから?」
「私はフェリシア様がまだお小さい時にご実家でお世話になっていたんです」
フェリシアが生まれた直後に雇われ、十四歳になるまでメイドとして働いていた。その後、一旦故郷に帰っていたが、フェリシアがグレンの元へ嫁ぐ事になり再度メイドとして戻ってきたそうだ。
「一度退職したのに、わたしの結婚のせいでわざわざ呼び戻して来てもらったの!?」
なのに、そんな相手を完全に忘れてしまっている。
「とんだ恩知らずじゃないわたし!!」
「不慮の事故ですから」
「でもよかったの? って今さらだけど、無理矢理来てもらったりしていない? ご家族とか、大切な方がいたんじゃないの?」
「家族は元気に暮らしています。特に親密な関係のある相手もいません。むしろ、私を覚えていて、もう一度お傍に呼んでいただけて嬉しかったんです。無理矢理なんて、そんなことは決してありえませんよ」
「だったら嬉しいわ……マリアさんが来てくれて、絶対に嬉しかったと思う。今でもそうだもの、こうして近くにいてくれるととても安心する」
ミッシェルにしてもマリアにしても、二人との記憶は今のフェリシアにはない。
けれど、こうして近くにいてくれるだけでとても安心するのだ。それだけ付き合いも長く、心を許す存在だったのだろう。
しかしそうなると謎は深まる。
どうしてそんなにも大切であったろう存在を忘れてしまっているのか。
「単に結婚してからの記憶がないんだとばかり思ってたけど……違うのかなあ?」
「それは確かね。私とマリアさん以外にも、結婚する前から仲の良かった友達や知り合いの名前もあるもの。それに……」
フェリシアの生家と同じ姓を持つ男女二人の名。それが記されているのは左側だ。フェリシアにとっては叔父夫婦であり、かなり深く交流もしていたらしい。
「どうしよう……欠片も思い出せないわ」
身内のことまで忘れているなんて。
一体どういう基準で振り分けられているのか、自分の事であるのにどれだけ考えても分からない。
「ご両親のことは、なにか思い出した?」
「うーん……名前だけかなあ……顔はぼんやり? くらい」
あげく、両親についての記憶もこの程度だ。思い出そうとすると、どうにももやもやとした気持ちになってしまう。
忘れてしまったから、というだけではないような、そんな気がして落ち着かない。
「そういえば、わたしがこんな状態だってこと、父と母は知っているの?」
娘が嫁ぎ先で倒れたあげく、丸二日目を覚まさずにいたのだから連絡くらいはいっているだろう。
フェリシアが寝ている間に来たのか、それともこれからなのか。
「お伝えはしています。明日グレン様がご帰宅されるので、ご実家の方もそれ以降にお見舞いにいらっしゃるかと」
ん? とフェリシアは首を傾げる。マリアの説明がなんだか妙だ。
「両親」ではなく「実家」という言い方をどうしてするのか。
グレンが不在であるから見舞いを見合わせているのもどうなのだろう。せめて様子を尋ねる手紙の一つもあっていいのではないか。しかしそれすらもフェリシアの元には届いていない。
ゾワリとした不快感が急激に腹の底から湧き上がる。この瞬間、初めてフェリシアは記憶を思い出したくないと思った。
「フェリシア、大丈夫? なんだか顔色が悪いわ」
「平気平気。それより一つマリアさんに聞きたいんですけど……わたしって裏庭で倒れていて、その原因はまだわかっていないんですよね?」
「はい。二日前の昼過ぎ、お茶の時間になってもどこにもいらっしゃらなくてお捜ししていたんです……そうしたら、裏庭に生えている木の下で倒れているのをエルネス……庭師が気付いて、それからすぐにお医者様をお呼びして」
「今こうなっているのよね……」
「なにか思い出したの?」
「これまたさっぱり」
ミッシェルの問いにフェリシアは首を横に振る。
「すでに屋敷と周辺の調査を行っています。警備の数も増やしていますから、どうか安心してくださいね」
「カーティスさん? もそう言ってましたもんね、うん、そこは心配してないです。ありがとう」
伯爵家の夫人がその敷地内で倒れていた。何者かによる犯行を疑うのは当然だとフェリシアも思うが、どうにも誰かに襲われたとは考えづらい。
