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《第7章》 元カレは、王子様
美しい公式
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まだ気温が高いままの夕暮れの街なみを歩いて六時にマンションに戻ると、すでに飛豪が帰宅していた。
ソファにかけて、冷えた白ワインを飲んでいる。テレビは、甲子園の第四試合をうつしていた。
「あれ、今日どうしたの? いつも八時すぎなのに」
「お邪魔してまーす」
瞳子と奈津子が同時に言うと、彼は「客が来るっていうし、仕事早く終わったから切り上げてきた」と、ピカルディのグラスを持ち上げてみせた。
いつもの流れで、夕飯はピザを頼むことになった。
「ノルマ一人一枚ね!」と、歓声をあげながらピザとサイドメニューを瞳子と奈津子が嬉々として選んでいると、「君らさっきクレープ食べてきたんじゃないの?」と飛豪が呆れる。「クレープはおやつ、ピザはご飯です!」と二人そろって言いかえすと、いつもより賑やかな夜がはじまった。
野球が終わってテレビを消すと、飛豪が奈津子に専門について質問をはじめた。数学科専攻だと瞳子が前に言っていたのを覚えていたようだ。その分野については彼も知識も関心もあるようで、二人の会話は弾んでいる。
美しい公式ベスト3を二人がそれぞれに挙げている隣で、瞳子ははたと気づいた。ひょっとしなくてもこの会話は、先日の広尾のホームパーティーより難易度が高い。
――「美しい公式」って、なに? 数学の公式って、美しいとか醜いとかあるの?
瞳子を真ん中にして腰かけているはずなのに、先ほどから全然会話に参加できていない。サイモン・シンのドキュメンタリーの話や、ラマヌジャン、マリアム・ミルザハニという、知らない固有名詞が飛びかっている。
――二人とも楽しそうだからいっか。
奈津子が生き生きとした口調で話をしていた。飛豪はいつもより早口になっている。ライバルに出会った時のような、少年じみた顔つきになっている。同僚の高瀬について話している時の表情に、よく似ている。
最初に二人を引きあわせた時のような不安を瞳子は覚えなかった。
内容は分からないながらも、傍にいて気づまりは感じない。白ワインで口を湿しながら皿やサラダを準備したり、冷蔵庫からミネラルウォーターを出したりしていると、インターフォンが鳴った。注文したピザが届いたようだった。
受けとりに瞳子が玄関へ向かおうとすると、飛豪が素早く立ち上がって彼女の腕をひいて押しとどめた。
こういう時、彼は絶対に「危ないから」と言って自分が応対する。彼がリビングを出ると、瞳子は奈津子の隣にもどった。
「瞳子ごめん。夏休みだとゼミもなくて、こんな話する機会もないから、つい夢中になっちゃった」
「気にしないでいいよ。飛豪さんもすっごく楽しそうだったし」
二人でまた、〆めにアイスを食べるかどうかをきゃっきゃと話していると、ピザ箱を腕にかかえた彼が戻ってきた。
夕飯ののち、海外の顧客から急な連絡がはいったと言って飛豪は自室に閉じこもった。瞳子と奈津子も、早々にシャワーを浴びて部屋にひきあげる。奈津子の明日の新幹線が朝の九時台なので、あまり夜更かしはできない。
二人でシングルベッドに入ると、さすがに窮屈だった。その狭ささえも可笑しくて、顔をよせて笑いあう。
「瞳子良かったね。インターンも来週からでしょ。シューカツも恋愛も上手く行ってる感じ」
「とりあえずは就活優先かなぁ。インターンをちゃんと経験値にして、内定とって最終的に借金返さなきゃいけないから」
「あの人、これだけ家賃高そうな部屋に住んでて、借金さっさと返せって迫ってくるの?」奈津子は不思議そうだった。「しゃかりきに頑張んなくても、長く付きあったり結婚でもしたら、有耶無耶になっちゃうんじゃない?」
「結婚? 飛豪さんと?」瞳子はきょとんとした顔になった。
「うん」
「ない。絶対ないって、そんなの」
友人の認識をあらためるため、きっぱりと言いきった。
「へ? 違うの? あの人、建前はどうあれ紫の上みたいに瞳子のこと大事にしてたじゃん。さっきだって、私と数学史の話してても、視線はずっとキッチンに立ってる瞳子のこと追いかけてて。『あはは、分かりやっす』って思ったもん」
「紫の上ってさ、源氏物語のアレだよね。光源氏の年下のお嫁さん。どっかから攫ってきて理想の嫁にしちゃうやつ」
