青柳さんは階段で ―契約セフレはクールな債権者に溺愛される―

クリオネ

文字の大きさ
56 / 192
《第4章》 雨と風と東京駅

雨の夜

しおりを挟む
 店を出たら霧のような小雨が降っていた。

 けぶるように街灯の光がにじんで見える。夜一〇時をまわっていたので、お堀端を歩く人影は少なかった。

 瞳子の革のポシェットに入っていた小さな折り畳み傘を飛豪がさしたが、身長差のせいか、どちらも半端に濡れてしまう。

 メトロの大手町駅から東西線に乗れば、一本で神楽坂につく。

「駅すぐだし、俺は平気だから」

 めっきり口数が少なくなっていた彼女に、彼は傘を譲ろうとした。そんな彼に、謝罪の言葉が口をついてでた。

「飛豪さん、さっきごめんなさい。明るく喋ったほうが心配されないかなって思ったんだけど、全然上手くできなかった」

「さっき一度、謝ってくれたからいいよ」

「……わたし、自分のこと喋るの下手だし、たまに喋ってみると失敗するから友達あまり多くないんです。ちょっと前まで、バレエさえ上手くいってれば他のことなんてどうでもいいと思ってたくらいだし。だから、あなたがさっき言ってた、人に頼るのもすごく苦手」

 するりと本音がこぼれだしていた。
 
 先ほどのフレンチのお店だと、彼が正面に座っていたために言えなかったが、隣に並んでいるだけで、本当の言葉で伝えることができる。

 彼は傘をもちかえると、無言で彼女の手のひらをとった。瞳子も握りかえす。深夜のビジネス街に地下鉄の入口がぽっかりと口をあけている。しかし二人はどうしてか行きすぎて歩きつづけた。

 雨音がかすかに傘を叩いている音が、心地よかった。雨に降りこめられると、世界から切り離されたように感じる。

 言葉もなく、二人はただ淡々と雨の夜道を歩んだ。曲がり角にさしかかると、急に真正面に東京駅があらわれた。

 日中の東京駅も威風堂々として立派だが、夜のライトアップされた赤煉瓦の壮麗さもまた別格だ。マホガニーレッドの厳めしい西欧風の建物。雨のなか赤い壁面は濡れて輝き、不思議な質感をおびている。ひどく幻想的だった。

「へぇ、夜の東京駅ってちゃんと見るの初めてかも」

「わたしも初めて。なんていうか、駅っていうよりお城みたい」

「ここの広場、人がいないとこんなにデカかったんだ。イベントとかできそう」

 道路をわたると、駅前に大きな空間が開けている。南北に長い駅舎が腕を広げて、訪れては去っていく人々を、出発の気分を、抱擁している。まるで、何かの舞台装置のようだった。

「ここなら、野外舞台だってできる……」

 誰に聞かせるともなく口にした瞬間、瞳子は自分が、グンと引っぱられたのを感じた。

 何に? そんなの決まってる。バレエにだ。

 怪我をしてからの五年間、一度だって来てくれなかったのに、どうして今。鼓動が一つ、体全体に反響しそうなくらい大きくはねた。

 ――呼ばれている。

 透明な腕に背中をおされ、彼の手をはなした。

 雨のなか、広場の中央にまっすぐに進んでいく。

 途中で、ハイヒールを脱ぎすてた。靴なんていらない。濡れたコンクリートをストッキングごしに受ける感触も、時折足首にはねる雨粒も、気にならなかった。ただ、今なら踊れると思った。その直感だけに突き動かされていた。

 一番ポジションのアンドゥオール。

 地面と、足の筋肉と、骨盤。骨盤から背筋、肩、頭のてっぺんまで、まっすぐに力が流れていく感覚が蘇る。この世のすべてを抱きしめられそうな全能感。頭のなかに、ゆるやかな甘い旋律が流れてきた。レ・シルフィード――ショパンのプレリュードだった。

 次の瞬間、音に導かれるようにして、雨の夜空へと腕がのびた。

 ――本当は、お星さまを掴みたかった。

 自分の腕がえがく軌道に、風が寄りそうのを感じる。雨が再会を喜ぶように、優しく頬をすべっていく。そう、踊るときだけは、ありとあらゆるものが味方だった。

 レ・シルフィードとは風の妖精たちを意味する。妖精たちが棲む森に詩人の男が迷いこみ、一晩、彼らは月あかりの下で踊りつづけるという、他愛もない筋書きだ。

 妖精たちに、地上の重力の支配はおよばない。体重など存在しないように軽やかなステップを刻み、風と手に手をとって戯れる。―――だから、膝と腰にかかる負荷が非常にきついバリエーションなのだ。「軽やかさ」がメインの踊りの出来は、体重と下半身の運動量で決まる。

