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《第7章》 元カレは、王子様
お土産はアルパカ
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思いかえせば、油断していたんだと思う。
タイムリミットのある関係で、しかも彼の背景には後ろ暗い事情が渦をまいていた。
だが、目を逸らしさえすれば――彼だけを見つめていれば――とりあえずは平和に過ごせる。だから、自分の側からアクシデントが飛びだしてくることなど、思いもよらなかった。
明日から飛豪が海外出張、瞳子がインターン、という日曜日の午後だった。
彼がジム帰りに買ってきたライ麦パンとキッシュでいつもの昼食を終え、これから二週間の不在を思うと離れがたくて、二人でコーヒータイムをいつまでも延長していた時だった。
「土産、なにがいい? かさばるのとかコカは無理だけど、リクエストある?」
飛豪が、タブレットで翌日の成田エクスプレスの時間を確認しながら訊いた。
「行くの、ペルーとチリだよね……そもそも、何が一般的なお土産なのか想像つかないです」
「あぁそっか。ペルーもチリも物より世界遺産で有名か。マチュピチュとか、イースター島、アタカマ砂漠……」
「マチュピチュ‼」瞳子が歓声をあげた。途端に食いつきが良くなる。「いいな、いいな。飛豪さん、お母さんが日系ペルー人って言ってましたよね。マチュピチュも行ったことあるんですか?」
「ある」
両親が離婚したのちは、ペルーとアルゼンチンで彼は思春期の数年間を過ごしている。母親の二番目の夫との家族旅行で、南米の主だったところは行っていた。
「良かったですか? この前テレビで、マチュピチュとインカ道の番組観たんです」
「俺は大好き。ワイナピチュ登っても最高だし、遺跡の石積みも芸術品だし、どこ見ても絶景だし、あそこで一年暮らしても飽きない」
「わたしいつか、マチュピチュ行ってみたいの。あそこ、遺跡の中をリャマとかアルパカが歩きまわってるんですよね」
「あー……そんなのもいたね。リャマじゃないかな? でもあいつら、結構凶暴だよ。人間に懐かないし」
「そこが良いんじゃないですか‼」反応の薄い飛豪にたいして、瞳子はなぜか思い入れたっぷりだ。余程そのテレビ番組で気に入ったらしい。「お土産、リャマかアルパカがいいです」
「アルパカどうやって連れて帰れっていうんだよ。俺にワシントン条約破れって?」
彼の二週間の不在を前に、自分が馬鹿みたいにはしゃいでいることを彼女は自覚していた。テンションを高くして、明るくしていれば淋しさは逃げていく。この家に一人でいても怖くない。
飛豪はその不自然さを読みとったようだった。タブレットを脇へ置くと、ダイニングチェアの上で膝を抱えている彼女の隣に移動してきた。体に腕をまわして、自分のほうへと傾ける。
「な、瞳子」
「ん?」
「俺がいない間、なにかあったら必ず連絡してほしい。時差あってもできるだけすぐ折り返すから。あと、本当の緊急時は、藤原さんか黒川くん頼って。あの二人は、基本的に何時に電話かけても大丈夫だから」
「はい」
「帰国したら一緒にペルー料理食べにいこう。御成門にいい店知ってるんだ」
「うん。楽しみにしてます」
彼女は、落ちつきを取りもどした声で応えた。
飛豪は、都内のレストランには一緒に行こうと言ってくれるし、実際予定をあわせて連れだしてくれる。しかし、マチュピチュのような「いつか行きたい場所」に寄り添ってくれる言葉はくれない。
彼が「いつか」を避けていることに、誠実さとやるせなさを感じてしまうのは、瞳子にとって必然だった。
――でも、これが飛豪さんにとっての精一杯なんだろうな。
彼を責めることはできない。自分だって、奈津子の言うように彼を吟味しているのだから。二人とも、どっちもどっちなのだ。
瞳子は気をとりなおして、「明日、家出るの何時? せめて朝ごはんは一緒がいいな」と肩にもたれかかったまま見上げた。飛豪はこちらを見つめかえして、しばし返答に躊躇った。その無言に、彼女は戸惑う。
「ひょっとしてすごく早いの?」
「いや、午後イチのフライトだから、いつもどおり七時とか七時半に朝食でいいんだけど。……瞳子、いま暇?」
彼はいつになく慎重に切りだしてきた。
「うん。別にとりたてて……夕方までのんびりするつもりだったし」
「ならちょっと、君と観たいDVDがあるんだ。二時間半くらいなんだけど」
