オー・マイ・メサイア  ~セイレーン~

Mizutani Manager

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Side 木田

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 生活が落ち着いたんだか落ち着いてないんだかわからない日の午後、とりあえず木田は転入届を出しに区役所へ行った。

「ここが役場?どう見てもそういう繁華街なのに?」
 怪しげなバーの看板が並ぶ通りに戸惑いながらも、案内されたとおりの窓口で転入手続きの書類を書く。

「お待たせいたしました」
 窓口に書類を持っていくと…そこには美しい人間の男性が立っていた。

 あの人だ…木田は書類を渡しながら、男性をガン見してしまった。間違いない。この美しさはあの海の魔物だ…

 でも俺みたいな平凡な男、覚えてないだろうな。と、木田はうつむいた。ネームプレートには“佐伯”と書かれている。美しい魔物は佐伯という名前らしかった。

「目的地には無事つけましたか?」
 佐伯にそう言われ、木田はハッと顔をあげる。

 俺のこと覚えていてくれたんだ…自然とテンションが上がる。

「え、あ、はい。その節は大変お世話になりました」
 丁寧に頭を下げる木田に、佐伯が微笑む。

「いえ。時間に間に合いましたか?」

 美しい佐伯の笑顔に魂を持っていかれそうになった木田は、慌てて魂を掴んだ。

「はい。おかげさまで」
「よかった。転入手続きはこれで終わりです。年金と保険の手続きはあちらの窓口でお願いします」
「待ってください」
 書類を持って奥に入ろうとする佐伯を、木田はとっさに引きとめた。

「あ、あの、佐伯さんのおかげで迷子にならずに、遅刻せずに事務所に着きました。そのお礼をさせて下さい」

 どうして自分の名前を?と思ったのかは定かではないが、佐伯が自分のネームプレートを見た。

「どこかで食事でも…」

 それじゃ難破じゃなくてナンパだろうと、考え直す余裕は木田にはなかった。真面目な木田は生まれてこの方、一度もそんなマネをしたことがない。だけど、このままでは大海原でバラバラになって二度と会えなくなってしまう。だからとっさにナンパした。

「もうすぐお昼だから。昼食でいいですか?」
 時計をチラッとみた佐伯にそう言われ、木田は“はい”と大きくうなずいた。


 ***
 お礼なのにここでいいのかと問う木田に、佐伯は“ここのカレー美味しいんですよ”と微笑んだ。その微笑みに魂を持っていかれそうになり、いや、すでに持っていかれた木田は“そうですか…”と、フラフラと佐伯の後についてインドカレー専門店に入った。

 佐伯がナンをカレーにつけて口に入れる。美しい口元。美しい上品な手つき。あのナンになりたいな…と思ってしまい、木田は急いで水を一気飲みした。

「木田さん?」
「あ、いえ、ちょっと辛かったから…」
 そう言って目を泳がせた木田は、まだカレーを口にしていなかった。


「では、また連絡をください」

 親しい友人もなく上京して間もないと言う木田に、佐伯はラインを交換してくれた。そして安くて美味しい店を教えますからと微笑み、春風のように爽やかに去って行った。

 その日を境に木田の頭は佐伯に侵略された。

 佐伯は確かに美しかったけど、どうみても男だった。声も高くないし、しぐさも決して女性的ではない。よく見ると、指が長くて美しいとは言え、少し骨ばった手もまさに男性のものだった。だけど魂を吸い取られた木田の脳みそには、魔物の性別を冷静に考える余力は残されていなかった。


 ***
 佐伯の動作は美しい。佇まいが綺麗で優雅だ。それでも何度か会ううちに、木田は佐伯が魔物でも救世主でもモンスターでもないことがわかった。

 人間である佐伯は普通に食事をし、仕事の愚痴もいい、トイレにも行き、二日酔いにもなった。最初は近寄りがたさを感じていた木田も人間佐伯に親近感を持ち、一緒にいると癒される気がしていた。

 “帰って洗濯しなくちゃ”と言う木田に、佐伯が微笑みながら言った。
「男の一人暮らしって侘しいですよね」
「佐伯さんは、家の中とかきちんとしてそうです」
「そうでもないですよ」
「俺なんか今、すごいことになっています」

 予測以上にバンド活動が忙しくなってきた木田は外国語が飛びかうアパートで、洗濯前の服と洗濯後の服に囲まれて暮らしていた。

「あ、そうだ。これ」

 帰って来そうもない息子に、母が野菜セットを宅急便で送ってくれた。だけど洗濯物を片付ける時間がない木田に、料理する時間はなかった。

「ありがとうございます。こんなにもらっていいんですか?」

 だから自炊しているという佐伯に、信州の野菜を食べてもらうことにした。

「料理する時間がないので、あっても腐らせてしまいますから」
「ありがとうございます。木田さんに時間があれば手料理をごちそうしたいんですけど」
「とりあえず、レコーディングが終わればひと段落するので、またご連絡差し上げます」

 二人はいつもの通り、微笑を交わして各自の家に戻った。

 木田は友達ができてよかったと純粋に喜んでいた。区民歴が長い佐伯は色々なお得情報を教えてくれた。

 そして佐伯といると、あのアリの巣のトラウマが消えていく気がした。佐伯は木田のオアシスだった。いや、太平洋の真ん中の孤島と言うべきか?漂流の末たどり着いた陸地だった。
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