 膝の靱帯断裂でバレエをやめた自分に、とても踊れる曲ではない。ポワントもジャンプもできない。最初から分かっている。

 それでも、魔法のように動けていた。

 単純なステップとアレンジだけで誤魔化している下半身と違って、腰から上――腕の関節、手首、背中の反り――は、思いのままだった。現役のときは苦手だった、手のひらの角度や指先のモーションにまで、余韻をひくニュアンスがつけられる。

 全身が雨に濡れているのに、体の芯に熱がともっていた。
しおりを挟む
感想 22

あなたにおすすめの小説

【完結】退職を伝えたら、無愛想な上司に囲われました〜逃げられると思ったのが間違いでした〜

来栖れいな
恋愛
逃げたかったのは、 疲れきった日々と、叶うはずのない憧れ――のはずだった。 無愛想で冷静な上司・東條崇雅。 その背中に、ただ静かに憧れを抱きながら、 仕事の重圧と、自分の想いの行き場に限界を感じて、私は退職を申し出た。 けれど―― そこから、彼の態度は変わり始めた。 苦手な仕事から外され、 負担を減らされ、 静かに、けれど確実に囲い込まれていく私。 「辞めるのは認めない」 そんな言葉すらないのに、 無言の圧力と、不器用な優しさが、私を縛りつけていく。 これは愛? それともただの執着? じれじれと、甘く、不器用に。 二人の距離は、静かに、でも確かに近づいていく――。 無愛想な上司に、心ごと囲い込まれる、じれじれ溺愛・執着オフィスラブ。 ※この物語はフィクションです。 登場する人物・団体・名称・出来事などはすべて架空であり、実在のものとは一切関係ありません。

おじさんは予防線にはなりません

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「俺はただの……ただのおじさんだ」 それは、私を完全に拒絶する言葉でした――。 4月から私が派遣された職場はとてもキラキラしたところだったけれど。 女性ばかりでギスギスしていて、上司は影が薄くて頼りにならない。 「おじさんでよかったら、いつでも相談に乗るから」 そう声をかけてくれたおじさんは唯一、頼れそうでした。 でもまさか、この人を好きになるなんて思ってもなかった。 さらにおじさんは、私の気持ちを知って遠ざける。 だから私は、私に好意を持ってくれている宗正さんと偽装恋愛することにした。 ……おじさんに、前と同じように笑いかけてほしくて。 羽坂詩乃 24歳、派遣社員 地味で堅実 真面目 一生懸命で応援してあげたくなる感じ × 池松和佳 38歳、アパレル総合商社レディースファッション部係長 気配り上手でLF部の良心 怒ると怖い 黒ラブ系眼鏡男子 ただし、既婚 × 宗正大河 28歳、アパレル総合商社LF部主任 可愛いのは実は計算? でももしかして根は真面目? ミニチュアダックス系男子 選ぶのはもちろん大河? それとも禁断の恋に手を出すの……? ****** 表紙 巴世里様 Twitter@parsley0129 ****** 毎日20:10更新

禁断溺愛

流月るる
恋愛
親同士の結婚により、中学三年生の時に湯浅製薬の御曹司・巧と義兄妹になった真尋。新しい家族と一緒に暮らし始めた彼女は、義兄から独占欲を滲ませた態度を取られるようになる。そんな義兄の様子に、真尋の心は揺れ続けて月日は流れ――真尋は、就職を区切りに彼への想いを断ち切るため、義父との養子縁組を解消し、ひっそりと実家を出た。しかし、ほどなくして海外赴任から戻った巧に、その事実を知られてしまう。当然のごとく義兄は大激怒で真尋のマンションに押しかけ、「赤の他人になったのなら、もう遠慮する必要はないな」と、甘く淫らに懐柔してきて……? 切なくて心が甘く疼く大人のエターナル・ラブ。

財閥御曹司は左遷された彼女を秘めた愛で取り戻す

花里 美佐
恋愛
榊原財閥に勤める香月菜々は日傘専務の秘書をしていた。 専務は御曹司の元上司。 その専務が社内政争に巻き込まれ退任。 菜々は同じ秘書の彼氏にもフラれてしまう。 居場所がなくなった彼女は退職を希望したが 支社への転勤(左遷)を命じられてしまう。 ところが、ようやく落ち着いた彼女の元に 海外にいたはずの御曹司が現れて?!