「映画?」
「ううん、バレエ。……君が踊った『ロミオとジュリエット』。六年前のやつ」
瞳子の表情が凍りついて、さっと飛豪から身を離した。
「どうして、そんなの持ってるの?」
たちまち警戒した声で問いただす。
自分がもう戻れない世界。だしぬけに言われて、心臓がとまるかと思った。
「広尾に行った時、叔母さんから渡された。君のことを最後まで知りたければ全幕で観てみろって。瞳子が過去を掘りかえされたくないのも知ってたから、この一週間ずっと迷ってた。でも俺は、やっぱり君のジュリエットを観たい。君がいないところで観るのはフェアじゃないから、タイミングをはかってた」
「美芳さんは、どうしてDVD持ってたの?」
つい詰問するような口調になってしまう。
「後援者枠だろ。あの人、舞台芸術も好きだから、その気になったらツテはいくらでもある。っていうか君は持ってないの?」
彼女は力なくうなだれた。そのDVDは既に、手元にない。
タイトルロールを演じた初めての主演作品だ。持っていたに決まってる。そして、何度も何度も繰りかえし観た。次にジュリエットを踊るときは、こうしよう、ああしよう、と思いながら。
瞳子は現役時代、同年代の誰よりも自分の踊りを動画で観ることにこだわった。
本番動画はもちろん、リハーサルでも普段の練習でも苦手なシーンは人に頼んでスマートフォンで撮影してもらい、時間をかけて丹念に分析した。
姿勢、角度、高さ、体型――映像には、自分のすべてが客観的に記録されている。自分では上手くできていると思っても、観客席からの角度でみた時、もたついた冴えない踊りにしか見えない時もある。気づいたことはすべてノートに書きだして、次のレッスンで克服できるよう心がけていた。
六年前のジュリエットだって、出来ばえに満足していたわけではない。だが、思い入れのある映像だった。
でも、捨てたのだ。母親の葬式をした夜に。母親だけでなく、バレエも葬った。バレエに関係するものは、シューズ一足、レッスンウェアさえも残していない。
彼女を辛い心境に追いこんだことに気づいたのだろう。飛豪は「ごめん」と、ただ一言謝った。
「もしわたしが観たくないって言ったら、どうしますか?」
「俺一人で観る」
気づかいとは別に、彼はきっぱりと言った。どうやら今日観るのは決定事項のようだ。
瞳子は観念したように天井を仰いだ。諦めるしかなかった。
「分かりました。一緒に観ます」
タイムリミットのある関係で、しかも彼の背景には後ろ暗い事情が渦をまいていた。
だが、目を逸らしさえすれば――彼だけを見つめていれば――とりあえずは平和に過ごせる。だから、自分の側からアクシデントが飛びだしてくることなど、思いもよらなかった。
明日から飛豪が海外出張、瞳子がインターン、という日曜日の午後だった。
彼がジム帰りに買ってきたライ麦パンとキッシュでいつもの昼食を終え、これから二週間の不在を思うと離れがたくて、二人でコーヒータイムをいつまでも延長していた時だった。
「土産、なにがいい? かさばるのとかコカは無理だけど、リクエストある?」
飛豪が、タブレットで翌日の成田エクスプレスの時間を確認しながら訊いた。
「行くの、ペルーとチリだよね……そもそも、何が一般的なお土産なのか想像つかないです」
「あぁそっか。ペルーもチリも物より世界遺産で有名か。マチュピチュとか、イースター島、アタカマ砂漠……」
「マチュピチュ‼」瞳子が歓声をあげた。途端に食いつきが良くなる。「いいな、いいな。飛豪さん、お母さんが日系ペルー人って言ってましたよね。マチュピチュも行ったことあるんですか?」
「ある」
両親が離婚したのちは、ペルーとアルゼンチンで彼は思春期の数年間を過ごしている。母親の二番目の夫との家族旅行で、南米の主だったところは行っていた。
「良かったですか? この前テレビで、マチュピチュとインカ道の番組観たんです」
「俺は大好き。ワイナピチュ登っても最高だし、遺跡の石積みも芸術品だし、どこ見ても絶景だし、あそこで一年暮らしても飽きない」
「わたしいつか、マチュピチュ行ってみたいの。あそこ、遺跡の中をリャマとかアルパカが歩きまわってるんですよね」
「あー……そんなのもいたね。リャマじゃないかな? でもあいつら、結構凶暴だよ。人間に懐かないし」
「そこが良いんじゃないですか‼」反応の薄い飛豪にたいして、瞳子はなぜか思い入れたっぷりだ。余程そのテレビ番組で気に入ったらしい。「お土産、リャマかアルパカがいいです」
