青柳さんは階段で ―契約セフレはクールな債権者に溺愛される―

クリオネ

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《第4章》 雨と風と東京駅

キスと衝動

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 一つひとつの動作を味わうように、頭のなかで七色に輝いている音符と言葉をかわすように、瞳子はゆっくりと踊った。五年ぶりに心と体がつながっていて、意外なほど気持ちよく動けた。

 音楽が終わる最後の一瞬は、狂おしいほど名残りおしくて。自分の存在ごと雨に流されて消えてしまえばいいと思った。

 観客に対するように、瞳子は東京駅へ優雅に一礼した。

 踊れない自分に価値はないと、今だって思う。無力感がずっと心にこびりついたまま、この先の時間を過ごすのだ。

 鳴り響いていた音楽が消えても、自分が在りつづけているのは残酷だった。勢いを強めた雨のなか立ちつくしている彼女に、気がつけば飛豪が傘をさしかけていた。

「……見てました?」前を見据えたままぽつりと尋ねた。

「あぁ」

「わたし、本当にバレリーナだったんですよ」

「知ってる」

「はじまる前に終わっちゃったけど」

「それも、知ってる」

 奔流のように耳奥からほとばしっていた音楽はもう聞こえない。冷たい雨が瞳子の世界を満たしてゆく。

 久しぶりに踊ってみて、よく分かった。――もう、趣味としてしか踊れない。踊ることに自己陶酔はできるが、プロとして観客の前に立つには値しない。

 バレエを失った自分も好きになりたいのに、踊らずに生きている自分を許せない。この五年間、ずっと矛盾ばかりだった。矛盾は今も、つづいている。








 神楽坂にもどって家のドアを開ける。最初にキスを仕掛けたのは瞳子のほうだった。

 灯りもつけていない玄関先で、背伸びして、やみくもに飛豪の首筋に腕をまわした。強引に唇をかさねる。とにかく、そういう気分だった。

 驚いた彼の体が硬くなって身がまえる。しかし次の瞬間、歯列をわって舌をねじ込んできたのは、彼女ではなく飛豪のほうだった。

「……ッ⁉」

 呼吸を奪われるどころか、口腔内を嚙みちぎられそうな激しさで瞳子の舌が追いかけられていく。逃げても逃げても追い詰められていく。攻守逆転に反応できないでいるあいだに、後ろの扉に、ダンと体を押しつけられた。

 両頬をおさえこまれ、ぬるりとした彼の舌先が内側のあらゆる場所を暴きたてていく。

 彼が、自分を食い殺そうとしているような気さえした。その荒々しさの前に、つい二分前の自分の衝動など、小鳥のさえずり程度のものだったと思い知らされる。

 ――た、食べられる。

 瞳子が首をすくめ、目をぎゅっと閉じ、体を縮こまらせていると、やがて彼の体はゆっくりと離れていった。おずおずと見上げた彼は、錆びた金属のようにざらついた目をしていた。

「そっちから始めてきたのに、俺のほうが悪者になった気分。俺の理性にケンカ売ってるとしか思えない」

「ごめんなさい……」

「言っとくけど、自業自得だから」

「……はい」

「これでも今日は、優しくしようと思ってたんだ」飛豪は深々とため息をついた。

「え?」彼女はつい鳩が豆鉄砲がくらったような、ぽかんとした顔になってしまう。

「そりゃそうだろ。理由はあったけど無理に引っ越しさせたし、君は毎朝会うたびに居心地悪げで、俺から顔を背けるし」

「それは単に、朝に弱くて低血圧だからで……。寝起き最悪のむくんだ顔を、見られたくなかったんです」

「……っていう話もしないくらいの二週間だったから、今日くらいは歩み寄りをして良い週末にしようと思ってたんだ」

 彼がお手上げだ、という顔をして肩をすくめている。

 強引で野蛮なくせに、見えない気づかいを沢山してくれる優しい人に、いま瞳子はどうしても触りたかった。それは先ほどみたいな性的衝動ではなく、動物として寄り添いたい、傍にいたい、という類のもので。

 気づいたら、自分から彼に抱きついていた。胸元にすがりつき、腰に腕をまわしてぎゅっと抱きしめる。

「避けてたわけじゃないんです。ただ、まだ上手く気持ちの整理もつけられてないし、心細いときもあるし、感情がアップダウンするときもあるし……自分を持て余してて」

「うん、分かってる」

 彼は、瞳子の濡れた髪に手をやって、ゆっくりと撫ぜていた。自分はその優しさに値しない気がする。申し訳なくて、彼女はぶんぶんと頭を振った。

「一緒に暮らしてると、飛豪さんに迷惑かけると思う」

「気にしなくていい。俺は俺で、好きなようにやるから」

「でも……」

「悪いと思ってるなら、今日の俺の性欲ちゃんと受けとめて」

「了解」

 瞳子は顔を上げた。二人の目があう。今度こそ、正しいキスをかわした。
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