「そうそう」
「わたしの場合……そういうのとは、ちょっと違うと思う」
躊躇や諦め、やるせなさ、ひけめなど、瞳子の声音は複雑な色をおびていた。
ソファにかけて、冷えた白ワインを飲んでいる。テレビは、甲子園の第四試合をうつしていた。
「あれ、今日どうしたの? いつも八時すぎなのに」
「お邪魔してまーす」
瞳子と奈津子が同時に言うと、彼は「客が来るっていうし、仕事早く終わったから切り上げてきた」と、ピカルディのグラスを持ち上げてみせた。
いつもの流れで、夕飯はピザを頼むことになった。
「ノルマ一人一枚ね!」と、歓声をあげながらピザとサイドメニューを瞳子と奈津子が嬉々として選んでいると、「君らさっきクレープ食べてきたんじゃないの?」と飛豪が呆れる。「クレープはおやつ、ピザはご飯です!」と二人そろって言いかえすと、いつもより賑やかな夜がはじまった。
野球が終わってテレビを消すと、飛豪が奈津子に専門について質問をはじめた。数学科専攻だと瞳子が前に言っていたのを覚えていたようだ。その分野については彼も知識も関心もあるようで、二人の会話は弾んでいる。
美しい公式ベスト3を二人がそれぞれに挙げている隣で、瞳子ははたと気づいた。ひょっとしなくてもこの会話は、先日の広尾のホームパーティーより難易度が高い。
――「美しい公式」って、なに? 数学の公式って、美しいとか醜いとかあるの?
瞳子を真ん中にして腰かけているはずなのに、先ほどから全然会話に参加できていない。サイモン・シンのドキュメンタリーの話や、ラマヌジャン、マリアム・ミルザハニという、知らない固有名詞が飛びかっている。
――二人とも楽しそうだからいっか。
奈津子が生き生きとした口調で話をしていた。飛豪はいつもより早口になっている。ライバルに出会った時のような、少年じみた顔つきになっている。同僚の高瀬について話している時の表情に、よく似ている。
最初に二人を引きあわせた時のような不安を瞳子は覚えなかった。
内容は分からないながらも、傍にいて気づまりは感じない。白ワインで口を湿しながら皿やサラダを準備したり、冷蔵庫からミネラルウォーターを出したりしていると、インターフォンが鳴った。注文したピザが届いたようだった。
受けとりに瞳子が玄関へ向かおうとすると、飛豪が素早く立ち上がって彼女の腕をひいて押しとどめた。
こういう時、彼は絶対に「危ないから」と言って自分が応対する。彼がリビングを出ると、瞳子は奈津子の隣にもどった。
「瞳子ごめん。夏休みだとゼミもなくて、こんな話する機会もないから、つい夢中になっちゃった」
「気にしないでいいよ。飛豪さんもすっごく楽しそうだったし」
二人でまた、〆めにアイスを食べるかどうかをきゃっきゃと話していると、ピザ箱を腕にかかえた彼が戻ってきた。
夕飯ののち、海外の顧客から急な連絡がはいったと言って飛豪は自室に閉じこもった。瞳子と奈津子も、早々にシャワーを浴びて部屋にひきあげる。奈津子の明日の新幹線が朝の九時台なので、あまり夜更かしはできない。
二人でシングルベッドに入ると、さすがに窮屈だった。その狭ささえも可笑しくて、顔をよせて笑いあう。
「瞳子良かったね。インターンも来週からでしょ。シューカツも恋愛も上手く行ってる感じ」
「とりあえずは就活優先かなぁ。インターンをちゃんと経験値にして、内定とって最終的に借金返さなきゃいけないから」
「あの人、これだけ家賃高そうな部屋に住んでて、借金さっさと返せって迫ってくるの?」奈津子は不思議そうだった。「しゃかりきに頑張んなくても、長く付きあったり結婚でもしたら、有耶無耶になっちゃうんじゃない?」
「結婚? 飛豪さんと?」瞳子はきょとんとした顔になった。
「うん」
「ない。絶対ないって、そんなの」
友人の認識をあらためるため、きっぱりと言いきった。
「へ? 違うの? あの人、建前はどうあれ紫の上みたいに瞳子のこと大事にしてたじゃん。さっきだって、私と数学史の話してても、視線はずっとキッチンに立ってる瞳子のこと追いかけてて。『あはは、分かりやっす』って思ったもん」
「紫の上ってさ、源氏物語のアレだよね。光源氏の年下のお嫁さん。どっかから攫ってきて理想の嫁にしちゃうやつ」
「そうそう」
「わたしの場合……そういうのとは、ちょっと違うと思う」
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