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《第9章》 オデュッセウスの帰還
帰りたかった場所
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おそらく彼女は、損得だとか他人の思惑だとか、深く考えていない。
感覚のまま、彼女なりのベストの選択をしただけなのだろう。自分の命でさえも「約束だから」の一言で投げ捨てようとしたのは、飛豪にとっては余りにもあり得ないことなのだが、彼女のロジックでは、それが自然なことなのが恐ろしい。
あの時、あらゆることが大きく動いた。苛まれつづけていた一〇年前の恋人の「お前のせいだ」という言葉や、内側に巣食っていたもう一つの人格が根本から大きく揺さぶられた。
ただそれ以上に、「この子を失いたくない」という思いが強烈すぎた。
今までは拮抗していた、彼女を守らなければ、という心の動きと、彼女を苦しめたい、傷つけたい、という暗い欲求のバランスが、一気に崩れた。まるで雪崩をうったようにして、瞳子を守る方へと意識が塗りかえられていった。
――あいつが自分で自分の身を守らないから、俺がそうしないと収拾がつかなくなる、というか。
歯切れが悪いのは、被害者、加害者としての両方の意識が彼にあるからだ。
まだ傷は癒えていない。
人格にまで亀裂をいれたPTSDも、もう一つの人格も、一生消え去ることはない。ただ、共存できるところまで、コントロールできそうな程度にまでは傷口が封じられたのを感じている。被害者としての自分と、加害者としての自分もまた、折り合いを付けなければならない。
理性的な人間のならいとして、彼は自分の心理状態とつぶさに向きあってはいたが、第一の優先事項は別にあった。
あの夜、暴れる彼女を押さえこんだ時に全身を駆けめぐっていった感覚を、飛豪はありありと思いだせる。
――あぁ、久しぶりにこの子をちゃんと抱きしめた気がする。
子供のようにあたたかな肌や、柔らかい体、ほのかに漂ってくる甘い香りを味わった。
すると、幾多の海や島々をこえる長い航海から帰還して、困難な旅路の果てにようやく家の扉をひらいた時に似た気分がした。あるべき場所におさまった感覚。帰りたかった場所にようやく辿りつけたという、安堵と解放感。
その安らぎを与えてくれたのは、彼女に他ならなかった。
――もう手放せないな。
一度決めると、迷いはなかった。
愛しいかと訊かれれば、よく分からない。
どうしようもなく惹かれて、時々腹がたって、予想外の行動にハラハラさせられて、身近にいるとちょっかいを出して撫でまわしたくなって、笑顔をむけてくれると満たされた気がしていた。そして、自分だけで永遠に独りじめしておきたくなる存在。それが、李飛豪にとっての青柳瞳子だった。それを愛というのであれば確かに愛なのだろう。
不安要素はいくつもあるが、彼女を失うことと比べるとどれも大したことはなかった。
ならば、先に彼女を確保してから解決していけばいい。そう、「確保」しなければならない。あれだけの事をしてしまったのだ。今の自分は、ひざまずいて彼女の赦しを乞うしかない。
気が急くままに、指環を買っていた。人生が大きく変わったこの日を忘れないように。一生をかけて彼女と向きあい、大切にしていけるように、決意をこめて。
指環を渡したときの彼女の戸惑いに、飛豪もつられて動揺してしまったが「早まった」とは思わなかった。これは彼の人生で必要事項であり、決定事項だった。ただ、彼の事情に彼女が合意してくれるかどうかはまた別の問題である。
――指環、受け取ってもらえただけで今は充分だ。まずは、信頼関係のつくり直しをしないと。
病院から戻ってきた瞳子が、夕刻の長い会話の後にさっさと自室に引っ込んでしまったので、飛豪は一人リビングでちびちび赤ワインを啜っていた。
出張の前までは夕飯で飲んで、食後に二人でソファでのんびりする所までが余裕のある日の定番コースだったのだが、一か月間それも無かった。正確には、後半二週間は彼の方から避けていた、と言うべきなのだが。
――あの子を抱きしめたいな。
彼女が生きて呼吸をしていて、一緒に暮らしていて、自分の名前を呼んでくれる。ありふれた日々だったのに、いつの間にかかけがえのないものになっていた。
失ったものと手にしたもの、過去と現在、自分の感情と彼女の感情がないまぜになって胸に去来する。
