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《第9章》 オデュッセウスの帰還
指環
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彼のPTSDの症状は投薬やカウンセリングで徐々に落ちついていったが、反作用であるかのように性的逸脱のスイッチが入り、異常をきたしていったという。行為の時にあらわれる嗜虐的な人格は、年々幅をきかせるようになっていった。
「あとは君も知ってのとおり。てっとり早く欲求を発散するために、そういう仕事の女性を取っかえ引っかえ。君を買ったのもそのため。コスパ重視半分、思いつき半分」
でないと、いかにも訳アリな女子大生になんか手出さないよ、と自嘲するように言う。あ、わたしのことか、と瞳子は気づいた。
「君に事情がありそうなのは最初に見た瞬間から気づいてて、でも、予想以上のネタと反応が次々に飛びだしてくるから、深みにハマってしまって……」
「大変申し訳ございませんでした」
「いや、俺も結局、すごく久しぶりに楽しかったんだ。最初のころは『何こいつ?』って毎回思って観察してたし」
――そんな風に思われてたんだ。
たった四、五か月前のことなのに、隔世の感がある。もう、彼を知る前の自分には戻れない、と瞳子は感じていた。
「わたし、飛豪さんに感謝してますよ」
「俺も、君には感謝してる」
だから――と言って、飛豪は間をおいた。緊張したような、自分を嗤うかのような表情になってふうっと息をつくと、彼は「ちょっと待ってて」と立ち上がった。瞳子を残して、自室へ行く。
一分もたたずに戻ってきた彼は、テーブルの上に白い小箱をおいた。箱に印字されているのは、彼女でも知っている有名な宝飾品ブランドの名前だった。
「え……えっ……」動揺が、声になって漏れでてしまう。
「開けてみて」
「……はい」瞳子は固唾をのんで答えた。
予想外すぎて思ってもみなかった展開に、心臓がドッドッドッドッと激しくビートを刻み、血流がスピードを増す。いや、まさか、だって、そんな、わたし、この人に二日前殺されかけたし。なのに、どうして。うわぁぁぁあ‼
酸素が薄い。何度も呼吸をしながら、震える手で箱を手にとった。
中に入っていたのは、銀色に光るシンプルな大小の指環が二つだった。
太幅で、両サイドは細かなミル打ちで飾られている。つまり、ペアリングだ。縦から見ても横から見ても斜めから見ても、これはペアリング以外の何物でもない。デザインの至高の簡潔さや店のクラスからすると、結婚指環カテゴリーで売られているものかもしれない。
――いやぁぁぁぁぁぁぁぁあッ‼
外側では硬直して押し黙ったまま、内側では驚愕でどったんばったん転がりまわっている彼女の悶絶をくんで、飛豪が言葉をそえた。
「約束する。俺は、二度と君を傷つけない。それを形にして伝えかったんだ。――もう一つ」
「……うん」
「俺は君が好きです。もうセフレなんかではなく恋人として、君と一緒に暮らしたい。君がもし俺を選んでくれるなら、その指環を身につけてくれないか」
彼は瞳子をじっと見つめて、左手をとった。そっと薬指に触れてくる。それは、とても貴重で壊れやすいものを扱うような仕草で。彼女は漠然と不安になった。
嬉しい。信じたい。でも信じるのがこわい。このスピード感がこわい。流されるのもこわい。優しい飛豪さんは信じられるけど、全てがこわくて自信がない。彼から顔をそむける。
ぎゅっと両目を閉じ、俯いて瞳子は訊いた。
「ひょっとして罪悪感ですか?」
「罪悪感? なんの」
「わたしの怪我、飛豪さんとした時のが原因だったから。特に胸の傷跡はずっと残るって。医者の先生も、飛豪さんにキツく釘刺しておくって診察中に言ってたし。だから、それに責任を感じたんじゃないかなって。でも、わたしが好きでやったことだから、本質的にはあなたには関係なくって。それ以前にわたし、助けてもらってますし、今も良い暮らしさせてもらってますから、イーブンです。だから、無理して恋人なんて言わなくっても」
誰かに言い訳をするように、動揺したままでたらめに話しているとボロボロと涙があふれてくる。
「あー……誤解させるタイミングだったか。もちろんそれが直接の引き金だけれど。あの時、君をこのまま失いたくないって、切実に思った。でも、後になってゆっくり考えると、それだけじゃないことにも気づいた」
「それだけじゃない?」
「瞳子が生きててくれるのは勿論だけど、この先も君と一緒にいたいって思った。前に俺に訊いたよな? 『借金返しおわったら、どうするの』って。その返事をしたつもりなんだ。先のことは分からないし人の気持ちは変わるけど、未来のことも踏まえて、俺は、君にこの指環をつけてもらいたい」
婚約ぐらいの意味に考えてくれていいよ、と彼はさらりと付け加えた。ただし、これは俺からの一方的なお願いだから、君が嫌になったときは解消して構わない、とも。
――そんな自分に不利なこと言わなくていいのに‼
嬉しいとか幸せとかよりも先に、申し訳ないのほうが先にたってしまう。
「いいんだよ、俺はそれで幸せなんだから」
恐縮しきっている彼女の考えを読んだかのように、飛豪は軽く笑った。ドライブ中に鼻歌をうたっているような調子で。
“Any question?(ほかに質問は?)”
