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第二章 特別な花

53,ダンススクールへ戻らない理由

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 先生との話が終わった後、私はヒルスの自宅で一緒に夕飯を食べることにした。ゆっくりしてから家に送ってもらう予定。

 キッチンでヒルスは夕食の準備をしている。その横で、私はうきうきしながら訊いてみた。

「今日はヒルスがご飯作ってくれるの?」
「ああ」
「やった! スパゲッティがいいな」
「ああ」

 彼は一人暮らしを始めてから自炊をするようになり、料理がとても上手になった。私の好きなスパゲッティボロネーゼをよく作ってくれるから凄く楽しみ。

 でも……なんだろう。さっきからヒルスの様子がおかしい。ぼーっとしながら料理をしているの。
 水が沸騰する前に麺を鍋いっぱいに入れちゃうし、お湯が溢れるまで気がつかない。ひき肉を炒めるとき、火力を弱くしすぎて全然料理が進まなかった。
 少し心配になってしまう。

 ぼんやりしていたヒルスが、急に小さく声を上げた。

「あっ」 

 集中せずに料理をした末にできあがったのは、五人前くらいのスパゲッティボロネーゼ。ヒルスは自分で作ったスパゲッティを眺めたまま唖然としている。

「ヒルス……?」

 そっと声をかけるとやっと我に返ったようで、私に目を向けた。

「やべ、こんなに食べられないよな」

 笑って誤魔化そうとしてる。余計に心配になっちゃうよ。

「何かあったの?」
「いや別に何も」

 そう返事をするけれど、声から動揺しているのが伝わってくる。なぜか頬が赤くなっているし……。

 さっきスタジオで何かあったのかな?

「本当になんでもないんだ。腹減ってたからこんなに作っちまったよ。食べようか」
「うん……?」

 何でもないわけがないよね。
 納得できないけど、ヒルスはあんまり話したくないみたいだからこれ以上訊かない方がいいみたい。

 出来上がった料理をお皿にたくさん盛り付ける。テーブルで向かい合って、大盛のスパゲッティを一緒に食べ始めた。

 麺はいつもより柔らかくなっちゃってお肉は脂が無くなっていたけれど、ソースの旨味はいつもどおりで美味しかった。やっぱりヒルスの作ってくれるスパゲッティは、ちょっと失敗しちゃっても好き。たくさん食べられそう。

 私が食事を進める向かいで、ヒルスは手を止めた。

「レイ、今日はジャスティン先生と何を話したんだ?」

 口の周りを拭いてから、私も真顔になって彼と目線を合わせる。

「ヒルスも分かってるでしょ?」
「まあ、そうなんだけど」

 私は束の間、フッと笑みを溢す。先程のジャスティン先生との会話を思い出しながら話し始めた。

「先生ったら、もう一度ダンススクールに戻ってきてほしいって何回も私に言うんだよ」
「レイが辞めてから、先生もずっと悔やんでいたからな」
「……そっか」

 先生の気持ちを想像すると、やるせない気持ちになってしまう。

「私が辞めてから二年も経つのに、君には才能もあるし努力もできる子だって褒めてくれるんだよ。とっても嬉しかった。ダンスは今でも大好きだし、私だって続けたいって思っているの」

 正直にそう言うと、彼の表情はパッと明るくなった。

「本当かっ? レイ、それなら」
「うん。でもね……私、スクールに戻るつもりはないよ」
「……なんだって?」

 明るかった彼の表情が、一瞬にして曇ってしまう。

「どうしてだよ」
「そんな顔しないで。スクールには戻りたくないの」
「ダンスが好きなんだろ? もしかして、みんなに心配かけたからスクールに戻りづらいのか。誰も気にしていないし、クラスのメンバーもお前の復帰をずっと待ち望んでいるんだぞ」
「違う……それは関係ないの」
「だったらどうして」
「……」

