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第五章

僕の幸せ

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 悔しくて、吐きそうだ。肩が震え、嗚咽が漏れた。
 杖を手放して歩けるようになっても、僕には多くの障害がある。
 ちょっとした段差、バランスが取りづらい砂利道、長い急な坂道、今日訪れた川辺の階段。手すりがないと、自分一人で下ることさえできない。
 手術を受けてあれだけリハビリを頑張ったとしても、僕が本当の意味でひとり立ちできる日はほど遠いんだ。

「焦らないで、コウキ」

 母さんが囁くように言葉を綴った。

「あなたはあなたなんだから。他の子と比べる意味がないわ。いつか必ず自由に外を歩けるようになる。コウキは頑張り屋さんなんだから、もしかしたらあっという間に目標を達成させるかもしれないわね?」

 なんとも優しい口調だった。
 母さんの顔を見ると、ますます涙が止まらなくなってしまう。
 でもこれは、悲しみの雫なんかじゃない。嬉しくて、なんだかそれが逆に苦しくて切なくて、とても幸せで、たくさんの矛盾を交えた涙だ。

 僕が感極まっていると、父さんがそっと肩に手を添えてきた。

「……悪かったな、コウキ」

 さっきとは打って変わって、穏やかな声色。いつもの父さんの口調に戻っている。

「お前も悔しい想いをたくさんしてきたんだよな……。なかなか自由にさせてやれなくて、本当にすまない。叶うなら、父さんが代わってやりたいくらいだ」

 ──その言葉に、僕はハッとした。「代わってやりたい」だって?
 濡れた目元と頬を咄嗟に拭う。

「待って父さん。違うんだ」
「何……?」
「なんて言えばいいのかよく分からないけどさ、父さんが謝ることじゃないんだよ。僕は自分が自分として生まれてよかったって思っているし」

 僕のひとことに、父さんと母さんは目を見開く。
 しっかりと伝えよう。僕の想いを。

「悔しいのもたしかにウソじゃないよ。川に半分溺れたとき、身体が強張ったんだ。麻痺がなければあんな落ちかたはしない。手術もリハビリも大変だったけど、全てが解決するわけじゃない」

 この話に、父さんは切ない顔をした。
 でも僕は、真っ直ぐに前を見ながら続きを述べる。

「だからこそ、他の人がしないようなことをたくさん経験した。同じような境遇の友だちにも出会えた。いつも支えてくれる友だちもいる。それに……こうやって、父さんと母さんと向き合う機会がたくさんある。それは素直に嬉しいんだ」

 僕の話に耳を傾ける母さんは、自らの口元に手のひらを当てた。

「コウキ。それは、あなたの本心なの……?」

 今度は母さんが涙目になる番。
 僕は大きく頷いた。

「足が不自由で嫌な想いは何度もしてきたけど、それ以上に幸せを噛み締めることも多いんだ。ちょっと歩けるようになっただけでめちゃくちゃ嬉しいし。だから謝らないでほしい。代わってやりたいとか、そんな風に思わないでほしい」

 僕がはっきりとそう言うと、父さんの瞳が揺れた。スッと立ち上がりこちらに歩み寄ると、ガシッと僕を抱きしめた。
 ちょっとお腹が出てる父さんに抱き寄せられると苦しかったけど、僕は抵抗なんてしない。

「コウキ。やっぱりお前は、しっかりしている。本当に、立派で自慢の息子だ……」

 父さんの声、小刻みに震えている。
 そんなことに気づかないふりをして、僕は明るい声で答えた。

「前も聞いた。マジで親バカだよな……」

 精いっぱいの照れ隠しのための台詞だった。

 ──話がそれてしまったが、本心をきちんと伝えられてよかったと思う。

 それから僕は、もうひとつだけ言うべきことを口にした。

「あの……今日は大変なことをして、心配かけてごめんなさい。もう二度と同じようなことは繰り返さないようにする。どんな道でも歩けるようになりたいから、これからも頑張るよ」

 僕の言葉に、母さんは目を細めて頷いた。
 父さんはそっと両腕から僕を放すと、いつもと変わらない優しい表情に戻って、頭を撫で回してきた。髪の毛がボサボサになり、大変なことになった。でも、全然嫌じゃなかった。

 駄々をこねてたって仕方がない。僕がやれることをこれからも精いっぱいこなしていくべきだ。他人と比べたって意味がないし、母さんが言ってくれたように僕は「僕」なんだから。
 
 話が終わると、その場は普段通りのおっとりした雰囲気が流れる。

 何げなくリビングの扉の方に目をやると──こっちの様子をうかがう大きな瞳とばっちり目が合った。
 リオだ。なぜか、これでもかってほど目をウルウルさせてる。

「どうしたんだよ、リオ」
「にいに……」

 気まずそうにこちらに歩み寄ってくると、頬を赤く染めながらリオはうつむき加減で問いかけてくる。

「にいに、大丈夫なの……? 痛くない?」

 チラッと僕を見ると、リオは更に悲しそうな顔をする。
 ガーゼが貼られた右頬にそっと触れながら、僕は鼻を鳴らす。

「こんな怪我、大したことない」
「……違うよ」
「違うって、何が」
「ここだよ。心は、痛くないの?」

 リオは眉を落とし、僕の胸元を指差してきた。

「あたし、ちゃんと知ってるよ。にいにが頑張ってるの。退院してから、歩くのがとっても上手になったのも知ってる。にいにならこれからも、もっともっと歩けるようになるって信じてるよ。だからもし今日のことで心が痛くなっても、きっと癒えるときが来るからね!」
「はぁ? なんだよ、慰めてるつもりかよ。柄でもないな……」

 こんな風に言いつつ、自分の頬が緩んでいくのが分かった。
 リオは僕の顔を覗き込み、更に続けるんだ。

「大人になって、もしにいにが走れるようになったら一緒に鬼ごっこしようね!」
「大人になって鬼ごっこなんてするわけないだろ」
「でも学童の先生たちは一緒に遊んでくれるよ?」
「先生たちはそれが仕事なんだよ」
「もー。にいには夢がないなぁ」

 小鼻を膨らませながらも、口調はどこか柔らかい。

 リオのおかげで、ちょっと元気になれた。
 父さんと母さんも僕たちのやり取りを、微笑ましそうに眺めていたんだ。

 僕たちが家族の時間を過ごしていた、ちょうどそのときだ。家のインターホンが鳴り響いた。
 リビングのドアの真横にあるモニターを確認すると──玄関の前には、ユナとお母さんが立っていた。
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