5月の雨の、その先に

藍音

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第七十三話 ときめき

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男が一歩歩くと、背中から肩にかけて筋肉がしなやかに動いた。右肩が左肩よりも盛り上がっているのは、厳しい訓練のたまものだ。
いつも剣を下げているせいで、少しずれた重心。
動じない心をあらわすような、静かな動き。
それは、宮廷にいる護衛騎士の中でも、ほんの数名の手練れの騎士にしか見られない動きだった。

(ウィアードのキャンベル伯と言えば、王家の縁続きじゃない。ちょっと悪いうわさもあるけど、どうせ迷信でしょうし。今時魔力だなんて、ありえないわ)

高貴な血筋ほど魔力が高いと言われる。
かつて、王弟がウィアードの抑えに回されたのは、そういう理由だったと聞く。
国境近くの緩衝地帯。いつも隣国との小競り合いが続く土地は、人の血を吸いすぎて荒れ果て、魔物を産んだと言われている。だがもうそれは100年以上前の話で、無知だからそのような迷信を信じるのだ。

彼女を溺愛している父は、彼女をそばに置くために高位の貴族からも結婚相手を見つくってきたが、誰も気に入らない。
それでは、と数名の騎士を推薦されたが、あるものは年が離れすぎており、別のあるものは身分が離れすぎていた。
ただ、それ以前に誰も気に入らなかった。結婚し情を交わす行為など想像もできない。

その他にも、彼女の身分を目当てに言い寄ってくる男はいくらでもいた。
だが、誰も物足りない。軟弱な洒落者には興味がない。ふわふわと浮かれた浮気者などお話にならない。

でも、もしかしたら、この男なら・・・
襟足まで伸びた金髪すら好ましく思えてくる。
覚えたことのない胸のときめき。口の中が渇き、心臓が飛び出しそうになる経験など、今までなかった。食い入るように見つめていると、マダムが近づいてきた。マダムが口を開く前に「しっ」と人差し指を上げる。
彼女の視線は部屋の中に注がれていた。

男はあきれたようにため息をついた。
「ここでは無理だというのなら、別の店に行けばいいだろう」
「だってお兄様、ここが一番流行っている店なんですもの」
「どうでも」
「よくありません!ドレスは女の命なんですよ!」

令嬢が金切声を上げると、男は面倒くさそうに右手を払った。

「くだらん。私は帰る。お前は勝手にしろ。そもそも、今回お前は『ついで』だろう?主役のエミリアが何も文句を言っていないのに、なぜおまえが」
「ちょっと!お言葉ですけど」令嬢がほほを膨らませた。「エミリア様は身分が低いではありませんか。しかも、ファッションセンスは壊滅的・・・」
「どうでもいい。主人!」男が振り返り、店内を見回した。

すっと伸びた鼻筋に、濃い金色の髪。意思の固そうな少し割れた顎。はっとするほど美しい空色の瞳。

どきん

彼女の胸が大きく鳴り、心臓が早鐘を打ち始めた。

服装は旅姿の騎士のようで、宮廷にたむろする優美な貴族とはまるで違う。
だが、細かな装飾品は純金や宝石があしらわれ、彼の身分が決して低くないことを物語っている。
なにより、これほど彼女の心をとらえた男はかつていなかった。
経験のない胸のときめきに戸惑いながら、話しかけようか迷う。
彼の視界に入りたい。
そんなこと考えたこともなかったのに。

足を踏み出そうとしたとき、男の側に、細身の男が近寄り、何か耳打ちした。
服装からしたら、男の従者だろう。
こちらはずいぶんときれいな男だ。

従者は男の背をなだめるようになで、男の硬い表情が柔らかく変化した。見ようによっては微笑んでいる、ともとれる。

どきん!

