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《第6章》 台湾・林森北路のサロメ
ドライヤーの時間
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黒川は、「まずは歴史の話になるんだけど」と前置きしてから話しはじめた。
現在、市ヶ谷の防衛省のある場所には、その昔、太平洋戦争のころには陸軍の参謀本部が置かれていた。そして市ヶ谷から数キロの新宿区戸山には、陸軍学校があった。
神楽坂は市ヶ谷にも戸山にもどちらも徒歩圏内の隣接エリアなので、かつては関係者も多かったようだ。飛豪のマンションの敷地自体も、戦時中は陸軍に縁のある人間のものだったそうだ。
土地の元の持ち主と、飛豪の祖父――戦時中は日中台湾を股にかけて諜報活動をしていた――は、浅からぬ親交があったらしい。
戦後まもなくして、飛豪の祖父はその人物から神楽坂の土地を購入し、抜け目なく周辺の土地も徐々に買いとっていった。そこに彼の父親が建てたのが、現在瞳子が住まわせてもらっている低層マンションだという。
この話から引きだせる事実は二つ。思っていた以上に、彼が資産家だったということ(普段は一緒に割引シールのついたお惣菜を選んでくれているので、全然知らなかった)、彼の出自は由緒ある家らしいこと(中国語も本家のかしこまった雰囲気も苦手だと言って、この数年は帰省していないらしいが)。
――お金でも実力でも差が大きいなぁ。どうやったら埋められるんだろう。
どんどん意気消沈していった彼女を慰めるように、黒川は言った。
「あの人は良いところの御曹司っていうより、仕事もやってる四回戦ボクサーって感じの生き方してるじゃん。だから大丈夫」
なにが大丈夫なのかよく分からない。それに瞳子自身も、仮に彼との差を埋めたからといって何だと言うのだろう。自分の心が何を求めているのか、よく分からない。
とにかく面倒くさい家で、面倒くさい親戚がいる、ということだけは理解した。一日の汗を落とそうと、瞳子はシャワーに立った。
浴室から出て、いつもどおり自室でドライヤーをしようかと思ったところで、彼女はタオルで髪をふく手をとめた。
――もうすぐ帰ってくるかな。「起きて待ってて」って言ってたし。
リビングのエアコンをつけて、床にペタンと腰をおろしてドライヤーをはじめる。果たして、数分したところで玄関の扉がひらく音がした。すぐに飛豪は、リビングへとやって来る。
彼自身も徹夜あけのような疲労がきまった顔をしていた。目の下に隈ができて、影をおとしている。
「うっす」
「おっす。お帰りなさい」
互いに、ぶっきらぼうな男子高校生のような挨拶になった。
彼はまず手を洗うと、瞳子の後ろにどっかと腰をおろした。彼女の手から無言でドライヤーを奪う。
「え、なに?」
「俺がする」
言って、飛豪は髪のなかに手を挿しこんでくる。いつもとは違う角度から熱風がどっと押しよせて、くらりとした。
濡れ髪が彼の手首や指先にまとわりついている。丁寧にほぐして、彼は乾かしていった。
近づけすぎず、遠ざけすぎず、手首をかえして何度もドライヤーを持ちかえて、根本から毛先まで気にかけて風をあててくれる。ふだん彼女が自分でする時より、数段仕上がりがいい。その上、後ろであぐらをかいている彼の上半身が背もたれのようになっていて、体重ごと背中を預けてしまいたくなる。
――これは……気持ちいい。あったかい。ほのぼのする。
リラックスのあまり眠気に包まれていく。飼い主にブラッシングをされている犬も、毎日こんなうっとりした気持ちになるのだとしたら羨ましい。
まぶたが半分以上閉じてしまったところで、熱風がとまった。
「おしまい」
「ありがとう。わたしもお返ししましょっか?」瞳子は後ろを振りかえった。
「俺ドライヤーしないよ」
「じゃ、マッサージとか……あと、今度スーツの時、ネクタイ結んであげるとか?」
「結べるの?」
「うん。中学の制服、ネクタイだったから」
「じゃあ今度……いや、遠慮しとく。締め殺されそうでコワい」
「えー……わたし飛豪さんに恨みは……ない。ないけど、ギュッとネクタイ締めてみたい」
「ほらね」彼はちょっと笑った。「油断も隙もない」
いつもと同じ二人の夜なのに、今日はなにかが違った。美芳と話したせいだろうか。それとも、彼の背景を知ってしまったからだろうか。
「飛豪さん、フェイハオって呼ばれてましたね」ふと、口をついてでた。
「君は日本語読みでお願いします」
「そう言われると、ちょいちょいフェイハオ呼びしたくなるな」
冗談めかして美芳がしていた抑揚で、その名を口にしてみる。舌先を違う空気が抜けていく。別人のような、新鮮な心地がした。