なにしろここ百年近く、周辺諸国含めて平和な時代が続いている。
ハンフリーズ伯爵家も誰かに恨みを買うような家ではないはずだ。
かろうじて覚えているフェリシアの記憶でしかないが、かの伯爵様はそういう立派な、誰からも尊敬と信頼の念を向けられる存在であった。
もしかすると、そういった人気を疎ましく思う人間からの逆恨み的なものはあったかもしれないが、伯爵家ともなれば不審者の侵入を防ぐ程度の警備は敷いていることだろう。
なので、フェリシアが誰かに襲われて、その結果記憶を失ったとはどうしても考えられないのだ。
「自分で言うのもなんだけど、それこそ木から落ちたとか石に躓いたとか、そんなくっだらない原因だと思うの」
「そうね……とっても残念だけど私もその可能性が高いと思う」
ミッシェルは否定するどころか深く頷いている。
「フェリシア様、木登りできるんですか?」
「……小さい頃はよく登ってましたね……そういえば」
その会話を拾ってポリーが質問すれば、懐かしむような、それでいて当時の心労を思い出しているのか、どこか遠い目をしてマリアが答える。
言い出したのは自分だが、誰からも否定されないのはなんだかちょっと複雑な心境になってしまう。はあ、と思わず溜め息を零せばまたしてもミッシェルとマリアが顔色を変える。
「やっぱり顔色が悪いわ。私が来た時はもっと元気そうだったもの」
「平気だってば、心配しないで今のは」
「心配するに決まっているでしょう! ずっと眠り続けて、やっと目覚めたと思ったら記憶がないって言い出したのよ!」
「横になってください」
マリアは慌ててフェリシアをベッドへ寝かせる。本当に大丈夫なのに、と口を開こうとするが急激に疲労がフェリシアを襲った。
自分で思っているよりも疲れているのかもしれない。
「目覚めてすぐなのにたくさんお喋りしたからかしら……ごめんなさい」
「ううん、色々聞けてよかった。ありがとう、ミッシェル」
「またお見舞いに来るわね。なにか持ってきて欲しいものとか、ある?」
「遊びに来てくれるだけで充分よ。ああでも……よかったら、明日も来てもらえたら嬉しいんだけど」
ミッシェルは一瞬驚いたように目を丸くするが、すぐにフェリシアの意図を把握してニコリと笑う。
「伯爵様とお会いするのが恥ずかしいんでしょ」
「だってえええええええ……」
「お噂はかねがね、の美貌の騎士様だものねー! 期待していいわよ、想像している以上に本物はもっとすごいから」
「追いうちをかけるのはやめてくれる!? 今でさえ緊張して大変なのに!」
「はいはい分かりました。すっかり子供の頃のあなたに逆戻りだものね、そのままお会いしたら伯爵様も驚くと思うし。あなたの迂闊な発言は、しっかり補ってあげる」
「迂闊……かしら?」
「迂闊よ」
「そうですね」
「わたしもお手伝いします!」
幼馴染みとメイド二人のあたたかい言葉。それだけならば大事にされていると思えるはずなのに、何故か盛大に突っ込みをいれられている気分になる。
「子供の頃みたい……?」
あげく子供扱いだ。それは不服だと主張するが、これまた容赦なく返される。
「子供の頃のあなたが、そのまま大きくなったのが今のあなたみたい」
うんうんとマリアも頷いている。しかし、そうなると新たな疑問が浮かぶ。
「……どうしてわたしは、子供の頃と違う性格になってしまったのかしら?」
「その辺りはまた明日お話しましょう。どんどん顔色が悪くなっています。お休みください」
マリアの手がフェリシアの両目を優しく塞ぐ。少し冷たく感じるが、その冷たさがとても心地よい。そう思うということは、微熱でも出ているのかもしれない。
「こんな状態でごめんなさい。本当に今日はありがとうミッシェル」
「さっきも言ったけど無理はしないで。明日また会いに来るから、それまでゆっくり休んでね」
別れの挨拶を聞いた所までは覚えているが、その後はまるで気絶でもしたかのようにフェリシアの意識は途絶えた。
二章 奥様は旦那様の心を抉る
次にフェリシアが目覚めた時はすでに翌日だった。
ミッシェルをベッドの中から見送って眠ってしまったあと、そのままずっと寝ていたようだ。