 どう説明すればいいのか分からなくて、私はつい黙り込んでしまう。
 私だってまたスクールに通ってダンスを教わりたい。一人で踊るだけじゃ、新しい技もなかなか覚えられないし、何よりもステージに上がって踊る姿をたくさんの人に見てもらいたい。孤独のダンスは寂しいのが本音。だけど──  

 ヒルスはテーブルに両手をついて椅子から立ち上がると、私の瞳をしっかりと見つめて真剣な顔で話を続けた。

「戻らない理由がないだろう」
「でも私は、スクールには行けないよ」
「それじゃあレイは、もう二度と踊らないのか?」
「……ダンスは今でもしたいよ」
「だったら前みたいに踊ればいいだろう」

 押し問答をしても、私の考えは絶対に変わらない。

 いつの間にか暗い雰囲気になってしまっていた。

 違う。私はヒルスと言い合いをしたいわけじゃない。 
 だけど、メイリーにされたこと──いつも冷たい態度を取られたり、無視されたり、嫌なことを言われたのが今でも忘れられない。それに、家族の事情も全て聞かされてしまった。この件に関しては、絶対に説明できないから……。

 俯いて黙り込んでしまった私に、彼は目線を下げて深く息を吐いた。椅子に座り直すと、さっきよりも落ち着いた声になる。

「……すまん。ムキになりすぎたな」
「ううん。ヒルスも私がスクールに復帰するのを楽しみにしてくれていたもんね。期待に応えてあげられなくて、ごめんね」

 彼の前ではなるべく明るくしていたいから、無理に笑顔を作ってみたのに眉尻が下がってしまう。どうしても本当のことを口にはできない。

 ヒルスも、それ以上問い詰めることはしてこなかった。
 きっと、まだ納得していないよね。私も同じだよ。何も問題がなければ、今でもダンスを習いたいって毎日のように思っているから。

 ──その後は微妙な雰囲気のまま、ヒルスは私を家に送るために車を走らせた。帰りの車内はいつもどおり他愛のない会話をしていたけど、彼の横顔はずっと沈んでいるように見える。
 途中で降り始めた小雨が車内の空気と重なり、まるで心を冷たく濡らしていくように感じた。

 それから一時間ほど経って家に到着する。父が玄関まで出迎えてくれた。

「おかえり、レイ」
「お父さんただいま!」

 私は父の隣に立ち、おもむろにヒルスの方を振り返る。

「ヒルス、少し寄っていくか?」
「いや、このまま帰る。明日も早いんだ。次の休みにまた来るよ」
「そうか。いつも頑張っているな。セナがこれをお前にと」

 父が差し出したのは、ダンボール箱に詰められたトマトやブロッコリー、玉ねぎなど、一人分にしては多すぎる量の野菜だった。ヒルスが一人暮らしをしてからしっかり自炊しているのを知った母は、度々大量の食材を用意してあげてる。

「またこんなにたくさん。俺、一人なんだけど」
「離れて暮らすお前のためだ。持っていきなさい」
「まあ、ありがたく受け取っておくよ」

 また遊びに行ったとき、ヒルスの作った美味しいご飯を食べたいなあ。でも、今までみたいに歓迎してくれるのかな……。箱の中の野菜を眺めながら、そんなことを考えてしまった。

「レイ、おやすみ」

 私が浮かない顔をしていると、ヒルスは明るい声で言うの。いつの間にか私に向けてくれるようになった、穏やかな表情で。その笑みを見ると、胸がキュッとなって自然に心があたたまる。

「おやすみ、ヒルス」

 雨の雫が静かに肩を濡らす中、ヒルスは最後まで笑みを絶やさなかった。
 でもなんとなく、彼が運転する車を見送ったときは寂しさが残された気がした。

 ガーデンに咲く『サルビア』は寒さにも負けず、冷たい雨をたくさん浴びながら私たちと一緒に彼を見送った。

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