“No...(ない……)”
痛いほどの沈黙が流れた。彼が待っている。自分が指環をはめるのを待っている。
――わたしは、どうしたい? 飛豪さんと、どうなりたい? 嘘はつきたくない。自分にも、彼にも。
やがて、俯いたまま瞳子は小声で言った。
「……ごめんなさい」
「あとは君も知ってのとおり。てっとり早く欲求を発散するために、そういう仕事の女性を取っかえ引っかえ。君を買ったのもそのため。コスパ重視半分、思いつき半分」
でないと、いかにも訳アリな女子大生になんか手出さないよ、と自嘲するように言う。あ、わたしのことか、と瞳子は気づいた。
「君に事情がありそうなのは最初に見た瞬間から気づいてて、でも、予想以上のネタと反応が次々に飛びだしてくるから、深みにハマってしまって……」
「大変申し訳ございませんでした」
「いや、俺も結局、すごく久しぶりに楽しかったんだ。最初のころは『何こいつ?』って毎回思って観察してたし」
――そんな風に思われてたんだ。
たった四、五か月前のことなのに、隔世の感がある。もう、彼を知る前の自分には戻れない、と瞳子は感じていた。
「わたし、飛豪さんに感謝してますよ」
「俺も、君には感謝してる」
だから――と言って、飛豪は間をおいた。緊張したような、自分を嗤うかのような表情になってふうっと息をつくと、彼は「ちょっと待ってて」と立ち上がった。瞳子を残して、自室へ行く。
一分もたたずに戻ってきた彼は、テーブルの上に白い小箱をおいた。箱に印字されているのは、彼女でも知っている有名な宝飾品ブランドの名前だった。
「え……えっ……」動揺が、声になって漏れでてしまう。
「開けてみて」
「……はい」瞳子は固唾をのんで答えた。
予想外すぎて思ってもみなかった展開に、心臓がドッドッドッドッと激しくビートを刻み、血流がスピードを増す。いや、まさか、だって、そんな、わたし、この人に二日前殺されかけたし。なのに、どうして。うわぁぁぁあ‼
酸素が薄い。何度も呼吸をしながら、震える手で箱を手にとった。
中に入っていたのは、銀色に光るシンプルな大小の指環が二つだった。
太幅で、両サイドは細かなミル打ちで飾られている。つまり、ペアリングだ。縦から見ても横から見ても斜めから見ても、これはペアリング以外の何物でもない。デザインの至高の簡潔さや店のクラスからすると、結婚指環カテゴリーで売られているものかもしれない。
――いやぁぁぁぁぁぁぁぁあッ‼
外側では硬直して押し黙ったまま、内側では驚愕でどったんばったん転がりまわっている彼女の悶絶をくんで、飛豪が言葉をそえた。
「約束する。俺は、二度と君を傷つけない。それを形にして伝えかったんだ。――もう一つ」
「……うん」
「俺は君が好きです。もうセフレなんかではなく恋人として、君と一緒に暮らしたい。君がもし俺を選んでくれるなら、その指環を身につけてくれないか」
彼は瞳子をじっと見つめて、左手をとった。そっと薬指に触れてくる。それは、とても貴重で壊れやすいものを扱うような仕草で。彼女は漠然と不安になった。
嬉しい。信じたい。でも信じるのがこわい。このスピード感がこわい。流されるのもこわい。優しい飛豪さんは信じられるけど、全てがこわくて自信がない。彼から顔をそむける。
ぎゅっと両目を閉じ、俯いて瞳子は訊いた。
「ひょっとして罪悪感ですか?」
「罪悪感? なんの」
「わたしの怪我、飛豪さんとした時のが原因だったから。特に胸の傷跡はずっと残るって。医者の先生も、飛豪さんにキツく釘刺しておくって診察中に言ってたし。だから、それに責任を感じたんじゃないかなって。でも、わたしが好きでやったことだから、本質的にはあなたには関係なくって。それ以前にわたし、助けてもらってますし、今も良い暮らしさせてもらってますから、イーブンです。だから、無理して恋人なんて言わなくっても」
誰かに言い訳をするように、動揺したままでたらめに話しているとボロボロと涙があふれてくる。
「あー……誤解させるタイミングだったか。もちろんそれが直接の引き金だけれど。あの時、君をこのまま失いたくないって、切実に思った。でも、後になってゆっくり考えると、それだけじゃないことにも気づいた」
「それだけじゃない?」
「瞳子が生きててくれるのは勿論だけど、この先も君と一緒にいたいって思った。前に俺に訊いたよな? 『借金返しおわったら、どうするの』って。その返事をしたつもりなんだ。先のことは分からないし人の気持ちは変わるけど、未来のことも踏まえて、俺は、君にこの指環をつけてもらいたい」
婚約ぐらいの意味に考えてくれていいよ、と彼はさらりと付け加えた。ただし、これは俺からの一方的なお願いだから、君が嫌になったときは解消して構わない、とも。
――そんな自分に不利なこと言わなくていいのに‼
嬉しいとか幸せとかよりも先に、申し訳ないのほうが先にたってしまう。
「いいんだよ、俺はそれで幸せなんだから」
恐縮しきっている彼女の考えを読んだかのように、飛豪は軽く笑った。ドライブ中に鼻歌をうたっているような調子で。
“Any question?(ほかに質問は?)”
“No...(ない……)”
痛いほどの沈黙が流れた。彼が待っている。自分が指環をはめるのを待っている。
――わたしは、どうしたい? 飛豪さんと、どうなりたい? 嘘はつきたくない。自分にも、彼にも。
やがて、俯いたまま瞳子は小声で言った。
「……ごめんなさい」
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