夕食を食べ損ねてしまい、寝起きから空腹に苛まれる。
だが、それ以上にやるべきことがあった。
今日は、まだ見ぬどころかすっかり忘れてしまった夫、グレンが帰宅する日である。
国事に携わる彼だ、昼に戻るのかそれとも夜になるのか今のフェリシアには分からない。万が一、でそれが朝になる可能性だってある。となると、いつまでも寝起きのままではいられない。
約二日、いや昨日も途中で寝てしまったので丸三日も身体を清めていないのだ、なんとしても湯浴みをして綺麗な状態で夫を出迎えたい。
これっぽっちも自覚は持てないが、なんにせよこんな薄汚れた状態で会うのは妻だとかそんな理由以前の問題だ。
フェリシアはベッドの横に置かれた呼び鈴を鳴らす。
するとすぐにポリーが来てくれた。
「おはようございます、フェリシア様。ご気分はどうですか? すぐに朝食をお持ちしますね!」
「おはようポリー。お腹が空いてるから是非、って言いたい所なんだけど、それより前に一つお願いがあるの」
「なんでしょう?」
「朝早くからで申し訳ないんだけど、お湯の用意をしてもらえないかしら?」
ポリーはすぐにピンときたようだ。急いで準備しますね、と跳ねるように部屋を後にする。
なんだか張り切って夫を迎えるために頼んだ、と勘違いされたような気がする。猛烈な気恥ずかしさに襲われつつ、フェリシアは大人しく待つしかなかった。
そうやって羞恥に耐える事しばし、準備ができたとポリーが戻ってくる。浴室に案内してもらうとそこにはマリアが控えており、二人がかかりでピカピカに磨き上げられた。
その後遅めの朝食を摂り、空腹もこれで解消された。
あとは部屋でグレンの帰宅を待つだけだが、寝起きで風呂を済ませたからか若干のふらつきを覚えてしまう。三日も寝ていたのだから、体力の低下が著しいのかもしれない。
ちょうどヘンドリック医師が往診に来てくれたのもあり、フェリシアは再び寝間着に着替えてベッドの中へと逆戻りになってしまった。
「怪我はもうほぼ大丈夫のようですね。ですが、無理は禁物です。焦らずゆっくり回復に努めましょう」
フェリシアとしてはもう大丈夫だと思うのだが、医師の言葉は絶対だ。
倒れていた原因も今の所まだ不明なので、フェリシアが気付いていないだけでなにかしらの不調があるかもしれない。それによりまた倒れてしまっては大事になってしまう。
今回は運よく平たい地面の上であったが、これが階段付近で倒れていたとしたら。そのまま下まで転がり落ちでもしていたら、頭のこぶと擦り傷程度では済まなかっただろう。
ベッドにいたくないのは単に飽きたからだ。
そんな理由で医者の言葉を無視するなど言語道断なので、フェリシアは退屈しのぎに本を読んで時間を潰す。昼を過ぎればきっとミッシェルも来てくれる。それまでの辛抱だ。
自室の本棚にあったという恋愛小説の本。
あまりこういった内容の本を好んで読んでいた記憶はないが、いつの間にか趣味が変わったらしい。結婚したくらいなので、恋愛話に興味を持ったのは分かるが、今のフェリシアにはあまりその楽しさが分からない。文字を目で追うばかりで文章が頭に入ってこない。
パラパラと頁を捲っては戻る、を繰り返しているとふと外が騒がしいのに気が付いた。
ミッシェルが来てくれたのかもしれない。
でも、それにしては人の声が多いような気がする。すでに昨日来ているのだから、そんなに騒ぐ事もないはずだ。なんだろう、とフェリシアは読んでいた本をサイドテーブルへと置き、ポリーが用意してくれていた肩掛けを羽織る。
その直後、扉がノックされた。
「はい、どうぞ」
フェリシアはミッシェルが入ってくるのだとばかり思っていた。
だが、扉を開けて入ってきたのは驚く程に美しい男性だった。
黒地を基調とした騎士服に身を包んだ長身の美形。
仮にフェリシアが記憶を失っていなかったとしても、絶対に知人ではないと断言できる。
それ程までに、縁遠い容姿の相手の出現にフェリシアはしばし固まってしまうが、そんな相手の口から「フェリシア」と確かに自分の名が呼ばれ、我に返る。
信じられないがどうやら知り合いであったらしい。なのでフェリシアも慌てて口を開いた。
「どちら様ですか!?」