「アルパカどうやって連れて帰れっていうんだよ。俺にワシントン条約破れって?」
彼の二週間の不在を前に、自分が馬鹿みたいにはしゃいでいることを彼女は自覚していた。テンションを高くして、明るくしていれば淋しさは逃げていく。この家に一人でいても怖くない。
飛豪はその不自然さを読みとったようだった。タブレットを脇へ置くと、ダイニングチェアの上で膝を抱えている彼女の隣に移動してきた。体に腕をまわして、自分のほうへと傾ける。
「な、瞳子」
「ん?」
「俺がいない間、なにかあったら必ず連絡してほしい。時差あってもできるだけすぐ折り返すから。あと、本当の緊急時は、藤原さんか黒川くん頼って。あの二人は、基本的に何時に電話かけても大丈夫だから」
「はい」
「帰国したら一緒にペルー料理食べにいこう。御成門にいい店知ってるんだ」
「うん。楽しみにしてます」
彼女は、落ちつきを取りもどした声で応えた。
飛豪は、都内のレストランには一緒に行こうと言ってくれるし、実際予定をあわせて連れだしてくれる。しかし、マチュピチュのような「いつか行きたい場所」に寄り添ってくれる言葉はくれない。
彼が「いつか」を避けていることに、誠実さとやるせなさを感じてしまうのは、瞳子にとって必然だった。
――でも、これが飛豪さんにとっての精一杯なんだろうな。
彼を責めることはできない。自分だって、奈津子の言うように彼を吟味しているのだから。二人とも、どっちもどっちなのだ。
瞳子は気をとりなおして、「明日、家出るの何時? せめて朝ごはんは一緒がいいな」と肩にもたれかかったまま見上げた。飛豪はこちらを見つめかえして、しばし返答に躊躇った。その無言に、彼女は戸惑う。
「ひょっとしてすごく早いの?」
「いや、午後イチのフライトだから、いつもどおり七時とか七時半に朝食でいいんだけど。……瞳子、いま暇?」
彼はいつになく慎重に切りだしてきた。
「うん。別にとりたてて……夕方までのんびりするつもりだったし」
「ならちょっと、君と観たいDVDがあるんだ。二時間半くらいなんだけど」
「映画?」
「ううん、バレエ。……君が踊った『ロミオとジュリエット』。六年前のやつ」
瞳子の表情が凍りついて、さっと飛豪から身を離した。
「どうして、そんなの持ってるの?」
たちまち警戒した声で問いただす。
自分がもう戻れない世界。だしぬけに言われて、心臓がとまるかと思った。
「広尾に行った時、叔母さんから渡された。君のことを最後まで知りたければ全幕で観てみろって。瞳子が過去を掘りかえされたくないのも知ってたから、この一週間ずっと迷ってた。でも俺は、やっぱり君のジュリエットを観たい。君がいないところで観るのはフェアじゃないから、タイミングをはかってた」
「美芳さんは、どうしてDVD持ってたの?」
つい詰問するような口調になってしまう。
「後援者枠だろ。あの人、舞台芸術も好きだから、その気になったらツテはいくらでもある。っていうか君は持ってないの?」
彼女は力なくうなだれた。そのDVDは既に、手元にない。
タイトルロールを演じた初めての主演作品だ。持っていたに決まってる。そして、何度も何度も繰りかえし観た。次にジュリエットを踊るときは、こうしよう、ああしよう、と思いながら。
瞳子は現役時代、同年代の誰よりも自分の踊りを動画で観ることにこだわった。
本番動画はもちろん、リハーサルでも普段の練習でも苦手なシーンは人に頼んでスマートフォンで撮影してもらい、時間をかけて丹念に分析した。
姿勢、角度、高さ、体型――映像には、自分のすべてが客観的に記録されている。自分では上手くできていると思っても、観客席からの角度でみた時、もたついた冴えない踊りにしか見えない時もある。気づいたことはすべてノートに書きだして、次のレッスンで克服できるよう心がけていた。
六年前のジュリエットだって、出来ばえに満足していたわけではない。だが、思い入れのある映像だった。
でも、捨てたのだ。母親の葬式をした夜に。母親だけでなく、バレエも葬った。バレエに関係するものは、シューズ一足、レッスンウェアさえも残していない。
彼女を辛い心境に追いこんだことに気づいたのだろう。飛豪は「ごめん」と、ただ一言謝った。
「もしわたしが観たくないって言ったら、どうしますか?」
「俺一人で観る」
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