青柳さんは階段で ―契約セフレはクールな債権者に溺愛される―

クリオネ

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《第2章》 西新宿のエウリュディケ

うな重の松

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 西新宿の地下街を歩いて連れてこられたのは、小上がりの個室もある老舗だった。

 一番安いメニューを頼んでも、もはやお見通しだろうと思ったので、瞳子は「食べたいな」と思ったうな重の松コースを選んだ。飛豪は更に大きなサイズの特上にしていた。

 彼女は、すっかり恐縮してしまっていた。食べたいものを正直に言ったはいいが、その後に支払わなければいけない対価がこわい。

 ――いいのかな。本当にいいのかな?

 あの夜彼を選んだのは、追い返されそうになった局面を、ただ単に体当たりで打開しようとしただけだ。こんな展開に転ぶとは、考えてもいなかった。

 そもそも、仕事を斡旋してくれた小百合にだって、この成り行きは言っていない。彼女には、「ちょっとお金が必要になった」くらいの事情説明だけだ。

 正面に向かっている相手は、低いテーブル席のためか、大きな背中を少し窮屈そうに縮めていた。

 注文を頼んだあとの沈黙が痛い。

 彼がスマートフォンなりタブレットなりでも取り出して画面に集中してくれれば、気楽にくつろげるのだが、そういう様子もない。瞳子はあまりの気まずさに、メニューを再び手にとってデザートのページを眺めていた。前髪あたりに、視線を感じる。すっかり顔をあげづらくなっていた。

 ――でも、お礼は言わないと。この人がいなかったら、わたし、今頃どうなっていたことか。

 言うべきことを思いだして、瞳子は顔をあげた。

「あの……」

「なに?」

「この前、ありがとうございました。お金、役に立ちました」ペコリと頭を下げた。

「無事に家賃返せた?」

「? ……ええまぁ」

 瞳子は意味が分からない、というように目を瞬かせた。家賃ってなんだっけ?

 やがてあの夜自分がついた嘘を思いだし、目線を横に泳がせながら曖昧な返答をする。その様子を、飛豪が訳知り顔のうすら笑いで眺めていた。家賃滞納だなんて苦しい嘘だが、騙されたフリを続けてくれるようだ。

 本当はなにかお礼も渡すつもりだった。

 最寄りの駅前に都内でも有名なベーカリーがある。そこで、マフィンなりカヌレなり買っていけばいいかな、と、駐輪場に自転車をとめるまでは考えていた。しかし、結局店には入らずに新宿に来た。

 理由はいくつかある。体だけの関係の人間から、物をもらっても嬉しくないだろうな、と思ってしまったのだ。貧乏学生の財布で買えるペストリーより、一日でも早く返済をしたほうが喜ばれるかな、と。

 大学の授業料は全額給付の奨学金でまかなっている。生活費と、これまで細々と返済していた分は、週四でアルバイトにはいって稼ぎだしてきた。口座残高は、つねに五桁でやりくりしている。

 しかし、今回のことで借金の返済先が変わり、就職するまで待ってくれる、ということになったので月々の生活に余裕ができそうだ。少なくとも毎月五万円の余裕がでる。

 その五万円をどう使うか。貯めておくにこしたことはない。医療費だって、定期的にかかっている生活なのだ。

 ――でも。本当に、本当に、命がつながるくらい助かったのだから、なにかお礼したい。

 ひっきりなしに人が出入りするパン屋の店先で、瞳子は逡巡していた。

 ――だけど。わたしがお礼しても、むしろ困らせちゃう気がする。

 躊躇のあげく、結局店には入らずに電車に乗った。本当は、お礼を買わなかった理由はもう一つある。

 ――お礼とか渡して、機嫌とるみたいでイヤだな。

 瞳子は飛豪に甘えたくなかった。お礼を渡したりして会話をして、親密になって、友達みたいな関係を彼と築きたくなかった。

 あくまでも債権者と債務者の関係だ。彼と自分をつないでいるのはお金で、お金とセックスを交換しているだけ。

 ――なのに、会ってそうそう奢られてしまっている……。やっぱ中華にしとくべきだったかな。ううん。あの時点でわたしがウナギを食べたがってたの、飛豪さんにばっちりバレてたし。

 なんとも締まらない覚悟に、自分でもがっかりする。湯呑みにつがれた緑茶を啜ったとき、黒塗りの重箱にはいったウナギが運ばれてきた。

 ウナギを前にして、二人は黙々と箸を動かした。

 気づまりな空気だったかというと、そうでもない。ふっくらと焼きあげられたウナギは香ばしくジューシーで、山椒の風味がきいていた。あとを引かない甘い味つけも幸せそのものだった。

 瞳子は数年ぶりのウナギにすっかり夢中になる。彼も、ご馳走を前にあれこれ言わない人間なのだろう。綺麗な箸づかいで、淡々と食していた。

 重箱が空になるころ、飛豪は脇においていたメニューを指さした。「デザートは?」

「大丈夫です。お腹いっぱいです」瞳子はふるふると首を振った。

 さっき、彼女が手持ちぶさたにデザートのラインナップを見ていたのを覚えていたのだろう。最初にドラッグを飲まされそうになっていたところを助けてもらった時といい、彼はよく目配りをしている。

 ――そういえばこの人、彼女いないのかな? わたしとしないで、恋人とすればいいのに。

 ふと思った。瞳子の限られた見識でも、飛豪はまずモテる方だと思う。

 明るくて飄々としているのに、ところどころで冷たい線引きをしてくる。

 それは、自分が許した人間しか内側に入れないということだ。容姿だけでなくそのギャップが良いと、彼の内側に招きいれてほしい女性は、沢山いるはずだ。

 先に食べ終わった彼は、ゆっくりと食べる瞳子を特に気にした風もなく待ってくれていた。彼女の重箱も湯呑みも空になったところで、伝票を手に立った。

「行こうか」

「ご馳走さまでした」

 瞳子は丁寧に頭をさげた。
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