すべてを飲みくだすように飛豪はグラスを傾け、一気に残りを流しこんだ。
感覚のまま、彼女なりのベストの選択をしただけなのだろう。自分の命でさえも「約束だから」の一言で投げ捨てようとしたのは、飛豪にとっては余りにもあり得ないことなのだが、彼女のロジックでは、それが自然なことなのが恐ろしい。
あの時、あらゆることが大きく動いた。苛まれつづけていた一〇年前の恋人の「お前のせいだ」という言葉や、内側に巣食っていたもう一つの人格が根本から大きく揺さぶられた。
ただそれ以上に、「この子を失いたくない」という思いが強烈すぎた。
今までは拮抗していた、彼女を守らなければ、という心の動きと、彼女を苦しめたい、傷つけたい、という暗い欲求のバランスが、一気に崩れた。まるで雪崩をうったようにして、瞳子を守る方へと意識が塗りかえられていった。
――あいつが自分で自分の身を守らないから、俺がそうしないと収拾がつかなくなる、というか。
歯切れが悪いのは、被害者、加害者としての両方の意識が彼にあるからだ。
まだ傷は癒えていない。
人格にまで亀裂をいれたPTSDも、もう一つの人格も、一生消え去ることはない。ただ、共存できるところまで、コントロールできそうな程度にまでは傷口が封じられたのを感じている。被害者としての自分と、加害者としての自分もまた、折り合いを付けなければならない。
理性的な人間のならいとして、彼は自分の心理状態とつぶさに向きあってはいたが、第一の優先事項は別にあった。
あの夜、暴れる彼女を押さえこんだ時に全身を駆けめぐっていった感覚を、飛豪はありありと思いだせる。
――あぁ、久しぶりにこの子をちゃんと抱きしめた気がする。
子供のようにあたたかな肌や、柔らかい体、ほのかに漂ってくる甘い香りを味わった。
すると、幾多の海や島々をこえる長い航海から帰還して、困難な旅路の果てにようやく家の扉をひらいた時に似た気分がした。あるべき場所におさまった感覚。帰りたかった場所にようやく辿りつけたという、安堵と解放感。
その安らぎを与えてくれたのは、彼女に他ならなかった。
――もう手放せないな。
一度決めると、迷いはなかった。
愛しいかと訊かれれば、よく分からない。
どうしようもなく惹かれて、時々腹がたって、予想外の行動にハラハラさせられて、身近にいるとちょっかいを出して撫でまわしたくなって、笑顔をむけてくれると満たされた気がしていた。そして、自分だけで永遠に独りじめしておきたくなる存在。それが、李飛豪にとっての青柳瞳子だった。それを愛というのであれば確かに愛なのだろう。
不安要素はいくつもあるが、彼女を失うことと比べるとどれも大したことはなかった。
ならば、先に彼女を確保してから解決していけばいい。そう、「確保」しなければならない。あれだけの事をしてしまったのだ。今の自分は、ひざまずいて彼女の赦しを乞うしかない。
気が急くままに、指環を買っていた。人生が大きく変わったこの日を忘れないように。一生をかけて彼女と向きあい、大切にしていけるように、決意をこめて。
指環を渡したときの彼女の戸惑いに、飛豪もつられて動揺してしまったが「早まった」とは思わなかった。これは彼の人生で必要事項であり、決定事項だった。ただ、彼の事情に彼女が合意してくれるかどうかはまた別の問題である。
――指環、受け取ってもらえただけで今は充分だ。まずは、信頼関係のつくり直しをしないと。
病院から戻ってきた瞳子が、夕刻の長い会話の後にさっさと自室に引っ込んでしまったので、飛豪は一人リビングでちびちび赤ワインを啜っていた。
出張の前までは夕飯で飲んで、食後に二人でソファでのんびりする所までが余裕のある日の定番コースだったのだが、一か月間それも無かった。正確には、後半二週間は彼の方から避けていた、と言うべきなのだが。
――あの子を抱きしめたいな。
彼女が生きて呼吸をしていて、一緒に暮らしていて、自分の名前を呼んでくれる。ありふれた日々だったのに、いつの間にかかけがえのないものになっていた。
失ったものと手にしたもの、過去と現在、自分の感情と彼女の感情がないまぜになって胸に去来する。
すべてを飲みくだすように飛豪はグラスを傾け、一気に残りを流しこんだ。
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