あなたがいなくなった後 〜シングルマザーになった途端、義弟から愛され始めました〜

瀬崎由美
恋愛
石橋優香は夫大輝との子供を出産したばかりの二十七歳の専業主婦。三歳歳上の大輝とは大学時代のサークルの先輩後輩で、卒業後に再会したのがキッカケで付き合い始めて結婚した。 まだ生後一か月の息子を手探りで育てて、寝不足の日々。朝、いつもと同じように仕事へと送り出した夫は職場での事故で帰らぬ人となる。乳児を抱えシングルマザーとなってしまった優香のことを支えてくれたのは、夫の弟である宏樹だった。二歳年上で公認会計士である宏樹は優香に変わって葬儀やその他を取り仕切ってくれ、事あるごとに家の様子を見にきて、二人のことを気に掛けてくれていた。 息子の為にと自立を考えた優香は、働きに出ることを考える。それを知った宏樹は自分の経営する会計事務所に勤めることを勧めてくれる。陽太が保育園に入れることができる月齢になって義弟のオフィスで働き始めてしばらく、宏樹の不在時に彼の元カノだと名乗る女性が訪れて来、宏樹へと復縁を迫ってくる。宏樹から断られて逆切れした元カノによって、彼が優香のことをずっと想い続けていたことを暴露されてしまう。 あっさりと認めた宏樹は、「今は兄貴の代役でもいい」そういって、優香の傍にいたいと願った。 夫とは真逆のタイプの宏樹だったが、優しく支えてくれるところは同じで…… 夫のことを想い続けるも、義弟のことも完全には拒絶することができない優香。

恋は襟を正してから-鬼上司の不器用な愛-

プリオネ
恋愛
 せっかくホワイト企業に転職したのに、配属先は「漆黒」と噂される第一営業所だった芦尾梨子。待ち受けていたのは、大勢の前で怒鳴りつけてくるような鬼上司、獄谷衿。だが梨子には、前職で培ったパワハラ耐性と、ある"処世術"があった。2つの武器を手に、梨子は彼の厳しい指導にもたくましく食らいついていった。  ある日、梨子は獄谷に叱責された直後に彼自身のミスに気付く。助け舟を出すも、まさかのダブルミスで恥の上塗りをさせてしまう。責任を感じる梨子だったが、獄谷は意外な反応を見せた。そしてそれを境に、彼の態度が柔らかくなり始める。その不器用すぎるアプローチに、梨子も次第に惹かれていくのであった──。  恋心を隠してるけど全部滲み出ちゃってる系鬼上司と、全部気付いてるけど部下として接する新入社員が織りなす、じれじれオフィスラブ。

苦手な冷徹専務が義兄になったかと思ったら極あま顔で迫ってくるんですが、なんででしょう?~偽家族恋愛~

霧内杳/眼鏡のさきっぽ
恋愛
「こちら、再婚相手の息子の仁さん」 母に紹介され、なにかの間違いだと思った。 だってそこにいたのは、私が敵視している専務だったから。 それだけでもかなりな不安案件なのに。 私の住んでいるマンションに下着泥が出た話題から、さらに。 「そうだ、仁のマンションに引っ越せばいい」 なーんて義父になる人が言い出して。 結局、反対できないまま専務と同居する羽目に。 前途多難な同居生活。 相変わらず専務はなに考えているかわからない。 ……かと思えば。 「兄妹ならするだろ、これくらい」 当たり前のように落とされる、額へのキス。 いったい、どうなってんのー!? 三ツ森涼夏  24歳 大手菓子メーカー『おろち製菓』営業戦略部勤務 背が低く、振り返ったら忘れられるくらい、特徴のない顔がコンプレックス。 小1の時に両親が離婚して以来、母親を支えてきた頑張り屋さん。 たまにその頑張りが空回りすることも? 恋愛、苦手というより、嫌い。 淋しい、をちゃんと言えずにきた人。 × 八雲仁 30歳 大手菓子メーカー『おろち製菓』専務 背が高く、眼鏡のイケメン。 ただし、いつも無表情。 集中すると周りが見えなくなる。 そのことで周囲には誤解を与えがちだが、弁明する気はない。 小さい頃に母親が他界し、それ以来、ひとりで淋しさを抱えてきた人。 ふたりはちゃんと義兄妹になれるのか、それとも……!? ***** 千里専務のその後→『絶対零度の、ハーフ御曹司の愛ブルーの瞳をゲーヲタの私に溶かせとか言っています?……』 ***** 表紙画像 湯弐様 pixiv ID3989101

俺を信じろ〜財閥俺様御曹司とのニューヨークでの熱い夜

ラヴ KAZU
恋愛
二年間付き合った恋人に振られた亜紀は傷心旅行でニューヨークへ旅立つ。 そこで東條ホールディングス社長東條理樹にはじめてを捧げてしまう。結婚を約束するも日本に戻ると連絡を貰えず、会社へ乗り込むも、 理樹は亜紀の父親の会社を倒産に追い込んだ東條財閥東條理三郎の息子だった。 しかも理樹には婚約者がいたのである。 全てを捧げた相手の真実を知り翻弄される亜紀。 二人は結婚出来るのであろうか。

処理中です...