つい大きな声になってしまった。声の大きさに驚いたのか、はたまたフェリシアの発した言葉に傷付いたのか、騎士は目に見えて狼狽えた。
彼の背後にはカーティスとマリア、そして金髪のこれまた見知らぬ青年が一人。
遠目からでも分かる仕立てのよい服に品のある風貌。本当にこんな格上の人達と交流があったのだろうかと、フェリシアの思考はグルグルと空回りする。
沈黙と、そして落胆の空気が室内に満ちるのがとても辛い。
ああしまった、とフェリシアは慌てて言葉を続けるが、それはさらなる事態の悪化を招いた。
「すみません、わざわざ来てくださったということは、わたしの知り合いなんですよね? ええと、すでにご存知だと思うんですけど、今ちょっと、色々と忘れてしまっておりまして」
できるだけ明るい声でそう告げる。少しでも場を和ませようと、えへへと笑ってさえ見せるが空気は重さを増すばかりだ。
黒髪の騎士からは完全に表情が消えている。周囲の人間は気の毒そうな視線を彼に向けており、その様子からフェリシアはここでようやく気が付いた。
「もしかして、伯爵様ですか!?」
そういえばミッシェルが言っていたではないか、想像している以上に本物は物凄いと。
確かにフェリシアの貧相な想像力では思い浮かびもしなかった美貌だ。というか、こんなにも美しい相手と人生で関わり合いを持つなど思いも寄らない。
一体どうして、本当にどうして、とフェリシアの混乱は増すばかりだ。
そんなフェリシアの元へ美形の騎士こと――夫であるグレン・ハンフリーズ伯爵が近付いてくる。ベッドの横に立ち、もう一度フェリシアの名を呼ぶ。
「君が大変な目に遭っている時に傍にいなくてすまない。私は貴女の夫であるグレンだ。これからはもう片時も離れない。常に貴女と共にいる」
フェリシアの手を持ち上げると、祈るように額を重ねる。
その姿はまるで絵画のようで、フェリシアは思わずポカンと口を開けて見つめてしまう。
我が身に起きるにしては、とてもじゃないが信じられない状況だ。信じるもなにも、今まさに目の前で起きている光景であるからしてフェリシアの混乱具合は限界を突破している。
それ故に、とんでもない暴言が飛び出してしまったのだ。
「社交界きっての美形って大騒ぎされてる伯爵様が夫だなんて、やっぱり嘘でしょー!? ありえませんって! まだ契約結婚ですって言われた方がしっくりくるわ!!」
重苦しかった部屋の空気は、この発言により完全に凍り付いてしまった。
◆◆◆
やらかしてしまった。それも盛大に。
誰一人として言葉も出なければ、指先一つ動かせやしない。
フェリシアの背中は冷や汗でびっしょりだ。今程記憶を失いたいと思った事はない。
「ひとまず、元気そうでよかったじゃないか」
永遠にも感じられた沈黙を破ったのは金髪の青年だった。
固まったままのグレンの肩を叩き、フェリシアには柔らかい笑みを向ける。紫がかった瞳が印象的で、それがフェリシアの記憶を微かに刺激した。
友人知人、そういった繋がりではなく、もっとこう、あえて言うなら国民なら誰しもが知っているというくらいの知識。
「記憶を失っていると事前に聞いてはいたが、それ以外は元気そうでなによりだ。ああでも、起きているのが辛くなった時は遠慮なく言ってくれ」
「はい……ありがとうございます。それと、わたしこそ驚かせてしまってすみません」
「記憶を失ったのは君の非ではないんだ、詫びる必要はない」
「それもなんですけど、ええと……先ほどの発言や……それに性格が、違うんですよね? 前のわたしは暗……大人しかったと聞きました。なのに今はこんな感じで……すみません」
「言われてみれば確かにそうだが……でも元気があるのが悪いなんてことないからな。むしろ君の新たな一面を知ることができていいじゃないか」
なあグレン、と朗らかに笑う青年のおかげで室内の空気が軽くなる。一種のカリスマ性とでもいうのだろうか。すぐに場を掌中に収める事のできる存在。
フェリシアは彼が誰なのかと懸命に考える。もう少しで思い出せそうなのに、最後の一押しが足りない。
「グレン、お前もいつまでそうしているんだ。せめて椅子に座れ」
どうやらグレンとは親しい間柄らしい。
