青柳さんは階段で ―契約セフレはクールな債権者に溺愛される―

クリオネ

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《第5章》 ロットバルトの憂鬱

彼の知っている、彼女

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 ひたむきさと、喪失の悲しみ。

 黒い影絵のように踊る彼女の姿に、何人もの街ゆく人が足をとめていた。あの二分間、観客は彼女だけを見ていたのではない。彼女を鏡にして、個々の内面にたゆたっている感傷や追憶にひたっていたのではないか。

 まるで彼女が「踊ろう」と決めた瞬間に、世界が色を変えたようだった。

 優雅なステップ、関節のしなやかさ、指先がえがく繊細な軌道――そういったもの全てが特別になる。

 仮に、まったく同じ動きを別の人間がコピーしたとしても、あれほどまでに視線を奪われないだろう。なんてことのない仕草でも、彼女がするだけで心が虜になる。

 彼女にとってバレエとは、背中あわせに生まれた双子のような存在だったのだな、と飛豪は感じた。踊ることを失った彼女はどうしようもなく一人なのに、今も、影となってバレエが背中に寄り添っている。そんな気配が満ちていた。

 ――生身なまみのアイツは、妖精からも姫からも程遠いのに。

 彼の知っている青柳瞳子は、アンバランスな人間だ。

 したたかで、なのに不器用で、大人びてもいて、子供っぽさも残っている。気が強く烈しい主張があるくせに、妙に遠慮しているところもある。儚げなのに、図太くて。無理のある嘘も平気でつく。二面性と矛盾を山とかかえた人格だ。

 しかし、彼女がふとした瞬間に見せる素の表情。車から窓の外を眺めていたり、無心に物を食べているとき、眠たげなとき、雑誌を読んでいるときの表情。あれだけは、普通の女子大生のものだ。飾りけのなさが可愛いと思えるときもある。

 ――結局、そのバランスの悪さや振れ幅の広さが青柳瞳子という人間なんだろうな。

 自分や、今まで身のまわりにいた人間とは、かけ離れている。

 同居に持ちこんだのは飛豪自身のエゴでもあるが、そちらの方が彼女が静かに安全に暮らせると思ったからだ。

 瞳子が拉致されかかった翌日、夕刻に飛豪は都内のとあるホテルの高層階にある上海料理店に出向いた。高瀬と、台湾の本家とつながりのある黒社会の幹部も同行していた。八田の関係者も三人で現れた。

 黒スーツの男六人で高級中華の回転テーブルを囲んでも、誰も料理に箸をのばす者はいなかった。その場でいきすぎた真似をした山根の件と彼女の債務についての交渉が行われ、今後ののために、一切を手じまいすることになった。

 八田としても女一人のためにこちらといざこざを起こすつもりは元よりない。分かりきっていた話だった。

 瞳子は一人で暮らすことも、セキュリティなしで道を歩くこともできるようになったが、飛豪はいまも警戒を怠っていない。護衛そのものは外したが、彼女のスマートフォンに位置捕捉アプリをいれることを了承させていた。日が沈んでからの外出には必ず車を手配するように言っている。

「卒業して就職するまで」と期限をきったのは、その頃までには彼女をめぐる周りの状況も良くなっていると見込んだからだ。安定した仕事について、一人で生きていけるようになれば誰のサポートもいらない。今があまりに危なっかしすぎるだけだ。

 二年間は、互いに相手を利用しながら一緒に暮らせばいい。飛豪は瞳子を性欲のはけ口がわりに使うし、瞳子は飛豪に金銭的に世話になる。割りきった付きあいだ。ルームメイト期間をトラブルなく過ごして、就職後の数年でつつがなく返済を終えてくれれば関係はなくなる。

 それ以上の関係を期待する気はなかった。彼女と自分が、債権者と債務者以上の関係を築けるとは思えなかった。見ているものが違いすぎるし、せっかく八田を引かせたのに、李家に引きずりこんでは意味がない。

 表面的にはクリーンな小規模コンサルの李家も、裏の実態は八田と大差ない。台湾の本家はマフィアの黒社会と昵懇じっこんの間柄だ。それも、数世紀にわたって。だから彼女には深入りさせず、時が来たら手をはなすのが為になると飛豪は思っていた。

 ――二年間それなりに楽しくやればいい。

 飛豪は、ぬるくなったコーヒーを一口啜ると、書類をプリントアウトするために席を立った。

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