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《第4章》 雨と風と東京駅
お堀端のフレンチ5
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酔っていると、表情をつくるのが容易になるのかもしれない。これは現役時代に知っておきたかった。
瞳子の口はなめらかに言葉をつむいだ。
「父親の桐島要が死んでから二〇年以上たつのもご存じですよね。いくら国の文化勲章もらった振付家の血をひいていても、母がDNAテストで証明して、お情けで名字を借りさせてもらってただけです。戸籍はずっと青柳のままでした。だからこそバレエをやめたときスムーズに青柳瞳子に戻れたんですけど」
そういうことなのだ。
彼女の父親は、二二年前に他界した著名な振付家だった。
瞳子を生んだとき、母は二十代後半で、父親は五十代なかば。聞いた話では、父親は食指がうごけば男でも女でもどちらでもいい、というタイプだったらしい。事故死した際は二番目の妻が本妻として君臨していて、瞳子の母親のほか、恋人は男女複数人いたという。
母は、バレエが才能と実力の世界だということを嫌というほど思い知っていたはずなのに、桐島の名字を通称として娘に名乗らせることで箔をつけた。今にして思うと、一六歳でCMの話が舞いこんできたのは、その辺りも影響しているのだろう。
父方から援助されたこともなければ、親戚と顔をあわせたこともなかった。母が自殺したとき、連絡ひとつなかった。瞳子の母方の祖父母は、娘が私生児を生んだことでショックを受けて勘当の末、いまは認知症で施設にいるという。
母の葬儀のとき、唯一来てくれたのが母の兄だった。
松江から上京してきたという初老のその人は、高速バスで一二時間もかかったせいか、喪服のスーツも皺が目立ち、疲れた印象だった。いつも身じまいが整っていて背筋が伸びていた母の血縁だとは思えないほど、くたびれて見えた。うすい香典袋を瞳子に手渡し、「うちも中三と高二の子がいて大変なんだ」と、下を見ながらボソボソ言い、出棺さえ見送らずに帰っていった。
その時すでに自分のバレエのために母親が重ねていた借金の総額を知っていた彼女は、だったら、わざわざ東京まで来なくていいから交通費を香典に上乗せしてくれればいいのに、と世知辛いことを考えたのを、よく覚えている。たった一回しか会わなかった伯父は、姪のことを名前ではなく「桐島さん」と呼んでいた。
「だから、わたし、飛豪さんに助けられて本当に感謝してるんですよ!」
父方のエピソードを語り終えると、瞳子は陽気な声でまとめた。
「大人だし、頼りがいあるし、優しいし、理性的だし、カラダ目当てなのか特殊性癖なのかは分からないけど、美味しいご飯連れてってくれるし、大好きです!」
気づいたら、飛豪がぎょっとした顔で、ピエロのように喋りつづける彼女を見つめていた。彼の視線が突き刺さっているというのに、口が止まらない。
――なに馬鹿なこと言ってるの、わたし。ストップ。喋るのストップ!
自分の意志とは裏腹に、アルコールが加速度をつけて、一度まわりはじめた舌の動きが止まらない。
「わたし、飛豪さんに命令されたら結構サービスしちゃいますよ。正直、今まで恋愛とか考える余裕なかったから、体位とか全然知らないんです。でもリクエストがあったら、動画検索してでもやります。だって今、あなたが命綱ですもん。クスリと撮影以外だったら、痛いことでも恥ずかしいことでも何でもオッケーです。だから……あ、飛豪さんもグラス空いてますね! オーダーしましょうか」
瞳子が腰を浮かしかけたところで、彼は突然腕を伸ばしてきた。
大きな手のひらがあっという間に視界に大写しになったかと思うと、スパンと音を立てて頭を叩かれた。
手首にきかせたスナップが鮮やかで、小気味よい音があたり一帯に響く。給仕たちの視線を集めるほどだった。同時に、彼の呆れかえった声がした。
「落ち着け。あと、飲みすぎ」
「い……痛い」
「喋るなら喋る、泣くなら泣くで、どっちかにしろ」
飛豪はジャケットの内側からハンカチを取り出すと、彼女の手に握らせた。
「泣いてないです」
反論しながら手の甲を目元にあてると、目のきわや頬が湿っている。自分が泣いていたことにさえ気づいていなかった。だけど、やっと止まった。バカになって空回りしていた瞳子の口を、彼が止めてくれた。
「ごめんなさい。ちょっと、変なコトまで言っちゃいました……」
「今日、これ以上アルコール禁止。あと、ルール追加な。今後よそで飲むときは、誰とどこで飲むか、事前に教えて」
ハンカチで涙をぬぐっている彼女の手元に水のグラスを再度押しやってから、飛豪は給仕に合図をした。
先ほどからこちらの様子をはらはらしながら眺めていたと思われる一人が、すぐさま足音をたてずに近づいてきた。
「騒々しくして、すみません。ひょっとして他の席にお詫びが必要な状況ですか?」
彼が如才なく気遣いを見せる。
「大丈夫です。離れたお席なので、他のお客様は気づかれておりません。それより、お連れ様のご気分はいかがですか?」
「ちょっと飲みすぎたみたいで。温かい紅茶かなにかあると助かるんですけど」
「紅茶でしたらアールグレイ、ウヴァ、ニルギリ。ハーブティーでしたらミント、レモンバーム、カモミールのご用意があります」
「どれがいい、瞳子?」
「レモンバームでお願いします」すんすんと鼻の奥で涙をのみながら、彼女は答えた。
「かしこまりました」給仕は、訪れたときと同様に滑らかな動きで去っていった。
――二人とも仕事のできる大人なのが辛い。それに引きかえ、わたしの情けないお子様加減ときたら!