胸のときめきは止まらないほど大きくなり、周りに聞こえてしまうほど。
ほほに血が上り、かあっと赤くなるのが自分でもわかった。
指は震え、立っていられない。
でも目が離せない。

(ああ、どうしよう)

生まれて初めて感じる感覚に彼女はうろたえていた。
いつものように堂々と話しかけることなどできるはずもない。
思わず後ずさると、どさっと何かが落ちる音が聞こえた。

「お嬢様、申し訳ありません」

彼女が後ずさったとき、マダムに触れてしまい、両手いっぱいに抱えられたシルクが床に零れ落ちていた。

「ああ」

急に現実に戻る。
彼女は、いつものように笑っているとも笑っていないともつかない、あいまいな表情を浮かべた。
誰が見ているともつかないこんな場所で我を失うなんて。

「大変な失礼を・・・」ぺこぺこと謝るマダムに、彼女は優しく微笑みかけた。こんなサービスはめったにない。
「とりあえず、今日はいいわ。あちらの方の対応をしてあげて。オーダーじゃなくてもいいそうだから、力になってあげてちょうだい」
「えっ?ですが、あの方たちは」田舎者じゃないですか。思わず言葉を飲み込む。
「私のドレスを作る余力があるのなら、できるでしょう?先ほど見せていただいた作品はどれも素敵だったわ。伯爵家だそうだから、買える財力は十分にあるでしょう。あの田舎臭い娘を短期間でどれほど仕立て上げられるか、あなたの技量がわかるわね。楽しみにしているわ。それから・・・あの殿方も宮廷向けにしっかり仕立ててあげて頂戴。あのままでは、ちょっと・・・野性的すぎるかもね。あの方々を最新モードに包ませて、そしてわたくしが気に入れば・・・主席デザイナーも夢ではないわよね?」
「しゅ、しゅせきデザイナー・・・!」

まさにマダムの夢そのものではないか!

彼女は手に白い手袋をはめると、再度微笑んだ。

「うふふ、楽しみにしているわ。そうそう、あの方がどなたなのか、あとで正確に報告して頂戴。伯爵家の方なら、わたくしの誕生会にでていただけるんでしょうから、直接お話しする機会もあるわよね。」

かしづいていた侍女が帽子のリボンを首の下で結び終え、彼女は振り返った。

「あ、そうそう。わたくしの衣装に空色のポイントを何かつけて頂戴。リボンにするかレースにするかそれとも宝石か・・・あなたのセンスを楽しみにしているわ。空色ってとても美しい色だものね。では」

先ほどの動揺は毛ほども感じさせない。完璧な淑女がさらさらと衣擦れをさせながら遠ざかっていく。
ただ小声で侍女に話す声だけが、かすかに聞こえてきた。

「少し疲れたわね。そういえば、最近評判だと聞いたパティスリーはここから近いのかしら?」

笑いを含んだ声が遠ざかっていく。
店の奥に隠された貴賓専用の戸口から彼女が立ち去ると、残されたマダムはプライドと出世欲の間で戸惑っていた。

(あの田舎者のドレスを、この私に作れって・・・?いえ、あの方の命令は絶対よ。主席デザイナーになってみせる)

マダムの背がすっと伸びた。7歳で奉公に出て、泥水をすするような苦労をしながらここまでのし上がってきたのだ。あの田舎者を完璧なレディーと紳士に仕立て上げることなど、私には造作もないこと。

「お嬢様ーぁ、大変お待たせいたしましたぁ」

マダムは甲高い声で、店の入り口で待つ客のもとにいそいそと向かった。



************


お読みいただきましてありがとうございました。
♡も広告もありがとうございます。
そのお気持ちが、なんかうれしいなー、とほのぼのしております。

さて、BL界として不穏な展開になってきています。
明日は彼女の正体が明らかに!
(皆様分かってますよね・・・)

というわけで、ストックを切らしたため、綱渡りですが、がんばります。
縁起が悪いので明日のあいさつはしないことにします。

急激に寒くなりますので、皆様、体調に気を付けてくださいね!



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