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《第6章》 台湾・林森北路のサロメ
帰宅
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神楽坂の自宅につくと、瞳子は最初にリビングの電気をつけた。
ダイニングテーブルとソファのだだっぴろい空間が、いやにそっけなく見えた。家主である彼がいないからかもしれない。
ソファ前のローテーブルには、今日の昼すぎ、彼女の支度待ちだった飛豪が読んでいた『ナショナル・ジオグラフィック』の雑誌が、開かれたまま無造作に置かれていた。
キッチンへ行くと、コップに水を注ぐ。それを一口飲んで喉を湿すと、ようやく人心地がついた。無味無臭の冷たい水が、喉、食道、胃へと内臓をおりていきながら体内を浄化してゆく。
――とんでもない魔窟だった……。なにあの叔母さん、カラボスみたいな圧と恐ろしさなんだけど。
カラボスとは、バレエ『眠りの森の美女』に登場する、オーロラ姫に死の呪いをかける邪悪な妖精だ。舞台上では黒一色のドレスを身にまとい、不吉さと禍々しさをまき散らしていく存在である。
――ま、飛豪さんも時々悪魔みたいになるからね……。ロットバルトの叔母さんがサロメでカラボスでも、別におかしくないか。
赤のサロンから退出して、送りだしてくれた彼に特段変わった様子はなかった。瞳子の発言や振る舞いに怒った様子も、がっかりした様子もなかった。サロンに入る前、彼に「好きにやっていい」と言われたから、思うがままの対応をしたのだが……いささか放埓すぎた気もする。どうだろう。いや、それよりも。
この数時間で、彼と、彼の背景にかかわる様々な事柄を知ってしまった。
一〇年前になにか大きな事故があったこと。高瀬と、おそらく美芳も彼のもう一人の人格を知っていること。彼の内側に棲むもう一人が、他の女性にも似たような暴力的な性行為をしていたこと。そして、遠くないうちに彼がいなくなってしまうこと。
今までに二回却下されているので、もう一つの人格に関わる質問はできない。ひょっとしたら一〇年前の事故も、それに関わっているのだろう。
しかし一緒に暮らしている以上、彼の将来の計画については聞いておく必要がある。それ次第で、自分の動きも変わってくるからだ。
――飛豪さん、近いうちにこの家から出ていくのかな。それに、あの豪邸といい、さっきの黒川さん発言といい、びっくりすることばかり……。わたし、どうすればいいんだろう。
ダイニングチェアに膝をかかえて座り、瞳子は心細くうずくまった。どっときた疲労の原因は、美芳とのひとときだけのせいではない。
彼と自分の立ち位置の、圧倒的な差をはっきりと見せつけられてしまった。それは経済力であり、社会人としての能力だ。
今日出会った誰もが、なんらかの専門知識をそなえた有能な大人に見えた。
インターン一つ決めるにも四苦八苦して、二桁をこえる企業からお祈りメールをもらって落とされていた自分とは全然違う。バレリーナ時代の過去の栄光と、一般会話レベルの語学力ではこの世の中で通用しないという厳しい現実は、就職活動をはじめてから存分に味わっていた。
――もしバレエを続けていたら、わたし、飛豪さんと並んでも、もうちょい違和感がなかったのかな。……落ちこむ。でもな、黒川さんにはあぁ言われたし。
スマートフォンを開くと、バレエ時代の友人の牧村小百合からメッセージが届いていた。「今度会えない?」と訊いてきている。簡単に返信をすませると、帰りの車で黒川と話したことを反芻した。
とにかく、最初はスーパーの食品価格について話していたのだ。
げっそりとした顔で二階から下りてきた彼女を気づかって、黒川は帰りの車では、美芳とまったく関係のない話題を選んでくれた。引っ越しを手伝ってくれた経緯から、「最近どう、神楽坂慣れた?」と訊かれて、瞳子も日々の暮らしや自分が食材の買いだしをしていることを喋った。
数か月前まで暮らしていた郊外の玉川上水エリアと比べると、山手線ど真ん中の神楽坂は食材の値段が違いすぎる、とぶつくさ文句を言って。
「あの家も、家賃とか凄いんだろうな」と、いつも気にかかっていたことを口にして、「本当はちょっとでも家賃払いたいから、バイトしたいんです」と、ささやかな自己主張をしてみたら、黒川はこう答えたのだ。
「あのマンション、土地建物丸ごと飛豪さんの持ち物じゃない。瞳子ちゃんから家賃とろうだなんて、あの人絶対考えてないよ」と。