先ほどの自分は実に酔っていたらしい。水を飲んでいるうちに体の芯がきゅっと冷えて、清涼さがゆっくりと循環していった。
瞳子の口はなめらかに言葉をつむいだ。
「父親の桐島要が死んでから二〇年以上たつのもご存じですよね。いくら国の文化勲章もらった振付家の血をひいていても、母がDNAテストで証明して、お情けで名字を借りさせてもらってただけです。戸籍はずっと青柳のままでした。だからこそバレエをやめたときスムーズに青柳瞳子に戻れたんですけど」
そういうことなのだ。
彼女の父親は、二二年前に他界した著名な振付家だった。
瞳子を生んだとき、母は二十代後半で、父親は五十代なかば。聞いた話では、父親は食指がうごけば男でも女でもどちらでもいい、というタイプだったらしい。事故死した際は二番目の妻が本妻として君臨していて、瞳子の母親のほか、恋人は男女複数人いたという。
母は、バレエが才能と実力の世界だということを嫌というほど思い知っていたはずなのに、桐島の名字を通称として娘に名乗らせることで箔をつけた。今にして思うと、一六歳でCMの話が舞いこんできたのは、その辺りも影響しているのだろう。
父方から援助されたこともなければ、親戚と顔をあわせたこともなかった。母が自殺したとき、連絡ひとつなかった。瞳子の母方の祖父母は、娘が私生児を生んだことでショックを受けて勘当の末、いまは認知症で施設にいるという。
母の葬儀のとき、唯一来てくれたのが母の兄だった。
松江から上京してきたという初老のその人は、高速バスで一二時間もかかったせいか、喪服のスーツも皺が目立ち、疲れた印象だった。いつも身じまいが整っていて背筋が伸びていた母の血縁だとは思えないほど、くたびれて見えた。うすい香典袋を瞳子に手渡し、「うちも中三と高二の子がいて大変なんだ」と、下を見ながらボソボソ言い、出棺さえ見送らずに帰っていった。
その時すでに自分のバレエのために母親が重ねていた借金の総額を知っていた彼女は、だったら、わざわざ東京まで来なくていいから交通費を香典に上乗せしてくれればいいのに、と世知辛いことを考えたのを、よく覚えている。たった一回しか会わなかった伯父は、姪のことを名前ではなく「桐島さん」と呼んでいた。
「だから、わたし、飛豪さんに助けられて本当に感謝してるんですよ!」
父方のエピソードを語り終えると、瞳子は陽気な声でまとめた。
「大人だし、頼りがいあるし、優しいし、理性的だし、カラダ目当てなのか特殊性癖なのかは分からないけど、美味しいご飯連れてってくれるし、大好きです!」
気づいたら、飛豪がぎょっとした顔で、ピエロのように喋りつづける彼女を見つめていた。彼の視線が突き刺さっているというのに、口が止まらない。
――なに馬鹿なこと言ってるの、わたし。ストップ。喋るのストップ!
自分の意志とは裏腹に、アルコールが加速度をつけて、一度まわりはじめた舌の動きが止まらない。
「わたし、飛豪さんに命令されたら結構サービスしちゃいますよ。正直、今まで恋愛とか考える余裕なかったから、体位とか全然知らないんです。でもリクエストがあったら、動画検索してでもやります。だって今、あなたが命綱ですもん。クスリと撮影以外だったら、痛いことでも恥ずかしいことでも何でもオッケーです。だから……あ、飛豪さんもグラス空いてますね! オーダーしましょうか」
瞳子が腰を浮かしかけたところで、彼は突然腕を伸ばしてきた。
大きな手のひらがあっという間に視界に大写しになったかと思うと、スパンと音を立てて頭を叩かれた。
手首にきかせたスナップが鮮やかで、小気味よい音があたり一帯に響く。給仕たちの視線を集めるほどだった。同時に、彼の呆れかえった声がした。
「落ち着け。あと、飲みすぎ」
「い……痛い」
「喋るなら喋る、泣くなら泣くで、どっちかにしろ」
飛豪はジャケットの内側からハンカチを取り出すと、彼女の手に握らせた。
「泣いてないです」
反論しながら手の甲を目元にあてると、目のきわや頬が湿っている。自分が泣いていたことにさえ気づいていなかった。だけど、やっと止まった。バカになって空回りしていた瞳子の口を、彼が止めてくれた。
「ごめんなさい。ちょっと、変なコトまで言っちゃいました……」
「今日、これ以上アルコール禁止。あと、ルール追加な。今後よそで飲むときは、誰とどこで飲むか、事前に教えて」
ハンカチで涙をぬぐっている彼女の手元に水のグラスを再度押しやってから、飛豪は給仕に合図をした。
先ほどからこちらの様子をはらはらしながら眺めていたと思われる一人が、すぐさま足音をたてずに近づいてきた。
「騒々しくして、すみません。ひょっとして他の席にお詫びが必要な状況ですか?」
彼が如才なく気遣いを見せる。
「大丈夫です。離れたお席なので、他のお客様は気づかれておりません。それより、お連れ様のご気分はいかがですか?」
「ちょっと飲みすぎたみたいで。温かい紅茶かなにかあると助かるんですけど」
「紅茶でしたらアールグレイ、ウヴァ、ニルギリ。ハーブティーでしたらミント、レモンバーム、カモミールのご用意があります」
「どれがいい、瞳子?」
「レモンバームでお願いします」すんすんと鼻の奥で涙をのみながら、彼女は答えた。
「かしこまりました」給仕は、訪れたときと同様に滑らかな動きで去っていった。
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