言われるままにグレンは彼が引き寄せた椅子に腰を下ろす。そんな彼自身も、いつの間にかカーティスが用意した椅子に腰かけて、フェリシアとグレンを交互に見つめる。
「今の貴女とははじめまして、になるな。私の名前はフレドリックだ、よろしく頼む」
「こちらこそはじめまし……て……」
金髪に紫の瞳、そしてフレドリックというその名前。
ぶわっ、とフェリシアの全身から汗が吹き出す。グレンが第二王子の護衛の騎士だということは、記憶を失ってなお覚えていた数少ない情報だったではないか。それなのに。
「フレドリック……殿下……?」
「ああ、すまない、驚かせたかったわけじゃないんだ。フェリシア、君とはグレンを介して友人だったんだ、気にしなくていい。大丈夫」
フレドリックはそうフェリシアに声をかけつつ、グレンの脇を軽く突いた。いつまで呆けているんだと、そんな突っ込みを受けてグレンもようやく口を開く。
「紹介が遅くなって申し訳ない。こちらは第二王子のフレドリック様だ。殿下が仰ったように貴女と殿下は友人でもある……エッセルブルクは分かるだろうか? 東の辺境なんだが、殿下の視察に私も同行していたんだ」
「エッセルブルクってかなり遠い土地ですよね? 往復でもかなりの日数がかかる……って、え、大丈夫なんですか!? お二人とも、今日戻って来られたばかりなんですよね? こんな所にいないで早く王宮に帰らなきゃいけないのでは!?」
またしても沈黙が流れる。
そしてこれまたフェリシアはやらかしてしまった。
「フェリシア」
「はい……」
「本来の帰還の予定は四日後だから大丈夫だ。そして何より、倒れた妻よりも優先すべきことは他にない」
「……はい」
こんなにも気まずい思いをしたことがあっただろうか。
誰か助けて、とフェリシアは心の中で神に祈る。そんなフェリシアを憐れんだ神がいたのか、それとも真に憐れなグレンに対する慈悲なのか、すぐに救いの主が姿を見せた。
「お茶の用意ができました!!」
元気に入ってきたのはポリーだ。大好きな主人と、そんな主人の仕える第二王子の来訪にポリーは張り切っている。おかげで気まずい空気は吹き飛び、フェリシアは安堵の息をつく。
そうやってしばし休憩を挟むと気持ちも落ち着いてくる。
グレンの表情も少しばかり和らいだようだ。
グレン達は辺境の視察を予定通り終え、一日空けて王都へ戻る予定であった。
そこへ速達で手紙が届いた。中身は当然、フェリシアについてだった。
「それで、予定を切り上げてすぐに戻ってきたんだが……それでも随分と遅くなってしまった」
「わたしが倒れてから今日で四日目ですよ? エッセルブルクからだと五日か六日はかかる距離ですよね? 充分早い、っていうか早すぎですよ! かなり無茶してませんか!?」
「無茶はする」
「早馬に乗って夜通し駆け抜けてきたからな」
即答するグレンにフレドリックが便乗する。フェリシアは「ひえっ」と堪らず悲鳴を上げた。
「無茶しすぎです!」
グレンもだが、その無茶に付き合ったフレドリックもどうかと思う。
仮にも王族、第二王子だ。無茶な移動で落馬でもしたらどうするのか。
つい咎めるような視線をグレンに向けてしまうが、真っ向から迎え撃たれフェリシアは即座に顔を背けた。美形と真正面から見つめ合うなど、心臓がどうにかなってしまう。
そんなやり取りをしつつ、グレンはフェリシアの現状を一つずつ確認していく。
いつから覚えていないのか。誰を忘れているのか。
問われる中身はフェリシアにとって昨日のミッシェルとの会話と同じだ。なので淀みなくスラスラと答える。
「ここ三年間の記憶がまるっと全部なくなってるみたいです。なので、その間に知り合った方は全く覚えていません。起きたら知らない場所ですし、いつの間にか結婚してるし、その相手が伯爵様だって言われた時は本当に驚きました! 昨日も嘘でしょって叫んじゃいましたよ」
「……そうか」
三度目の気まずい空気が室内に満ちる。
せっかくポリーのおかげで持ち直したというのに、フェリシアが自ら破壊していくのだから誰を責める事もできない。
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