青柳さんは階段で ―契約セフレはクールな債権者に溺愛される―

クリオネ

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《第4章》 雨と風と東京駅

お堀端のフレンチ3

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 飛豪の瞳の奥で、暗い感情がとめどなく揺れていた。目が、底の見えない澱んだ川のような色を帯びている。

「ま、さすがに気づくよな、それも」

 思いのほか、彼は乾いた口調で返した。あっけらかんと続ける。

「お察しのとおり、人格……みたいなもの。時たま、そういう野蛮なスイッチが入るというか」

「多重人格? それとも一時的に、誰かや何かを傷つけたり痛めつけたくなるってこと……?」

「詳しくは言わない。これに関してディスカッションする気はないんだ。とにかく俺のそういう衝動のために、君を雇ったとしか言わない」

 ここまで、と明確に線をひかれると、瞳子もそれ以上は探れなかった。

「わ、かりました」

「それで、俺の質問への答えは?」彼は最初の質問を忘れていなかった。

「……あの時わたしが考えてたことを聞いたら、飛豪さん、ドン引きどころかわたしのこと追い出しますよ」

 正直なところ答えたくない彼女は、警告するように言ってしまう。ここで引きさがってくれればいい。しかし、余計に興味をかられたようだった。

「なにそれ? しかも今更? もう二週間も一緒に暮らしてるんだけど」

「でも……」

「早く話して」

 急きたてられて、瞳子は観念した。しかしあの頃、いつも考えていたことだ。言葉はなめらかに出てきた。

「……全部、計算してやったんです。事前に、刑法とか正当防衛とか図書館で調べて。本当は刃渡り三〇センチぐらいのナイフで刺してやりたかったけど、そんなのバッグに入れてたら、最初から殺意があったことになるでしょ。だけど、いつも使ってる眉バサミなら、咄嗟にそれで対抗したって言い逃れできそうだと思ったの。だってあの頃、わたし家に帰れなくて化粧道具一式を持ち歩いてたから。警察署で泣いたのも演技です。まぁ、すごく怖かったのも事実ですけど」

「なるほどね」

 彼は感心した調子で相槌をうった。

「この二年間、督促状とか、内容証明郵便とか、いろんな文書が届いていて。玄関先でああいう人たちと押し問答になって苦情がきたこともありました。自分なりに調べて弁護士に相談も行ったけれど、正直、無料相談だとその場かぎりになってしまって。だって、わたし、母が死んだとき、三か月以内に相続放棄していれば借金も消えて、今こんなに困ってなかったっていうのも、最近知って……あの時わたし一八歳で、そこまで思いつかなかったし、誰も教えてくれなかった……」

「それで」

 飛豪はいっそ冷淡なまでに、次を促した。

「タイミング良く警察に捕まれば正当防衛で解放されるだろうし、あいつらが確実に罪に問われるのも分かっていた。もし警察に保護されなかった場合、わたしは不特定多数を相手にさせられると想定してました。だったら……少なくとも山根だけは致命傷をおわせてやりたかったんです。わたしに手を出してくるとしたら、あいつが最初なんじゃないかと思ってたから。いつも、気持ち悪い舐めまわすような視線で見てきて……だけどダメですね。肝心の瞬間に、どこを狙っていいか咄嗟に判断できなくて……」

 フラッシュバックに襲われたのか、瞳子の呼吸が浅く、はげしくなってきたのに飛豪は気づいた。彼は水のグラスをすすめる。喉を潤した彼女は、話をつづけようとした。なのに、言葉が出てこない。

 ――そう、わたしはあいつを、殺してやろうと思っていた。飛豪さんも今ごろ、「とんでもない女を家にあげてしまった」と思っているかもしれない。害になるから、この場かぎりで出ていけと言われるかもしれない。

 瞳子が「わたしは、そういう人間なんですよ」と、毒々しい薄笑いで話をまとめると、彼はその視線を動じずに受けとめ、挑発するように見つめかえした。

「やっと君のことが分かってきたよ。思考回路とか、そのムカつくけどそそられる表情カオは強がりなんだ、とか」

「……出ていけって言わないんですか?」

「どうして? 今の話を聞いても、そんな結論にはならない」

「だってわたし、飛豪さんのことだって、いつか傷つけるかもしれない」

「直近では、俺が瞳子のこと殺す確率のほうが高くない? 実際に、そういうコトしちゃってるし」

 物騒な話を、鴨のソースをパンで拭いながらなんてことのない顔で言う。

「わたしはいいんです。そういう約束だから」

「なら俺もいいんじゃね? 俺も君に歯向かわれるリスクぐらい考慮してるよ。統計から言うと、家族とか恋人って自分を殺す確率が一番高い人間だからな。キッチンには凶器が揃ってる」

「わたし、飛豪さんの家族でも恋人でもないです……」

「一緒に暮らしてるってだけで、それに近い関係だよ。とにかく俺は、一方的に不平等条約結ぶつもりはない。最終的に債権回収しなきゃいけないから、就職とかその辺は口挟むだろうけど」

「就職……かぁ」

「大学三年だろ。考えてるんじゃないのか?」

「考えてますよ、もちろん。わたしの大学、有名校だけど偏差値はそれほどだから、気になったところは全部受けてみて、手ごたえ探りながら絞っていった方がいいんだろうな、とか」

「バレエに戻る気は……」

「ないです。もう良いんです。だってわたし、踊る素質はあったけれど、教える素質はゼロだから指導者にもなれない」

「だってお父さんもバレエ関係者だったんだろう? 君本人があれだけの実績残してて、両親ともに関係者なら、いくらでも仕事の声はかかってくると思うんだけど」

 父親のプロフィールを匂わされて、瞳子はひやりとした気分を味わった。
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