「君にそっちで呼ばれても、俺は返事しないから」
半分冗談、半分本気の様子だった。
現在、市ヶ谷の防衛省のある場所には、その昔、太平洋戦争のころには陸軍の参謀本部が置かれていた。そして市ヶ谷から数キロの新宿区戸山には、陸軍学校があった。
神楽坂は市ヶ谷にも戸山にもどちらも徒歩圏内の隣接エリアなので、かつては関係者も多かったようだ。飛豪のマンションの敷地自体も、戦時中は陸軍に縁のある人間のものだったそうだ。
土地の元の持ち主と、飛豪の祖父――戦時中は日中台湾を股にかけて諜報活動をしていた――は、浅からぬ親交があったらしい。
戦後まもなくして、飛豪の祖父はその人物から神楽坂の土地を購入し、抜け目なく周辺の土地も徐々に買いとっていった。そこに彼の父親が建てたのが、現在瞳子が住まわせてもらっている低層マンションだという。
この話から引きだせる事実は二つ。思っていた以上に、彼が資産家だったということ(普段は一緒に割引シールのついたお惣菜を選んでくれているので、全然知らなかった)、彼の出自は由緒ある家らしいこと(中国語も本家のかしこまった雰囲気も苦手だと言って、この数年は帰省していないらしいが)。
――お金でも実力でも差が大きいなぁ。どうやったら埋められるんだろう。
どんどん意気消沈していった彼女を慰めるように、黒川は言った。
「あの人は良いところの御曹司っていうより、仕事もやってる四回戦ボクサーって感じの生き方してるじゃん。だから大丈夫」
なにが大丈夫なのかよく分からない。それに瞳子自身も、仮に彼との差を埋めたからといって何だと言うのだろう。自分の心が何を求めているのか、よく分からない。
とにかく面倒くさい家で、面倒くさい親戚がいる、ということだけは理解した。一日の汗を落とそうと、瞳子はシャワーに立った。
浴室から出て、いつもどおり自室でドライヤーをしようかと思ったところで、彼女はタオルで髪をふく手をとめた。
――もうすぐ帰ってくるかな。「起きて待ってて」って言ってたし。
リビングのエアコンをつけて、床にペタンと腰をおろしてドライヤーをはじめる。果たして、数分したところで玄関の扉がひらく音がした。すぐに飛豪は、リビングへとやって来る。
彼自身も徹夜あけのような疲労がきまった顔をしていた。目の下に隈ができて、影をおとしている。
「うっす」
「おっす。お帰りなさい」
互いに、ぶっきらぼうな男子高校生のような挨拶になった。
彼はまず手を洗うと、瞳子の後ろにどっかと腰をおろした。彼女の手から無言でドライヤーを奪う。
「え、なに?」
「俺がする」
言って、飛豪は髪のなかに手を挿しこんでくる。いつもとは違う角度から熱風がどっと押しよせて、くらりとした。
濡れ髪が彼の手首や指先にまとわりついている。丁寧にほぐして、彼は乾かしていった。
近づけすぎず、遠ざけすぎず、手首をかえして何度もドライヤーを持ちかえて、根本から毛先まで気にかけて風をあててくれる。ふだん彼女が自分でする時より、数段仕上がりがいい。その上、後ろであぐらをかいている彼の上半身が背もたれのようになっていて、体重ごと背中を預けてしまいたくなる。
――これは……気持ちいい。あったかい。ほのぼのする。
リラックスのあまり眠気に包まれていく。飼い主にブラッシングをされている犬も、毎日こんなうっとりした気持ちになるのだとしたら羨ましい。
まぶたが半分以上閉じてしまったところで、熱風がとまった。
「おしまい」
「ありがとう。わたしもお返ししましょっか?」瞳子は後ろを振りかえった。
「俺ドライヤーしないよ」
「じゃ、マッサージとか……あと、今度スーツの時、ネクタイ結んであげるとか?」
「結べるの?」
「うん。中学の制服、ネクタイだったから」
「じゃあ今度……いや、遠慮しとく。締め殺されそうでコワい」
「えー……わたし飛豪さんに恨みは……ない。ないけど、ギュッとネクタイ締めてみたい」
「ほらね」彼はちょっと笑った。「油断も隙もない」
いつもと同じ二人の夜なのに、今日はなにかが違った。美芳と話したせいだろうか。それとも、彼の背景を知ってしまったからだろうか。
「飛豪さん、フェイハオって呼ばれてましたね」ふと、口をついてでた。
「君は日本語読みでお願いします」
「そう言われると、ちょいちょいフェイハオ呼びしたくなるな」
冗談めかして美芳がしていた抑揚で、その名を口にしてみる。舌先を違う空気が抜けていく。別人のような、新鮮な心地がした。
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半分冗談、半分本気の様子だった。
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