青柳さんは階段で ―契約セフレはクールな債権者に溺愛される―

クリオネ

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《第9章》 オデュッセウスの帰還

ボーナスステージ

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 先刻つけた照明の光に戸惑ったかのように、彼女は身をよじった。緩慢なまばたきとともに、その長い睫毛がしぱしぱと上下している。

「起きた?」

 彼はなんとなく瞳子の額に手をやった。

「……ん。飛豪さんだ……」

「まだ寝ぼけてる顔してる」

「ごめん……怒ってる?」しおらしげに彼女は謝る。

「なんで?」

「わたし、最近寝てばっかだから。そっちは仕事してるのに……」

「俺の仕事? 全然気にしてないけど。怪我してるんだから回復で眠くなるのは当たり前だろ」

「飛豪さんが優しいと、天変地異の前フリみたいでコワい」

「お、そろそろ調子でてきた?」

 無邪気に憎まれ口をたたいてきた彼女の頬を、彼は軽くつねった。

いひゃい」

「こんな狭いとこで寝てないで、寝るなら自分の部屋にしろよ。いつかソファから落ちる」

「でも……」

「ん?」

「自分の部屋だと一人だけど、リビングだと時々こうやって一緒いてくれるじゃん。目がさめたときにあなたが隣にいると、すごく嬉しい」

 わたしにとってはボーナスステージなの、と瞳子が幸せそうにはにかんだので、飛豪はつい魔がさす。まだ言うべきではないことを口にしてしまった。

「それはさ、この前の返事と考えていいわけ? OKだすってこと?」

「んーと、まだです。もうちょっと」

 彼女は小鳥のような可愛らしさで首をかしげながら、保留状態を延長した。悪女? 小悪魔? そんなんじゃ足りない。魔性だ。

「人にお預けくらわせといて、自分は熟睡して……」

「ケガ人の特権ですー」口調が小学生男子そのものの生意気さだ。

 彼女は下から腕を伸ばしてきて、Tシャツを掴んでくる。催促されている気がして飛豪が身をかがめると、瞳子は「ふふふ」と笑いながら、ふにふにと彼の頬をつねってきた。

「お返し。いつもされてばっかだから」

 心おきなく眠って充足しているせいか、はたまた目覚めたときに彼がいたのが本当に嬉しかったのか、彼女は血色がよく、屈託なくじゃれかかってきた。いつもの寝起きは、棺桶から叩きだされた吸血鬼みたいな酷い顔をしているというのに。

 顔にひたひたと触れてくる細くやわらかな指の感触に、飛豪の内側の電圧がぐっと高まる。

 この指をしゃぶって唾液まみれにして、思わせぶりに流し目をくれてやったら、彼女の顔は羞恥で真っ赤に染まることだろう。そして……。

 抱きしめたい。うなじを噛んでやりたい。肌を撫ぜたい。裸にして組み敷きたい、啼かせたい。

 なのに、出来ない。それをしてしまったら、スタート地点どころか予選落ちが確約されてしまう。

 欲しいのはこの一時間の快楽じゃない。この先長い時間の彼女のすべてだ。瞳子自身の意志で手をとってもらわないと意味がない。

 ――試されてる。俺の理性が試されてる。

 今は我慢のコマンド一択だ。熱をもって硬くなりはじめている下半身を鎮めるため、飛豪は頭のなかで「白亜紀、ジュラ紀、三畳紀、ペルム紀、石炭紀、デボン紀……」と、中生代から古生代へと遡ってゆく。一方で、無邪気に体をすり寄せてくる彼女にはデコピンをしてやった。

「あぅ。飛豪さん乱暴」

 額をおさえて仏頂面をしている瞳子をおいて、彼はアクアパッツァを作るため解凍していたスズキの状態を見に、キッチンへと逃げこんだ。







 病室では、薬品のにおいと死臭一歩手前のえたにおいが奇妙に共存していた。

 ――もう長くないな。年内、か。覚悟しておかないと。

 土気色をした藤原の顔を見た瞬間、飛豪はつい、過去の桎梏しっこくからときはなたれて新しい場所に行こうとしている自分を申し訳なく思った。

 物心つくかつかないかの頃から世話になってきている人の命の終わりに、なにも感じないわけがない。ただ、なにを感じているかというと、自分でもよく分からない。

 死とは、真っ黒な扉だ。

 その扉は突如として目の前に現れることもあれば、こうして誰かの姿に重なることもある。扉のノブに手をかけると、いつも好奇心と戦慄をおぼえる。一度扉をひらいてしまったら、後戻りはできない無の世界。首筋に氷のかたまりを押しつけられたような気がした。

 ――自分は、瞳子を扉の向こう側に追いやるところだった。

 病室に入ったきり、上手く挨拶できないでいる飛豪に、何本ものチューブに繋がれたままの藤原は、横たわったまま横柄な視線をよこしてきた。
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