驚きのあまり、素っ頓狂な声を瞳子はあげた。彼女が知らなかったことを口にしてしまったしくじりに、黒川は沈痛な表情で「飛豪さん、悪いッ!」と呻きながらも、関連情報を二つ三つ教えてくれた。
ダイニングテーブルとソファのだだっぴろい空間が、いやにそっけなく見えた。家主である彼がいないからかもしれない。
ソファ前のローテーブルには、今日の昼すぎ、彼女の支度待ちだった飛豪が読んでいた『ナショナル・ジオグラフィック』の雑誌が、開かれたまま無造作に置かれていた。
キッチンへ行くと、コップに水を注ぐ。それを一口飲んで喉を湿すと、ようやく人心地がついた。無味無臭の冷たい水が、喉、食道、胃へと内臓をおりていきながら体内を浄化してゆく。
――とんでもない魔窟だった……。なにあの叔母さん、カラボスみたいな圧と恐ろしさなんだけど。
カラボスとは、バレエ『眠りの森の美女』に登場する、オーロラ姫に死の呪いをかける邪悪な妖精だ。舞台上では黒一色のドレスを身にまとい、不吉さと禍々しさをまき散らしていく存在である。
――ま、飛豪さんも時々悪魔みたいになるからね……。ロットバルトの叔母さんがサロメでカラボスでも、別におかしくないか。
赤のサロンから退出して、送りだしてくれた彼に特段変わった様子はなかった。瞳子の発言や振る舞いに怒った様子も、がっかりした様子もなかった。サロンに入る前、彼に「好きにやっていい」と言われたから、思うがままの対応をしたのだが……いささか放埓すぎた気もする。どうだろう。いや、それよりも。
この数時間で、彼と、彼の背景にかかわる様々な事柄を知ってしまった。
一〇年前になにか大きな事故があったこと。高瀬と、おそらく美芳も彼のもう一人の人格を知っていること。彼の内側に棲むもう一人が、他の女性にも似たような暴力的な性行為をしていたこと。そして、遠くないうちに彼がいなくなってしまうこと。
今までに二回却下されているので、もう一つの人格に関わる質問はできない。ひょっとしたら一〇年前の事故も、それに関わっているのだろう。
しかし一緒に暮らしている以上、彼の将来の計画については聞いておく必要がある。それ次第で、自分の動きも変わってくるからだ。
――飛豪さん、近いうちにこの家から出ていくのかな。それに、あの豪邸といい、さっきの黒川さん発言といい、びっくりすることばかり……。わたし、どうすればいいんだろう。
ダイニングチェアに膝をかかえて座り、瞳子は心細くうずくまった。どっときた疲労の原因は、美芳とのひとときだけのせいではない。
彼と自分の立ち位置の、圧倒的な差をはっきりと見せつけられてしまった。それは経済力であり、社会人としての能力だ。
今日出会った誰もが、なんらかの専門知識をそなえた有能な大人に見えた。
インターン一つ決めるにも四苦八苦して、二桁をこえる企業からお祈りメールをもらって落とされていた自分とは全然違う。バレリーナ時代の過去の栄光と、一般会話レベルの語学力ではこの世の中で通用しないという厳しい現実は、就職活動をはじめてから存分に味わっていた。
――もしバレエを続けていたら、わたし、飛豪さんと並んでも、もうちょい違和感がなかったのかな。……落ちこむ。でもな、黒川さんにはあぁ言われたし。
スマートフォンを開くと、バレエ時代の友人の牧村小百合からメッセージが届いていた。「今度会えない?」と訊いてきている。簡単に返信をすませると、帰りの車で黒川と話したことを反芻した。
とにかく、最初はスーパーの食品価格について話していたのだ。
げっそりとした顔で二階から下りてきた彼女を気づかって、黒川は帰りの車では、美芳とまったく関係のない話題を選んでくれた。引っ越しを手伝ってくれた経緯から、「最近どう、神楽坂慣れた?」と訊かれて、瞳子も日々の暮らしや自分が食材の買いだしをしていることを喋った。
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「あのマンション、土地建物丸ごと飛豪さんの持ち物じゃない。瞳子ちゃんから家賃とろうだなんて、あの人絶対考えてないよ」と。
驚きのあまり、素っ頓狂な声を瞳子はあげた。彼女が知らなかったことを口にしてしまったしくじりに、黒川は沈痛な表情で「飛豪さん、悪いッ!」と呻きながらも、関連情報を二つ三つ教えてくれた。
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