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《第9章》 オデュッセウスの帰還
彼女のタイミング
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指環を拒まれても、彼はその答えをあらかじめ知っていたかのように、穏やかだった。
「……うん」
声には、かすかに落胆の色がまじっていた。
「嬉しかったの。指環も嬉しかったんだけど、飛豪さんがわたしを好きだと言ってくれたのが一番嬉しかった。でも、すごく驚いたの。一昨日のことがあったばかりだから……」
「分かる。急かしてごめん」
「本当は、まだ怖い。……二人いる。わたしが好きなあなたと、わたしを脅かしてくるあなた。まだ混乱してる」
「…………」
「だから、時間をください。気持ちがもう少しおさまるまで」
「いいよ、ゆっくり考えて。これは俺の身勝手な押しつけだから、君は自分のタイミングで返事をくれていい」
目の前のジュエリーボックスに、彼の手が伸びてくる。回収するのだろう。そう思ったら、瞳子はブロックするように箱にさっと指をかけていた。
「お願い、持ってかないで! あの……ズルいのは分かってるんだけど、お借りしたまま悩んでいいですか? 今すぐに付けられないのは気持ちが一〇〇パーセントじゃないだけで、本当は、もっと……」
弁解するように言葉尻がしぼんでしまう。飛豪は焦っている彼女に、なごんだ表情を見せた。
「OK。なら、預かってて。俺も、そっちの方が気楽だわ」
「……はい」
その夜、瞳子は眠るときベッドのなかで指環の箱をひらいた。オフホワイトのクッションには、凛とした静かな佇まいで銀の指環が二つおさまっている。シンプルな意匠があまりにも美しくて、呼吸がとまる。
――綺麗。あの時、サクッと指にはめちゃえば良かったんだろうけど……ごめんね。
指環にたいして、謝ってしまう。
嬉しいのに胸が痛む。これはどういう感情なのだろう。まだ、心がざわざわとしていて気持ちが落ちつかなかった。
眠ればいい。眠って、時がたてば、やがて胸のうちのさざ波も消えて、水面はなだらかになるはずだ。その時にまた、自分の心と彼の心を水面のなかに覗きこめばいい。
――おやすみなさい。明日もわたしの傍にいて。
指環に囁きかけて、蓋をとじる。箱を枕元に置いたまま、瞳子は眠りについた。
* * *
彼女なしでこの先の人生を送れない。送りたくない。それは直観だった。
九月一三日の深夜、出血が止まらないままぐったりとしている彼女を助手席にのせて運転しながら、突如として飛豪はそう思った。
認めてしまうと、とたんに気持ちが軽くなった。
今までずっと目をそむけて彼女の好意に気づかないふりを続けていたのは、債権者の立場で債務者に首ったけになってしまう都合のいい自分を許せなかったからだ。
性的に喰ってしまうのみならず本気になってしまったら、ビジネスとして主義に反する。彼女からは、利息つきで取り立てをしなければならないのだから。
――『ビジネス』って言っても、俺、最初からこの子に参ってたよな。手加減しまくってたし、要所要所で甘やかす口実を探してたし。
加えて、一年後か二年後には日本を離れようとしている自分の現実と、やっかいな過去、暗部をかかえる実家ときては、巻きこんでしまうのも気が引けた。
要するに、いつでも彼女を手ばなせるようにしておきたかったのだ。その程度の軽い存在に留めておきたかった。
なのに無自覚で無頓着な彼女は、飛豪のすべてをやすやすと搔きまわしていった。
結果、彼女のほうが病院搬送となり、彼は長年の病が快方に向かいつつある。このままだと、生き方までもが根こそぎ変えられてしまいそうな雲行きだった。
「……うん」
声には、かすかに落胆の色がまじっていた。
「嬉しかったの。指環も嬉しかったんだけど、飛豪さんがわたしを好きだと言ってくれたのが一番嬉しかった。でも、すごく驚いたの。一昨日のことがあったばかりだから……」
「分かる。急かしてごめん」
「本当は、まだ怖い。……二人いる。わたしが好きなあなたと、わたしを脅かしてくるあなた。まだ混乱してる」
「…………」
「だから、時間をください。気持ちがもう少しおさまるまで」
「いいよ、ゆっくり考えて。これは俺の身勝手な押しつけだから、君は自分のタイミングで返事をくれていい」
目の前のジュエリーボックスに、彼の手が伸びてくる。回収するのだろう。そう思ったら、瞳子はブロックするように箱にさっと指をかけていた。
「お願い、持ってかないで! あの……ズルいのは分かってるんだけど、お借りしたまま悩んでいいですか? 今すぐに付けられないのは気持ちが一〇〇パーセントじゃないだけで、本当は、もっと……」
弁解するように言葉尻がしぼんでしまう。飛豪は焦っている彼女に、なごんだ表情を見せた。
「OK。なら、預かってて。俺も、そっちの方が気楽だわ」
「……はい」
その夜、瞳子は眠るときベッドのなかで指環の箱をひらいた。オフホワイトのクッションには、凛とした静かな佇まいで銀の指環が二つおさまっている。シンプルな意匠があまりにも美しくて、呼吸がとまる。
――綺麗。あの時、サクッと指にはめちゃえば良かったんだろうけど……ごめんね。
指環にたいして、謝ってしまう。
嬉しいのに胸が痛む。これはどういう感情なのだろう。まだ、心がざわざわとしていて気持ちが落ちつかなかった。
眠ればいい。眠って、時がたてば、やがて胸のうちのさざ波も消えて、水面はなだらかになるはずだ。その時にまた、自分の心と彼の心を水面のなかに覗きこめばいい。
――おやすみなさい。明日もわたしの傍にいて。
指環に囁きかけて、蓋をとじる。箱を枕元に置いたまま、瞳子は眠りについた。
* * *
彼女なしでこの先の人生を送れない。送りたくない。それは直観だった。
九月一三日の深夜、出血が止まらないままぐったりとしている彼女を助手席にのせて運転しながら、突如として飛豪はそう思った。
認めてしまうと、とたんに気持ちが軽くなった。
今までずっと目をそむけて彼女の好意に気づかないふりを続けていたのは、債権者の立場で債務者に首ったけになってしまう都合のいい自分を許せなかったからだ。
性的に喰ってしまうのみならず本気になってしまったら、ビジネスとして主義に反する。彼女からは、利息つきで取り立てをしなければならないのだから。
――『ビジネス』って言っても、俺、最初からこの子に参ってたよな。手加減しまくってたし、要所要所で甘やかす口実を探してたし。
加えて、一年後か二年後には日本を離れようとしている自分の現実と、やっかいな過去、暗部をかかえる実家ときては、巻きこんでしまうのも気が引けた。
要するに、いつでも彼女を手ばなせるようにしておきたかったのだ。その程度の軽い存在に留めておきたかった。
なのに無自覚で無頓着な彼女は、飛豪のすべてをやすやすと搔きまわしていった。
結果、彼女のほうが病院搬送となり、彼は長年の病が快方に向かいつつある。このままだと、生き方までもが根こそぎ変えられてしまいそうな雲行きだった。
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